室町時代後期から安土桃山時代を経て江戸時代初期まで、戦が繰り返される戦国の世が続きました。戦国時代と呼ばれるこの時代の中心は、天下人となった「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の「三英傑」と呼ばれる3人。また、この三英傑を支えた多くの名武将がいたことが伝わっています。戦国時代は、西洋から鉄砲や甲冑、顔料が伝来し、日本の甲冑は大きく変化しました。世に名を馳せた有名武将達の甲冑は、それぞれに意匠が凝らされ、兜の前立などに特徴を持つようになります。
戦国の世とも言われている安土桃山時代は、11年に及ぶ「応仁の乱」以降、室町幕府の支配力が低下。その機を捉えて多くの武将が頭角を現すようになり、下剋上の世が訪れます。
筆頭に挙げられるのが、「織田信長」と「豊臣秀吉」です。天下統一を目指し、いく度となく戦に身を投じました。
この時代は、戦い方にも変化が見られました。武将のもとには家臣団が形成され、大勢の兵による組織的な集団戦法が展開されるようになります。
加えて、1543年(天文12年)にはポルトガル人が種子島(鹿児島県)へ漂着し、鉄砲が伝来。戦には、槍や弓に加え鉄砲が用いられるようになり、従来の戦いの様相が大きく変わりました。そういった背景もあり、槍武者の集団戦や鉄砲隊に対応するため、安土桃山時代の甲冑は変化を遂げたのです。
織田信長がその名を轟かせたのは、駿河(現在の静岡県中部)の「今川義元」(いまがわ よしもと)を破った1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)でした。
また、1570年(元亀元年)6月の「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)でも浅井・朝倉連合軍を破り、足利家を追放して天下統一の間近まで迫ります。その後も戦が続き、1575年(天正3年)の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)では、鉄砲隊が登場。「鉄炮(鉄砲)三段撃ち」という新しい戦術で戦ったとされています。
織田信長は、1576年(天正4年)に天下人となりましたが、1582年(天正10年)に「本能寺の変」で自害するまでに多くの戦が繰り返されました。
1582年(天正10年)に「山崎の戦い」で「明智光秀」を倒し、1583年(天正11年)、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で「柴田勝家」を破り、織田信長の継承者となったのは豊臣秀吉です。豊臣秀吉は、国内では島津軍や「北条氏政」(ほうじょううじまさ)・「北条氏直」(ほうじょううじなお)父子を降伏させる戦をします。
さらに、豊臣秀吉の戦として特記しなければならないのが、1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき)と1597年(慶長2年)の「慶長の役」です。豊臣秀吉の構想は、国内にとどまらず中国・明をも征服しようとしていたことが伝わっています。
安土桃山時代後期の戦いは、槍と弓だけでなく、鉄砲が活用されるようになりました。これらの武器に対応できる甲冑が必要とされ、この時代には大きな転換期を迎えます。
安土桃山時代に、槍武者の集団戦や鉄砲戦に対応するため、頑丈で軽快に動ける工夫が凝らされた新しい形式の甲冑、「当世具足」(とうせいぐそく)が誕生しました。
「当世」とは現代風、「具足」とはすべて整っているという意味。文字通り当世具足は、防御機能が完備した現代風の甲冑だったのです。
当世具足には、従来の小札(こざね)を綴り合わせる物もありましたが、主に「煉革」(ねりがわ)や鉄の一枚板を使った「板札」(いたざね)が用いられるようになります。板札の利点は、小札を綴り合わせるよりも制作が簡単なことです。槍や鉄砲に対して防御力が高く、この時代の戦に適していました。
甲冑は鉄を多用するようになり、着脱がしやすいように胴全体を縦方向に2~6枚の部分に分けて、蝶番(ちょうつがい)を付け開閉できるように作られています。また、板札は伸縮しないため、腰骨に当たらないように左右の脇が切り上げられているのが特徴です。
