室町時代になると、これまでの鎌倉文化に庶民や禅宗の文化が融合し、室町時代独自の文化が形成されていきました。室町時代の文化は、足利義満の頃に開花した「北山文化」、足利義政の頃に栄えた「東山文化」、北山文化より以前の「南北朝文化」に分かれています。そして、新しく「茶の湯」や「生け花」、「能・狂言」といった、日本の伝統文化が誕生しました。
そんな室町時代の文化について、詳しくご紹介します。
南北朝文化は、1336年(延元元年)から1392年(明徳3年)までの57年間のことを指します。この頃はまだ、武家社会で動乱の時代であったことから、歴史上の合戦を題材とした「軍記物語」や、実際の歴史を物語風に書いた「歴史物語」を中心とした文学が多く見られました。
南北朝文学の代表作としては、歴史物語の「増鏡」(ますかがみ)や、北畠親房(きたばたけちかふさ)の「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)などがあり、軍記物語として有名な「太平記」もこの時期に書かれています。
また南北朝文化では、和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を複数人で交互に作り、ひとつの詩になるように競い合う「連歌」が誕生し、代表作としては、二条良基(にじょうよしもと)によって撰集された「菟玖波集」(つくばしゅう)が有名です。
この他にも、滑稽な物真似をする「猿楽」(さるがく)と呼ばれる演芸が誕生し、各地で茶の栽培が進んだことから、「茶寄合」(ちゃよりあい/喫茶をしながら会合すること)が武士や庶民の間で流行りました。
北山文化は、14世紀末から15世紀前半までの室町時代初期の頃、公家文化と武家文化に、禅宗が新しく融合した文化です。3代将軍「足利義満」が、京都北山に営んだ「北山殿」を中心に栄えました。
臨済宗の禅僧だった「夢窓疎石」(むそうそせき)によって、武家社会にも臨済宗の教えが取り入れられます。それまでの優美で華やかな公家文化に、禅宗の質素な文化が反映されるようになりました。
北山文化を象徴する建物と言えば、「金閣寺」(鹿苑寺)です。貴族の「寝殿造」に、武家の風格と禅宗の落ち着きが見事に融合されています。
この他にも、鎌倉時代に日本へ持ち込まれた「山水画」(山や水などの自然を題材とした絵画)をもとに、「水墨画」(墨を水で薄め、濃淡やぼかした絵画)が誕生した他、申楽師(さるがくし)であった「観阿弥」(かんあみ)や「世阿弥」(ぜあみ)の活躍により、能・狂言がさらに発展。これにより、武将の多くが自身で能を舞い、囃子(はやし/拍子を取り雰囲気を高めるために添える音楽)をたしなむようになり、能の曲のほとんどは、この時代に作られたと言われています。
東山文化は、室町時代中期の文化を指し、8代将軍「足利義政」が築いた京都の東山山荘「銀閣寺」(慈照寺)を中心に、公家や武家、禅僧らの文化が融合して生まれた文化です。
東山文化は、禅の「簡素な物に美しさを見出す」という精神に、日本の美意識のひとつである「侘」(わび/閑寂な趣)や「幽玄」(ゆうげん/趣が深く味わいが尽きないこと)を特徴としており、それを最も表しているのが銀閣寺と言えます。
また絵画においては、中国(明)で絵の技術を学んだ「雪舟」(せっしゅう)が水墨画をさらに発展させ、日本独自の水墨画を作り上げました。代表的な作品としては、「四季山水図」や「秋冬山水図」、「天橋立図」があり、国宝に指定されています。
この他にも、茶人「村田珠光」(むらたじゅこう)によって、侘びの精神を重んじた「侘茶」(わびちゃ)と言われる茶道が登場。日本の伝統文化である茶道の基礎が作られ、「枯山水」と言われる石の組合せや地形の高低などによって、山水の趣を表した庭園もこの頃に造られました。
室町時代になると、今まで神社などで行なっていた「猿楽能」と、民衆が豊作を祈るための「田楽」が融合した能へと発展しました。
能の原型は諸説ありますが、推古天皇の時代に隋から伝わった「呉楽」(くれがく)や、奈良時代に唐から伝わった「散楽」(さんがく/物真似や軽業・曲芸など)が能の起源とされています。
能の座(劇団)の中から、父「観阿弥」とその息子「世阿弥」が登場したことによって、能は芸術的な演劇として大成し、能の基礎を作り上げました。
観阿弥は、鎌倉時代に誕生した猿楽能に、「舞」の要素を加えた「幽玄」へと発展。世阿弥は、昔からある演目を当世風にアレンジし、公家などの好みに合わせた華麗な芸風に変化させるなど、能をさらに発展させていきました。
狂言は、物真似芸が発展してできた台詞劇のことで、今で言う吉本新喜劇のようなお笑い要素溢れる「喜劇」です。
その起源は奈良時代にまで遡り、中国から散楽と呼ばれる芸能文化が日本に渡ってきたのが始まりとされています。
その後、散楽は一般庶民の間に広く伝わり、散楽が訛って猿楽となり、それが狂言の元祖になりました。
観阿弥は、「女曲舞師」(おんなくせまいし)や「乙鶴」(おとづる)に舞を学び、これを猿楽に取り入れて、今までになかった芸風を作り上げたのです。
能と狂言の違いは、能は面を付け、歴史上の人物や神話などを題材にしたミュージカル色の強い演劇であるのに対し、狂言は面を付けず、素顔で演じるコミカルな演劇のことを言います。
水墨画はその名前の通り、一色の墨で濃淡を表し、ぼかしで色彩感を出して情景を描写する画風です。室町時代には、禅宗の寺を中心として発展しました。
