歴史と創作の狭間にある謎の存在「忍者」。戦国時代には、数多く実在したとされていますが、その実像は定かではありません。江戸時代には、「賊禁秘誠談」(ぞくきんひせいだん)に登場する「石川五右衛門」(いしかわごえもん)や「百地三太夫」(ももちさんだゆう)、同時代の読本(伝奇小説)や歌舞伎狂言に登場する「自来也」(じらいや)などが忍者として創作されました。
また、800年代に遣唐使として密教を持ち帰った空海をはじめ、実在した人物の中でも実は忍者だったのではないかと語られている人物もいます。創作上の忍者では物語や歌舞伎などで創作された忍者の他、歴史上に実在しながらも実は忍者であったとされている人物をご紹介します。
忍者が読本や狂言、浄瑠璃などの創作物に登場するようになったのは江戸時代から。一方で、その創作物には忍者と明記されて登場することは少ないものの、忍者らしき人物は度々登場します。
例えば、歌舞伎狂言「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)は、江戸時代の仙台藩(現在の宮城県仙台市)で起こったお家騒動「伊達騒動」(だてそうどう)をモデルに、時代設定を鎌倉時代に移した作品。
この作品に登場する「菅沼小助」(すがぬまこすけ)が、忍術のひとつである鼠の幻術で、陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)に置かれた軍政を司る役所「鎮守府」(ちんじゅふ)の旗を盗み出す姿が、忍者のように描かれています。
「石川五右衛門」(いしかわごえもん)を扱った歌舞伎や講談、浄瑠璃は数多く、盗賊でありながら義賊(国家や権力者には犯罪者として目されるが、大衆からは支持されている人物や集団)として、「賊禁秘誠談」(ぞくきんひせいだん)、「真書太閤記」、「絵本太閤記」などでは、忍者として描かれています。この3書の内容は、大同小異で、石川五右衛門の忍者物語が記されているのです。
石川五右衛門は、伊賀石川村(現在の三重県伊賀市阿山町)に生まれましたが、14歳で母、15歳で父を亡くしました。17歳の時に家や田畑を売り払い、忍者になるために伊賀忍者の上忍(忍者の司令官のような存在)百地三太夫のもとへ向かいました。
道中、「臨寛」(りんかん)という異人僧に出会い、忍術を1年半修行。その後、百地三太夫のもとへ行き修行を積みました。上忍となった石川五右衛門は伏見や京へ行き、体得した忍術を使って裕福な屋敷に忍び込んで盗みを働くようになります。
「豊臣秀吉譜」では、窃盗や強盗を繰り返す石川五右衛門に対し、豊臣秀吉は京都所司代(官庁の役人)らに捕縛を命じ、石川五右衛門とその仲間20人を捕らえたと言われています。
また別の説によると、石川五右衛門は豊臣秀吉の伏見城へ忍び込み、警護の侍を催眠術で眠らせて豊臣秀吉の寝床に近付き、名品「千鳥の香炉」(ちどりのこうろ)を盗もうとしました。
しかし、香炉が突然鳴り響き、騒ぎに駆け付けた「仙石秀久」(せんごくひでひさ)に捕らえられ、「山科言経卿記」(やましなときつねきょうき)では、その捕らえた石川五右衛門を油の煮えたぎった釜に入れ、仲間もろとも処刑したとしています。
史実では、日本に滞在していたスペイン人「アビラ・ヒロン」の報告書に石川五右衛門の処刑の様子が詳細に書かれています。この報告書を読んだイエズス会の宣教師「ペドロ・モレホン」が注釈を加え「油で煮えられたのはIxicavagoyemon(石川五右衛門)とその家族9~10人」と記述。モレホンは京都の修道院長も務めたことから、創作ではなく実在した盗賊・石川五右衛門を、創作物では描き直した可能性が高いとされています。
石川五右衛門の師匠である百地三太夫は創作名であり、「百地丹波」(ももちたんば)と同一人物と言われています。百地丹波は「藤林長門守」(ふじばやしながとのかみ)、「服部半蔵(半三)保長」(はっとりはんぞうやすなが)に並ぶ伊賀三大上忍のひとり。伊賀流忍術の開祖とも言われ、伊賀喰代(現在の三重県伊賀市喰代)に砦を持っていました。
