江戸時代の生活

江戸時代の住宅(家)とは
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江戸時代の住宅(家)とは 江戸時代の住宅(家)とは
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徳川家康は江戸幕府を開くと、江戸を全国の政治、経済、文化の中心地にするため、「天下普請」と呼ばれる本格的な都市計画事業を開始します。また、身分制度を確立し、階級に応じて住む場所や住居の規模、形式まで細かく規定しました。そんな江戸時代における身分や建物について、詳しくご紹介します。

江戸時代の建物の特徴

「身分制度」の確立と「居住エリア」の区分

江戸幕府は、全国の大名達を、「親藩」(しんぱん/徳川直系一門や分家)、「譜代大名」(ふだい/関ヶ原の戦い以前からの直臣で1万石以上の大名)、「外様大名」(とざま/関ヶ原の戦い以降に徳川に従った大名)の3つのグループに分け、大名間の「身分制度」を確立しました。

さらに幕府は、大名達に領国と江戸とを1年ごとに行き来させ、一定の期間、妻子を人質として江戸に住まわせる「参勤交代制度」を強制し、藩の軍事力や経済力を低下させ、秩序を維持しようとします。

この参勤交代制度に伴い、幕府は全国から来る大名達の住居を江戸に用意し、上級家臣は城の近く、足軽などの下級武士は城の周辺部など、大名達の居住エリアを身分によって区別しました。

武士が居住した建物

武士の居住する建物に、新しく「数寄屋風書院建築」が登場します。数寄屋風書院建築とは、もともと「千利休」(せんのりきゅう)が造った草庵風の茶室から発展したもので、土壁を用い、柱と柱をつなぐ「長押」(なげし)を無くすなど、格式張らず、自由ですっきりしていたことから、多くの屋敷に採用されました。

また、武士が居住する建物は、身分や禄高(与えられる俸禄の額)によって、住居の場所や広さ、構造などが厳格に決められました。

大名屋敷(江戸藩邸)

大名屋敷

大名屋敷

「大名屋敷」とは、将軍直属の家臣で、参勤交代で江戸に参勤する大名に対し、幕府が与えた屋敷(借り物)のことを言い、別名「江戸藩邸」とも呼ばれています。

大名屋敷は、屋敷の用途と江戸城からの距離によって、「上屋敷」、「中屋敷」、「下屋敷」などに分かれており、大名の規模によっては、中屋敷、下屋敷を持たない場合や、上屋敷、中屋敷の他に複数の下屋敷を有する場合もありました。

大名屋敷のメインとなる上屋敷は、大名や妻子、藩士達の生活拠点となっており、政務を執る「御成書院」や「寝所」、妻子の生活の場である「奥御殿」が設けられ、その屋敷を取り囲むように、藩士達が暮らす「長屋」が配置されていました。

上屋敷
城の近くに建てられ、大名とその妻子が住む屋敷。
中屋敷
主に隠居した藩主や大名の世継ぎが住む屋敷。
下屋敷
郊外に建てられた大名の別荘。
抱屋敷(かかえやしき)
百姓などから土地を購入した私有地の屋敷。拝領した屋敷が火災に遭ったり、何らかの理由で幕府に屋敷を取り上げられたりした際の屋敷。
蔵屋敷
各藩の米や、特産物の売却用に置かれた倉庫兼販売拠点。

旗本屋敷

「旗本屋敷」は、将軍直属の家臣で、将軍に直接謁見する「御目見」(おめみえ)以上の格式がある大名に対し、幕府が与えた屋敷(借り物)のことを言います。

旗本屋敷は、家禄に応じて広さが分けられ(500~2,300坪)、家族や家老、用人などの家臣と共に暮らしていました。奉公人が住む長屋も用意されており、部屋数の多い広大な屋敷や庭のある屋敷や、旗本屋敷とは別に、郊外に「抱屋敷」を持つこともありました。

御家人屋敷

「御家人屋敷」とは、将軍直属の家臣で、将軍に直接拝謁する御目見の格式がない大名に対し、幕府が与えた屋敷(借り物)のことを言います。御家人の場合、職務上で同じ組に属する者にまとめて屋敷地が与えられたことから、「組屋敷」とも呼ばれています。

御家人屋敷は、それぞれ独立した屋敷を造りながらも集団で居住し、敷地や屋敷も小規模でした。町奉行所の与力の場合は、禄高120俵から230俵ほどで、屋敷は20坪から30坪程度の広さ。部屋は6畳間から8畳間の大きさで、3部屋から5部屋程度でした。なお、江戸に暮らした武士の7割が、この御家人屋敷に住んでいたと言われています。

足軽長屋

足軽長屋

足軽(下級の武士)は「組」単位で編成され、長屋に住んでいました。

これを「足軽長屋」と呼び、新潟県新発田市に、越後新発田藩の足軽長屋が現存しています。

茅葺き屋根で窓は少なく、1戸は間口3間、奥行き3間で、6畳板の間が2部屋を設けられ、ここに1家族が住んでいました。現代で言う合宿所のような住居で、門はありません。

町屋(商家)の住居

京都の町家

京都の町家

町屋(商家)は、幕府から町人に与えられた「町屋敷」というエリアに造られ、土地の私有や売買ができました。基本的に、武士(浪人を除く)が町屋に住むことは許されず、逆に町人が武士の家に住むこともできませんでした。

家屋は、柱を土中に埋め込む「掘立柱建物」から、台石の上に柱を組み立てる「礎石建物」へと変わり、火災防止のための瓦屋根、塗屋造などの町屋が登場。板敷きや畳の床が一般的になりました。

裕福な町人は、表通りに面した場所を借り、家を建てて暮らしていましたが、中堅の町人は、「表長屋」と言われる店と住居が一体化した2階建ての長屋を借り、間口が狭く奥行きの深い「うなぎの寝床」のような住居でした。

また、裏路地には1棟を仕切って数戸が住めるように造られた「裏長屋」があり、町人や職人、浪人などが住んでいました。裏長屋は、今で言うアパートのような賃貸契約の住居で、家賃は安く、居住スペースは4畳半から6畳程度、採光は玄関の一方向のみとなっていました。なお、このような町屋は、京都を中心に日本各地に残っており、古い町並みとして今も保存されています。

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