甲冑(鎧兜)は刀剣と同じように、制作された時代や戦闘様式の移り変わりによって、その形式が変化を遂げた武具のひとつ。その変遷は、時代ごとに著された歴史書や絵巻物、屏風図など、様々な資料から窺うことが可能です。そのような文献をいくつかご紹介すると共に、時代を経るごとに異なる甲冑(鎧兜)の特徴などについても解説します。
「古墳時代」とは、西暦200~600年(仲哀天皇9年~推古天皇8年)頃を指す時代区分。この時代は、支配体制が確立しきれておらず、天皇を中心とした国造りを行なっていた時期でもあります。
266~413年にかけては、中国の歴史文献の中にも日本の様子は描かれておらず、日本史上では「空白の4世紀」とも呼ばれているほど、何があったか解明されていない時代でもありました。
古墳時代の甲冑(鎧兜)の多くは、古墳から出土しており、それらは、「短甲」(たんこう)と「挂甲」(けいこう)の2種類に大別できます。
「短甲」は文字通り、裾が短い甲冑(鎧兜)のこと。古墳時代の短甲は、木製や革製、鉄製など、様々な素材で作られており、いずれも肩から腰までを防御する形式が一般的でした。
これに「草摺」(くさずり)や、首を防御するための「頸甲」(あかべよろい)の他、上腕部を防御する「肩甲」(かたよろい)が付属している短甲があったのです。
短甲は、腰部がくびれているだけでなく、肩から背中にかけては大きく広がった形状になっており、外見上は、草摺のない胴丸を桶側二枚胴の形式で作ったようにも見えます。
その一方で「挂甲」は、5世紀中頃以降に登場する、「小札板」(こざねいた)を繋ぎ合わせる形式の甲冑(鎧兜)。兜や肩甲、膝甲などのパーツもあり、短甲に比べて、胴丸などの形状に近い外見をしていました。当初の挂甲は、くびれのない形式で作られていましたが、やがて、くびれのある胴丸式に変化していったのです。
短甲は、日本独自に発達した武具であり、挂甲は、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本に伝来したと考えられています。古墳時代は、大陸からの影響を大きく受けている時代。日本において、短甲と挂甲、2種類の鎧が混じり合って存在し、互いに影響を与え合っていたと推測されているのです。
この時代に編纂された現存する書物はなく、口伝、あるいは後世の人々が作り上げた書物の中に記述があるのみ。後世の書物としては「常陸国風土記」にも、古墳時代の甲冑(鎧兜)に関する記載があります。
奈良時代までは、古墳時代に作られていた短甲と挂甲が融合しながら、新しい形式の甲冑(鎧兜)が作られていたと考えられています。
しかし、現存する当時の甲冑(鎧兜)がないため、具体的にどのような形式であったのかは、想像の域を出ないのが実情です。
平安時代には遣唐使によって、中国から「綿襖甲」(めんおうこう)と呼ばれる甲冑(鎧兜)が持ち帰られます。
綿襖甲は、綿と布で表面を覆った鎧で、中に小札板を仕込むことで防御性を上げていました。これが780年(宝亀11年)頃に一気に普及し、多く使われるようになります。
そして、894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されたことにより、ここから日本の甲冑(鎧兜)は、独自の進化を遂げていくのです。
平安時代中期以降からは、徐々に武士が権力を持ち始めます。最も大きな転換点となったのは、天皇家の内紛として1156年(保元元年)に起こった「保元の乱」。対立していた「後白河天皇」と「崇徳上皇」(すとくじょうこう)の争いに、武士の助力を仰いだことでした。
その後、1159年(平治元年)の「平治の乱」によって、平氏政権が樹立。さらに1180~1185年(治承4~元暦2年)の「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)、いわゆる「源平合戦」を経て、鎌倉幕府が成立します。
平安時代末期には、すでに中国(宋)との貿易が再開されていましたが、それに伴って大陸風の文化が導入されるよりも前に、日本式の騎射戦が確立され、併せて騎射戦に適応した大鎧が成立したと考えられているのです。
同時に、馬に乗らない雑兵は、徒歩戦に適応した簡素な防具が必要となり、胴丸や「腹巻」が誕生しました。
この時代における様々な文化の発展を最も象徴しているのは、何と言っても武士の台頭による武具の進化と、国風文化の成立による、日本独自の文化的な発展です。
その中で大鎧は、最も格の高い甲冑(鎧兜)として確立。また、それまでの甲冑(鎧兜)にはなかった、和弓(わきゅう)を使うための進化も見られます。