室町時代の水墨画家として代表的な人物が、「周文」(しゅうぶん)と雪舟です。周文は、相国寺の僧侶であり、室町幕府の絵師でもあります。周文は、中国で「山水画」を学び、日本独自の山水画である「水墨山水画」を生み出しました。
また、周文の弟子であった雪舟は、水墨画の本場であった中国で修業し、日本画の型にはまらない独自の画風を確立。雪舟の水墨画の多くは、重要文化財や国宝に定められており、水墨画で最も有名な絵師と言えるでしょう。
代表的な作品として、「東京国立博物館」所蔵の「秋冬山水図」(しゅうとうさんすいず)や「破墨山水図」(はぼくさんすいず)、「京都国立博物館」所蔵の「黄初平図」(こうしょへいず)や「天橋立図」(あまのはしだてず)があります。
枯山水は、その名前の通り、水が一切使われていない庭園のことを言います。池がなく、岩や石をメインに造られた質素な庭園で、室町時代に発展しました。室町文化らしく、華美でない質素な雰囲気の庭園は、現代でも多くの人の心を落ち着かせています。
代表的な庭園は、「龍安寺」の方丈石庭(ほうじょうせきてい)です。龍安寺の方丈石庭は、長方形の形をしており、その中に白色を基調とした砂が敷き詰められ、趣のある岩が置かれています。
また、大徳寺の「大仙院書院庭園」も室町時代の枯山水を代表する庭園です。わずか30坪の庭園に、岩や木、砂が遠近法を利用してバランスよく配置されており、「禅院式枯山水庭園の最高傑作」とも言われています。
抹茶を飲む習慣(喫茶)は、鎌倉時代の初めの頃、中国へ留学した「栄西」(えいさい)によってもたらされました。始めは、寺院や特権階級の公家を中心に普及。その後、武家階級の間でも広まったことにより、茶道の基盤が築かれました。
鎌倉時代後半には、お茶の種類や産地を当てる「茶歌舞伎」(ちゃかぶき)や、各地の茶を飲み当てる「闘茶」(とうちゃ)という遊びが流行します。
室町時代になると、第8代将軍「足利義政」が、禅宗の教えを取り入れた「書院の茶」を開くようになり、中国から輸入された美術工芸品を飾り立てた座敷で、茶道具を鑑賞しながらお茶を飲む茶会が多く開かれました。
京都・東寺南大門の門前でも、お茶商人がお茶を売る「一服一銭」が登場。武士や庶民にも喫茶が広まり始め、飲茶のために会合する「茶寄合」は、人々の娯楽として親しまれます。
室町時代中期になると、茶人である「村田珠光」によって、華美な道具の使用を控え、簡素静寂な環境を重んじた「侘茶」(わびちゃ)が始まり、茶会は落ち着いた場へと変わっていきました。
これまでは、仏前や机の上といった場所に置かれていた花ですが、室町時代になると、「書院造り」と呼ばれる建築様式が生まれました。「池坊専慶」(いけのぼうせんけい)と言う僧侶が、武家屋敷で花を挿したことが人々の間で評判となり、季節の花を花瓶に挿した「生け花」が誕生。客人をもてなす武家屋敷の床の間には、生け花が置かれるようになりました。
室町時代後期には、京都頂法寺の僧であり、立て花作家であった「池坊専応」(いけのぼうせんおう)が、器の上に自然のままの姿を表現する「立花」(りっか)という生け花のスタイルを確立。朝廷にもよく用いられたことから、立花界の主流となるきっかけを作りました。
「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に書かれた歴史を論じた書物です。著者は、南北朝時代の武将である「北畠親房」(きたばたけちかふさ)で、北軍と南軍の戦いの最中に、城中で神皇正統記を執筆しました。
力強い文章でありながらも簡潔に書かれた神皇正統記は、人々に広く読まれ、その歴史論は近代にも大きな影響を与えています。
室町時代には、「御伽草子」(おとぎぞうし)と呼ばれる童話のような短編小説が広まりました。御伽草子には、童話のような空想的な作品が多く見られ、代表的な作品として「太平記」が知られています。太平記には、後醍醐天皇の倒幕計画から南北朝時代の抗争の様子までが描かれています。
太平記は「平家物語」の影響を受けた軍事物語ですが、歴史書として人々に読まれただけではなく、のちの芸能文化にもインパクトを与えることになりました。
これまでの和歌は、「五・七・五・七・七」をひとりの人が詠んでいました。室町時代に登場した「連歌」は、ひとりが「五・七・五」を詠んだのち、次の人が「七・七」を詠み、さらに次の人が「五・七・五」を詠みます。
最初は、庶民の間で流行した連歌でしたが、歌人である「二条良基」(にじょうよしもと)が連歌を広めてからは、武士の間でも楽しまれるようになり、室町時代の代表的な文化となりました。
鎌倉時代・室町時代の連歌が集められ、二条良基によって編纂された連歌集が「菟玖波集」(つくばしゅう)です。公家や武家、僧侶など多くの人から集められた2,190句の連歌が記載されています。
連歌の歴史の中で、「菟玖波集」と並んで重要なのが「新撰菟玖波集」(しんせんつくばしゅう)です。これは、室町時代の連歌師である宗祇(そうぎ)を中心として編纂され、約60年の間の2,000句が収められています。
「応安新式」(おうあんしんしき)は、「連歌新式」とも言い、二条良基によって編纂された連歌式目です。連歌式目とは、連歌の守るべきルールを箇条書きに記した、現代で言うところのルールブック。民衆の間で連歌が広まる中、連歌の調和と統制を図るために作られました。
応安新式の中では、「同じ表現を繰り返さない」と言うルールや、連歌の理念などが記されており、室町時代に制作された応安新式は、のちの連歌式目にも大きな影響を与えたと言われています。