南北朝時代に制作されたと伝わる「短刀 銘 吉貞」は、「水戸徳川家」に伝来した1振です。同家は江戸幕府の開府後、幕府によって常陸国水戸(ひたちのくにみと:現在の茨城県水戸市)に移された徳川家の一族であり、「尾張徳川家」や「紀州徳川家」と共に「徳川御三家」のひとつに数えられる名門中の名門。時代劇「水戸黄門」でお馴染みの水戸藩2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)も、水戸徳川家の出身です。ここでは、吉貞が伝来した水戸徳川家と水戸藩に焦点を当てつつ、吉貞の歴史や特徴について解説します。
1600年(慶長5年)に勃発した天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」に勝利した「徳川家康」は、1603年(慶長8年)に江戸幕府を開きました。これ以降、約260年もの間、徳川政権により、太平の世がもたらされたのです。その背景には、開府後の17世紀中期頃に成立した、特殊な支配体制が挙げられます。
この当時、全国でおよそ200の大名が「徳川将軍家」と主従関係を結び、1万石以上の領地が与えられました。そして、大名達は開府を境に3つの種類に分けられます。その内訳は「徳川家」の一族や分家、すなわち「水戸徳川家」が含まれる「親藩」(しんぱん)、関ヶ原の戦い以前から、代々徳川家に仕えていた「譜代」(ふだい)、関ヶ原の戦い以降に徳川家の家臣となった「外様」(とざま)です。
外様大名は、幕府にとって潜在的な脅威でした。そこで、幕府は様々な施策を講じ、その一例としては、外様大名が下賜された石高の高さがあります。幕府は親藩大名や譜代大名だけではなく、外様大名を満足させるために、あえて広めに領土を与えたのです。1664年(寛文4年)時点で幕府は、外様大名である伊達家には56万石、前田家には103万石の領地を与えています。
これに対して、親藩大名である水戸徳川家には24万石、尾張徳川家に62万石、紀州徳川家には56万石というように、外様大名は親藩大名と同等、もしくは親藩以上の石高を数える大名も多かったのです。一方で親藩大名や譜代大名には、石高の代わりに権力を与え、幕閣は親藩や譜代出身の者で固めました。
しかし、外様大名に領土を与えて満足させても、謀反の脅威は排除しきれません。そのため、外様大名の脅威を察知し阻止する必要がありました。
幕府は、水戸が東北の外様大名の脅威を阻止できる要所と判断。
1609年(慶長14年)、徳川家康の十一男「徳川頼房」(とくがわよりふさ)が、25万石で「水戸城」(現在の茨城県水戸市)に封じられ、これが水戸徳川家の始まりとなったのです。
非常に格式高い家柄である徳川御三家のひとつ、水戸徳川家のなかで最も著名な人物と言えば、時代劇「水戸黄門」のモデルとなった水戸藩2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)です。
徳川光圀は1628年(寛永5年)、初代藩主・徳川頼房と水戸藩士の娘「谷久子」(たにひさこ)のちの「久昌院」(きゅうしょういん)との間に生まれました。
実は徳川光圀が生まれる前、徳川頼房が家臣「三木仁兵衛」(みきにへえ) に対して、久子の堕胎を命じていたのです。堕胎を命じた理由は定かではありませんが、のちに徳川光圀自身がこの理由について、母・久子に勢力がなかったからではないかと語っています。
堕胎を命じられた三木仁兵衛は、非常に慈悲深く「人の命ほど大切なものはない」として、徳川光圀を殺すことはしませんでした。そののち、徳川光圀は三木夫妻によって密かに育てられたのです。
徳川光圀が少年になると、三木夫妻が隠してきた出生前の事実を知り、非常にショックを受けました。このことが要因となったのか、徳川光圀は三味線を弾き、自分でデザインした装束を派手な色に染めさせ、江戸の町を練り歩く「傾奇者」(かぶきもの)となってしまったのです。
しかし、そんな徳川光圀の心境に変化が訪れます。徳川光圀の「傅役」(ふやく/もりやく:貴人の子どもを世話する養育係)であった「小野角右衛門」(おのかくえもん)の教育により、徳川光圀は中国の偉人の言葉に興味を持ち始めたのです。徳川光圀は、中国における最初の正史(せいし)「史記」(しき)を読み始めたことで考え方を変え、不良行為をやめて人民を慈しみ、統率するための知識や技術を学び始めました。
1661年(万治4年/寛文元年)父・徳川頼房が死去すると、徳川光圀は水戸藩の2代藩主となります。そして徳川光圀は、主君が亡くなった際にその家臣が後追い自殺をする、いわゆる「殉死」を即座に禁じました。その結果、先代の徳川頼房の没後に殉死した者はいなくなります。徳川光圀は、人命尊重の考え方も大切にしていたのです。
そして1690年(元禄3年)、徳川光圀は、63歳で藩主の座を退いて隠居生活に入り、歴史書「大日本史」の編さんに本腰を入れるようになります。
隠居する前の徳川光圀は、「愛民」の思想を大切にして善政を敷き、領民達から厚い信頼を寄せられていた藩主でした。そのため水戸藩の領民は、徳川光圀の官位が「中納言」(ちゅうなごん:唐名[黄門])であったことから「黄門様」と呼んで慕っていたのです。
徳川光圀が1701年(元禄13年)に亡くなったあとも、大日本史の編さんは水戸藩の私的事業となり、200年ほど継続されました。そして大日本史は長い制作期間を経て、1906年(明治39年)にようやく完成したのです。
水戸藩では徳川光圀が始めた大日本史が、「水戸学」の基礎となりました。水戸学とは、「朱子学」や「神道」、「国学」などを取り入れながら「権力」について取り扱う、水戸藩で成立した学派です。
また、この水戸学は水戸徳川家自体の思想にも影響を与えています。幕末時代の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、強硬な「攘夷派」(じょういは:外敵を打ち払い、国内に入れないようにする思想)であり、開国を推し進めた「井伊直弼」(いいなおすけ)と激しく対立。
1860年(安政7年/万延元年)には、「井伊直弼」が水戸藩士によって暗殺された「桜田門外の変」が起こっています。
一方でこの頃の水戸藩内は、江戸幕府の存続を支持する「佐幕派」(さばくは)と、天皇を尊び、外国を排斥する「尊王攘夷派」(そんのうじょういは)に分裂。そして、そのままの状況で明治維新を迎えました。水戸藩で成立した水戸学が、幕末の日本を変える引き金となり、明治時代の新しい日本を築く礎(いしずえ)となったのです。
本短刀を制作した「吉貞」(よしさだ)は、南北朝時代に筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)で栄えた「左文字派」(さもんじは)の刀工です。「左文字」の銘は、作刀の際、茎(なかご)に「左」の一字を切ることが由来。吉貞の父は、刀剣史上で最も有名な名工「正宗」(まさむね)の門人「左安吉」(さのやすよし)、あるいはその子である「2代安吉」であったと伝えられています。
本短刀は、地刃共に沸(にえ)が強く付き、匂口(においぐち)が明るく冴えているところが特徴。吉貞の作風がよく表れており、健体を保つ1振です。