その進化とは、胴の正面に張られた「弦走韋」(つるばしりのかわ)です。これによって、甲冑(鎧兜)を着ながら和弓を扱うことが簡単になりました。
大鎧は、小札を連結させているだけでなく、草摺や大袖、兜などの特徴から、挂甲を発展させたような形状に近いと言えます。一方で、短甲、挂甲のどちらにも見られた「腰にくびれを作る」という特徴は、大鎧からは消えました。
その理由は、騎乗では、鎧そのものを腰で支えるよりも馬に重みを預けたほうが、安定感が増したためだと考えられるのです。
また「縅毛/威毛」(おどしげ)の色にも、国風文化の影響を受けて、和色が用いられるようになりました。
大鎧の成立に関する具体的な記述のある文献は、残念ながら見つかっていません。平安時代の甲冑(鎧兜)に関する描写が見て取れる書物には、「平家物語」があります。
同書に記されている鎧は、まさに大鎧のことを指していると考えられ、「萌黄縅(もえきおどし)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる甲(かぶと)の緒を締め」という一文からは、兜の「前立」(まえだて)に、鍬形が登場していることも確認できます。
さらには鎌倉時代後半、「元寇」(げんこう)の際の様子を後世に伝える「蒙古襲来絵巻」も、鎌倉時代の甲冑(鎧兜)について知ることができる文献です。馬に乗る武士の多くは大鎧姿ですが、なかには、裾が4つよりも多く分かれている胴を着けている人の姿もあります。
また、地上で戦っている武士の多くが、同様の胴を着用していることが窺えるのです。そのためこの頃には、すでに胴丸や腹巻が防具として確立しており、どちらも戦闘用の防具として機能していたことが分かります。
鎌倉時代の末期から再び戦乱の世を迎えるようになり、南北朝時代の合戦では、馬による騎乗戦よりも徒歩戦が中心となりました。
逃げ延びた「後醍醐天皇」率いる南朝勢力は、吉野(現在の奈良県吉野郡)付近を拠点としていましたが、この一帯は起伏の多い山間地帯であり、騎射戦には向いていなかったのです。
結果として大鎧の役割は、戦での防具ではなく、儀礼的に着用する衣装へと変化していきました。ただ、騎射戦を行なうときには、現役の甲冑(鎧兜)として機能していたとも伝えられています。
その一方で、合戦に用いる甲冑(鎧兜)の中心になっていくのが、胴丸と腹巻です。上級武士がこれらの甲冑(鎧兜)を身に着けるようになり、兜が付加されるようになりました。
また、「小手」(こて:肩先から腕を覆って防御する部位)や「臑当」(すねあて)などの小具足も発達し、近代的な歩兵戦に耐え得る甲冑(鎧兜)の基礎ができあがっていったのです。
南北朝、及び室町時代における甲冑(鎧兜)の特徴は、大鎧の形式化と、胴丸、腹巻の進化にあると言えます。
大鎧は、胴丸や腹巻に比べて、外見上の優美さが見られるところに、その魅力がありました。
しかし、実戦には明らかに使い勝手の悪い甲冑(鎧兜)であったため、大鎧は「式正の鎧」(しきしょうのよろい)として、祭礼用の側面を強めていったのです。
その反面、胴丸と腹巻は実用性が増し、兜の付加、小具足の発達と併せて、甲冑(鎧兜)としての形式を整えていきます。
その後、登場することになる「当世具足」(とうせいぐそく)の原型が、ここで完成しました。この時代以降の甲冑(鎧兜)は多数現存されており、資料も豊富に残っています。
「太平記絵巻」は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱までを描いた絵巻物です。これを観ると、「蒙古襲来絵巻」に記述があった、騎乗の大鎧を着た武者と、胴丸らしき防具を着た歩兵の姿が確認できます。これはまだ、南北朝時代が始まる直前、大鎧が実際に戦闘の場で活躍していたことを示しているのです。
その一方で、1440年(永享12年)の「結城合戦」を描いた「結城合戦絵詞」(ゆうきかっせんえことば)や、1467~1477年(応仁元年~文明9年)の11年にも亘って続いた「応仁の乱」にまつわる書物である「真如堂縁起」(しんにょどうえんぎ)には、歩兵の数がかなり増え、兜をかぶった胴丸姿の武士が多数いたことが記されています。
歩兵戦に特化した甲冑(鎧兜)が好まれ、大鎧はあまり使われなくなります。
大鎧を着ているのは、自陣で構えている大将か、射撃戦を得意とする騎馬団です。それ以外の武士は、ほとんどが当世具足に移行していました。
当世具足においては、主に簡素化された「伊予札」(いよざね)を材料に用いたり、防御力を損なわずに、着脱や制作を簡単にするため、胴に蝶番を使ったりする甲冑(鎧兜)が、よく見られるようになるのです。
また、「面頬」(めんぽう)や「佩楯」(はいだて)などの小具足も進化し、甲冑(鎧兜)の種類は、大幅に増えていきます。