当世具足は、新たな技法や素材が取り入れられ、多彩な種類が作られました。
上級武者は、当世具足に戦場での防御力、機動力を高めた工夫の他に、好みや信仰、世界観を反映するなどデザインにも凝るようになります。奇抜な形状の「変わり兜」や、戦場で自らの存在を誇示することを狙った甲冑が作られるようになったのです。
名武将と呼ばれる人物が多い安土桃山時代。名武将の甲冑は実用性の高さだけでなく、強さをアピールするなど、凝った甲冑が作られるようになります。
中国から大量の辰砂(しんしゃ:赤色顔料に利用される鉱石)が輸入されるようになり、名武将が朱漆塗(しゅうるしぬり)を使った甲冑を作り普及させたのもこの時代からです。
豊臣秀吉が着用していたとされる「色々縅二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)が「名古屋市秀吉清正記念館」(愛知県名古屋市中村区)にあります。
色々縅二枚胴具足は、「鎖佩楯」(くさりはいだて)や「鎖籠手」(くさりこて)、「銀箔押金具」でかたどった桐紋付の袖などが付属する絢爛豪華な具足です。派手なデザインと色は、豊臣秀吉らしい具足と言われています。
「武田信玄」の重臣「飯富虎昌」(おぶとらまさ)が、具足や旗差物などを朱塗りにしたことが「赤備え」(あかぞなえ)のはじまりです。「武田の赤備え」と呼ばれ、甲斐武田軍団の代名詞となっています。
赤色は、戦場で目立ち敵に見付かりやすく、甲冑には避けたい色。にもかかわらず、赤色の甲冑を身に着けるということは、勇気があり武術に秀でているという武勇の証でした。武田信玄は、強さを誇示するために赤色の甲冑をあえて取り入れたと伝わっています。
江戸時代初期、「源右衛門瑠璃斎」(げんえもんるりさい)という軍学者が「瑠璃斎胴」を発案します。甲冑を着用したまま、着物の懐(ふところ)に入れた物を出し入れできるように工夫された胴が登場し、甲冑が改良されました。
江戸時代中期以降になると戦が減り、甲冑が使われる機会はなくなり、具足櫃に納められたままとなります。甲冑は、実用から鍛鉄技術や工芸的技術の向上に重きを置いた装飾的な作品へと変化。平安時代から室町時代にかけての古式甲冑が模範とされた「復古調」の甲冑が流行したとのことです。
江戸時代中期頃からは、藩お抱えの甲冑師による美術工芸品的価値の高い甲冑作りが主流となりました。
大名家は費用を惜しまず、甲冑を作らせ、鍛鉄技術や工芸的技術を競い合ったのです。
細部まで入念に制作された甲冑は、武具と言うよりも、華やかで質の高い美術品でした。飾ったときに立派に見えるように、実用品にはない装備の付いた甲冑も作られたとされています。
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍になった徳川家康は、「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に負けましたが、その他の戦いでは負けなかった武将。
兜の特徴は「大黒頭巾形」(だいこくずきんなり)。夢に七福神の大黒様が出てきたことにあやかったとされています。歯朶(しだ)の葉をモチーフとした前立を添えてあるため、徳川家康の具足は「歯朶具足」と呼ばれているのです。
本多忠勝も徳川四天王のひとりで、「一言坂の戦い」や長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど多くの戦で活躍しながら一度もケガをしなかったという逸話を残す人物です。
本多忠勝は黒い「鹿角脇立兜」(しかつのわきだてかぶと)をかぶり、金箔押の大数珠(おおじゅず)を肩から提げていたと言います。
「千葉県立中央博物館大多喜城分館」(千葉県夷隅郡)に保管されている「紙本著色本多忠勝像」にその様が描かれました。また、愛知県岡崎市の「三河武士のやかた家康館」には「本多忠勝所用の甲冑」が所蔵されています。
甲冑は時代と共に進化を遂げた、日本の歴史的な遺産です。江戸時代中期以降に作られた甲冑には美術的価値があり、見ごたえのある作品も多くあります。
武将の性格や歴史的背景を知って甲冑を見ると、なぜ特徴的な作りになっているのかが分かり、より興味深く鑑賞できるでしょう。