戦国時代に戦いの装備品として必須であった甲冑は、戦いのない平和な時代には不要です。しかし、戦乱が少なくなった江戸時代にも、甲冑は作られ続けていました。それは、「復古調」(ふっこちょう)と呼ばれる、戦国時代に最も好まれた「当世具足」(とうせいぐそく)から変化した様式です。復古調の甲冑が発生した背景や、江戸時代に大流行した理由などについてご紹介します。
江戸時代以降に復古調の甲冑が見られるようになったのには、戦国時代以前と江戸時代以降で、甲冑の持つ役割に大きな変化が見られたことが背景にあります。
戦国時代以前、甲冑は武将の戦闘服でした。平安時代の「大鎧」(おおよろい)は、騎射戦を特に意識した作りになっていましたが、時代が進んで戦闘様式が歩兵戦に変化していくにつれて、それに適した仕様にするために軽装化されていきます。また、戦が盛んに繰り返されていた戦国時代には、武功を周囲に知らしめるために、「変わり兜」と呼ばれる、より派手で個性的な兜が好んで作られるようにもなりました。
このように、戦国時代までの甲冑は、実用性や機能性を中心に考えられており、必要に応じて、独自性を持ちながら進化していたのです。
ところが、江戸時代になると甲冑は、武将の戦闘服としての役割が縮小されます。これは、江戸幕府が創建され、強力な幕藩体制が敷かれたことにより、武士同士の戦いがほとんど発生しなくなったことが理由です。その結果、甲冑には「戦闘に使えて見栄えが良い」から、「戦闘に使えるかどうかは関係なく、飾っておいて見栄えが良い」という特色が求められるようになりました。
戦国時代に最も流行していた「当世具足」(とうせいぐそく)は、機能性を重視しながらも、大量生産に対応できる技術で作られています。しかし、これらの甲冑は、江戸時代の人々にとっては「見慣れた甲冑」となってしまっていたのです。
そこで登場したのが復古調の甲冑。これは、当世具足以前に流行していた、大鎧や「胴丸」、「腹巻」などの様式が用いられた甲冑でした。
しかし、この復古調の甲冑にはいくつか問題があり、そのうちのひとつが、「過去に流行した甲冑を正しく再現できていない」ということ。パソコンもインターネットもない時代に、100年前に流行していた甲冑を正しく再現することは、やはり難しかったのです。
例えば、「大鎧を模しているのに、腰の部分がくびれている」というような、復古調の甲冑があります。大鎧は、札を縅して(おどして)作った3枚の平板を、腹面、左側面、背面の三方に配置するという形状の胴になっている甲冑です。
しかし、腰の部分のくびれは、もともとの大鎧には見られない特徴であり、胴丸の要素が取り入れられたと考えられているのです。これは、デザイン性と着やすさを意識した結果、本来の形が損なわれてしまった復古調の甲冑における一例だと言えます。
もうひとつは、デザイン性を重視していたために、実戦には明らかに使えないような形状の甲冑が多く見られたこと。
その一例である「卯の花縅大鎧十六間星兜付」の兜には、八幡座(はちまんざ)に大きな獅子形香炉が飾られています。
これはやはり、甲冑が実際の戦いで用いられるための装備品ではなく、室内に飾ったり鑑賞したりするための美術品として認識されていたことを表しているのです。
復古調のなかでは、主に大鎧や胴丸、腹巻の形状を基調とした甲冑が作られました。戦国時代、大鎧は上級武士、胴丸は中級、または下級武士、腹巻は下級武士がよく装備していた甲冑です。なかでも大鎧は、意匠を凝らした縅が美しく映えるため、復古調のなかでも特に多く作られています。
前述したように復古調の大鎧には、腰の部分がくびれているような形状の変化が見られました。
また、実戦では明らかに不便な防具が足されていたり、不要な部品が追加されていたりしています。
そんな数ある復古調の大鎧のなかでも、本来の様式がよく再現されている代表的な例のひとつが、「練革空小札白糸威大鎧」。
江戸時代に入るまでの大鎧と意匠が混同しがちな復古調ですが、正しい大鎧の様式を忠実に再現しているこの甲冑は、相良藩(さがらはん:現在の静岡県牧之原市)の歴代藩主であった「田沼家」に伝来しました。
胴丸は、右脇で開閉するタイプの甲冑です。
大鎧は、開いている右側の部分を「脇楯」(わいだて)で防御する構造になっていますが、胴丸は、完全に胴体を1周し、「草摺」(くさずり)も8間(けん)に分かれています。
これは、胴丸の基本的な特徴であり、江戸時代後期に制作された「紺裾濃縅本小札胴丸二十二間星兜付」は、復古調でありながら、このような胴丸の正式な特徴を踏襲している作風が特筆すべき点です。
しかし、「杏葉」(ぎょうよう)と呼ばれる部品が、かなり大きく作られていたり、「面頬」(めんぽう)や「佩楯」(はいだて)が、江戸時代の特徴を示す形状となっていたりするなど、完全に過去の甲冑を再現した物とは言えません。
江戸時代前期までは、戦国時代に隆盛を極めた当世具足が作られていたのにもかかわらず、江戸時代中期以降には、大鎧や胴丸、腹巻を意識した復古調の甲冑が人気を博しました。この時代には、当世具足その物ではなく、その要素が加えられた様式の甲冑が主流となったのです。
近世における封建社会であった江戸時代は、「徳川将軍家」に歯向かうような行為はもちろん、藩主に逆らうような行動も、厳罰に処される時代でした。そんななかで戦闘に特化した甲冑を用意していれば、謀反の嫌疑をかけられてしまうかもしれません。無用な処罰を受けないためにも、武具としてではなく、美術品や装飾具としても美しい大鎧を中心に、復古主義が盛り上がっていたと考えられているのです。
しかし、江戸時代中期以降に、当世具足の様式を継承した甲冑が、まったく作られなかったわけでもありません。
彦根藩(現在の滋賀県彦根市)の藩主「井伊直定」(いいなおさだ)が所有していた「朱漆塗紺糸縅縫延腰取二枚胴具足」は、兜の付物(つきもの/つけもの:立物以外に兜に取り付ける装飾)も含めて、当世具足と呼ぶのにふさわしい甲冑です。
この甲冑の「天衝脇立」(てんつきわきだて)は、甲冑の座高ほどの高さがある双角になっており、さらには、菖蒲をモチーフとした「前立」(まえだて)も付いています。
これほど大きい付物があれば、実戦には向かないため復古調であると捉えることもできますが、これは本来の当世具足の様式を、過不足なく踏襲していることが窺える甲冑です。
こういったことから、江戸時代に作られた甲冑を復古調も含めて、すべて当世具足とまとめる傾向もあります。