天正伊賀の乱において、織田信長に敗れ一族もろとも戦死した説が有力ですが、存命説もあります。
「自来也」(じらいや:別称・児雷也)は、読本「自来也物語」や歌舞伎狂言「児雷也豪傑譚」(じらいやごうけつものがたり)などで、義賊として活躍した創作上の人物です。中国の小説に登場する「我来也」(がらいや)という怪盗がモチーフ。
我来也は、盗んだ家の壁に「我来也」(われきたるなり)と記すことからその名が付きました。自来也も同様に忍び入った家の壁に「自来也」(みづからきたるなり)と記したことが名前の由来です。
自来也は、蝦蟇(がま)を操る妖術を身に付けて各地で義賊として活躍します。
その中でも蛇を自在に操る「大蛇丸」(おろちまる)との戦いが有名。妻で蛞蝓(なめくじ)を自在に操る「綱手姫」(つなてひめ)と共に大蛇丸を倒す、三すくみ(蝦蟇は蛞蝓を喰らい、蛇は蝦蟇を喰らい、蛞蝓は蛇を溶かす)の戦いが描かれています。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で知られる源義経は、1159年(平治元年)に生まれ。同年に起きた源氏と平氏の戦い「平治の乱」にて平氏が勝ったことで、平氏は源氏一族を皆殺しにしようと考え、源義経も殺そうとしたのです。
しかし、母「常盤御前」(ときわごぜん)が平氏に「子どもは殺さないでほしい」と頼み込み難を逃れました。7歳になると鞍馬寺(現在の京都府京都市)に入り、僧の修行をさせられるようになるのです。
鞍馬寺のある鞍馬山には天狗が住み、源義経は天狗から剣術や忍術を学んだと言われています。天狗と言っても、鼻の長い伝説の生き物ではなく、当時の天狗は陰陽術師で、文武の達人と言われた「鬼一法眼」(きいちほうげん)のことを指し、法眼は「六韜」(りくとう)という呪術兵法の大家でした。
修行を積んだ源義経は源氏の旗揚げに加わり、一ノ谷の戦いでは断崖絶壁を駆け下りて敵の虚を突き、混乱に陥れる忍者の姿を見せました。その後の壇ノ浦の戦いでは、忍者のように船から船へと次々に乗り移る「八艘跳び」(はっそうとび)を行ないましたが、これも法眼から鍛えられた超人的な体力が備わっていたから可能であったとされています。
壇ノ浦の戦いの勝利により、平家を滅ぼした源義経でしたが、その後兄の源頼朝に命を狙われ続けた結果、31歳の若さで平泉にて自害。
死亡説が濃厚ですが、その一方で、実は源義経が生き残っていたという説は数多くあります。忍者の情報網を活かして危険を察知した源義経は北へ逃げたとされ、そのあとチンギス・ハンになったという説をはじめ、余生は様々に語られています。
「奥の細道」で有名な俳諧師・松尾芭蕉は1644年(寛永21年)、伊賀の無足人(むそくにん:下級家臣に向けた呼び名。この時代の伊賀藩では、伊賀内の地侍に対する呼び名として使用)「松尾与左衛門」の子として誕生。
その松尾芭蕉が忍者だったという説には2つの理由があります。ひとつは、無足人の子どもが江戸に出てきて水戸藩(現在の茨城県水戸市)の上水道工事の責任者になったこと。測量や土木技術を買われての採用であったとされ、それらの技術は忍者の得意分野であったからです。
もうひとつの理由が、奥の細道で150日間もの旅路を可能にしたこと。何ヵ月も旅に出るには、お金と関所を通る許可証が必要であったはず。それを可能にしたのは幕府やその他の藩が、隠密の役目を松尾芭蕉に与えて援助していたからだと言われています。
江戸時代に創作されたと言われる忍者は、昔から続く歌舞伎をはじめ、忍者にまつわるアニメやマンガなどでは度々登場しているため、その名が現代でも知られています。
また、当たり前のように教科書で勉強してきた歴史上の人物でも、史料を辿り考察していくと忍者だったのでは?という説も生まれてきます。いまだ謎多き忍者ですが、創作物に登場したり忍者に当てはまる人物がいたりと、忍者が本当に実在していたと裏付ける根拠のひとつではないでしょうか。