これに加えて、大鎧の威毛のように、個性を主張する「変わり兜」が登場。高い防御性能と物珍しさから、「南蛮胴」を用いる武将もいました。
しかし、こういった特殊な当世具足を持てるのは、当然大名クラスの武将だけです。多くの武士は、胴丸や腹巻から進化した、簡単な胴を使っていたと伝わっています。
1575年(天正3年)の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)を画題とした「長篠合戦図屏風」では、鉄砲隊を擁する「織田信長」勢の大半が、胴丸や腹巻をもとにした当世具足を装備している様子が描かれています。
また、「桶側胴」を装備した人や、面頬を付けている人の姿も確認が可能。騎馬戦を中心とする「武田勝頼」(たけだかつより)の軍勢は、騎手は大鎧、歩兵は二枚胴具足を付けている姿が見られるのです。
この他にも、関ヶ原の戦いを描いた「関ヶ原合戦図屏風」では、東軍、西軍共に大鎧を着ている武士はほとんどおらず、大半が当世具足を身に付けています。
その多くは小札を利用した甲冑(鎧兜)ですが、「仏胴」(ほとけどう)のように描かれている甲冑(鎧兜)もあり、様々な当世具足が使われていたことが想像できるのです。
また、1615年(慶長20年)に勃発した「大坂夏の陣」を題材にして描かれた「大坂夏の陣図屏風」は、馬に乗っている武士も含めて、大鎧姿の人は見受けられません。
その代わりに、胴部に家紋を入れた「包胴」(つつみどう:腹巻や胴丸などの表面を、染革などで覆い包んだ物)と思われる甲冑(鎧兜)がかなり増えたことが窺え、兜に立派な前立物のある変わり兜も多く確認できるのです。
江戸時代は、比較的長く穏やかな時代が続きました。戦いがないことで甲冑(鎧兜)は、その存在意義を失っていきますが、美術品として、あるいは祭礼用の道具として、その価値が見出されるようになります。
幕末になるにつれ、政治情勢が不安定になっていきますが、近代化された西洋の砲撃術の前に、人間が装備するだけの甲冑(鎧兜)はまったく意味をなしません。そして、武具としての甲冑(鎧兜)の役割は、江戸幕府の終焉と共に、徐々に衰退していきました。
江戸時代中期以降は、「復古調」と称される、古式の意匠を模した甲冑(鎧兜)が流行。美術品として飾るために、最も格が高く見栄えのする甲冑(鎧兜)が求められました。
しかし、長らく正式な大鎧が作られていなかったこと、戦乱で資料が残っていなかったことなどから、復古調の甲冑(鎧兜)の多くが、正しい形式を踏襲した大鎧ではなかったのです。
その中で最もよく見られた間違いは、当世具足の影響を受け、腰あたりにかけてくびれがあること。もともと大鎧は、馬上で着ることを想定しており、箱型に作られていました。
また、実際の戦闘には使えないほど、極端に華美にしている大鎧なども、復古調の甲冑(鎧兜)として登場。これらは、従来の大鎧と区別するために、「復古調の大鎧」と呼ばれるか、もしくは「当世具足」として扱われることもあります。
この時代の甲冑(鎧兜)に関する文献は、ほとんどありません。現存しているのは、過去の甲冑(鎧兜)の作り方に関する「武具訓蒙図彙」(ぶぐきんもんずい)や、「葛飾北斎」が描いた「加藤清正公図」など、戦国時代の当世具足の様子を江戸時代に伝える資料がほとんどです。
幕末期には、西洋から写真技術が持ち込まれ、「松森胤保」(まつもりたねやす)の肖像など、甲冑(鎧兜)を着た武士の姿を捉えた写真が、数点残されています。
1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」では、西洋式の新武装での対決となりました。そして1877年(明治10年)、に勃発した「西南戦争」を描いた「鹿児島暴徒出陣図」には、すでに甲冑(鎧兜)姿の人はひとりも見られません。これ以降、甲冑(鎧兜)が防具として扱われるのは、完全に終わってしまったのです。
鎖国体制の崩壊や大政奉還に伴って、江戸時代は終わりを迎えました。その後、明治新政府は体制を刷新し、西洋化による近代化を急務として改革に乗り出します。
時代の流れに合わせて進化してきた甲冑(鎧兜)でしたが、明治時代以降には、かつてのように戦場で用いられることがなくなってしまったのです。第2次世界大戦を経た現在も、甲冑(鎧兜)には防具としての役割はありません。
その代わりに、甲冑(鎧兜)は古美術としての価値が再検討され始め、日本史における研究対象となっています。
また、インターネットなどの発達によって情報の共有化が進み、甲冑(鎧兜)を美術品として販売する業者が増えた他、趣味で甲冑(鎧兜)を作る人も現れてきました。
これまでに発展してきた甲冑(鎧兜)の文化は、美術品という形で生き続けているのです。