「尊王/尊皇攘夷運動」(そんのうじょういうんどう)が盛んとなった幕末の時代。日本が目まぐるしい変化を迎えていた情勢の中で、刀剣の世界でもまた、新しい動きが始まっていました。それが、江戸時代末期から明治時代初期に発布された「廃刀令」までの間に作られた「新々刀」(しんしんとう)です。新々刀が台頭してきた時代背景と新々刀の特徴、また代表的な刀工15名について解説します。
「新々刀」は、江戸時代後期の1772年(安永元年)~1876年(明治9年)まで、100年弱の間に作られた刀剣のことを指します。
古代の作刀方法にこだわり、「新刀」の時代に求められていた「芸術性」から、もともとは武具の役割を果たしていた時代の「実用性」に立ち返って作られている点が大きな特徴です。
新々刀が制作されるようになった時期には諸説ありますが、終わりの時期は1876年(明治9年)、「廃刀令」が出された年だと言われています。これにより、それまで作られてきた刀剣の流れは1度断たれ、現代に続く「現代刀」に継承されていきました。
新々刀が発生したと伝えられている1772年(安永元年)は、江戸幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)が治めていた時代です。
当時は、戦いがほとんどない太平の世となっていた日本。そのため刀剣は、実際の戦いで武具として用いるために必要な実用性が失われ、刀工の技術的な工夫を発揮した、美術品の側面も併せ持つ作刀が主流になりました。
このような背景もあり、南北朝時代から室町時代初期頃まで作られていた「古刀」(ことう)で使われていたような、品質の高い「玉鋼」(たまはがね)を作る技術が衰退してしまっていたのです。つまり、この時期の刀剣は、古刀の時代に比べ、頑丈さと実用性に欠けていたと言えます。
この流れに異を唱え、古刀の力強さを復活させようとした名工がいました。それは、江戸の刀工であった「水心子正秀」(すいしんしまさひで)。
「復古刀論」と呼ばれる、その考えに共鳴した刀工達が弟子入りを志願するため、水心子正秀のもとに、全国から集まります。
さらには、土佐(現在の高知県)や京都において作刀活動を行なっていた刀工「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん)も、この復古刀論に賛同。各地に出向いて復古刀の鍛錬法を広め、水心子正秀と同様に、多くの弟子を育てたのです。
新々刀が広まったこの時代は、まさに幕末の動乱期。古刀の時代のように、戦いが始まりそうな不穏な空気が流れる中、刀剣にも実用性が求められ、新々刀が発達。「江戸城」の無血開城に一役買った「勝海舟」(かつかいしゅう)も、水心子正秀の作刀を愛刀としていたことが伝えられています。
新々刀の特徴は、失われてしまった玉鋼の鍛え方を復活させ、より実用的な形状にした点にあります。一言で言えば「復古」(ふっこ:昔の状態や体制に戻すこと)が、新々刀のキーワード。
新々刀の時代における作刀は、製鉄技術が発展したために「地鉄」(じがね)が美しくなった一方で、古刀に比べると焼き入れ技術が低下していたことは否定できず、刃文の美しさはそれほどでもなくなってしまっていたことが現状でした。
そして、水心子正秀が唱えた復古主義の影響もあり、古刀期に当たる鎌倉時代や南北朝時代、「慶長新刀」の写しが流行。そのため、それまでに見られた優しい姿から、長い「鋒/切先」(きっさき)と広い「身幅」(みはば)、さらには反りがある力強く立派な姿に移行していったのです。
また、新刀期にはほとんど作られていなかった短刀が、再び作られるようになったことも、新々刀期における特徴のひとつです。
新々刀の刀工は前述した水心子正秀を始め、その多くが、江戸時代後期から明治時代初期に集中して活躍していましたが、なかには、大正時代まで作刀活動を続けていた刀工もいました。
ここからは、刀剣の世界に新風を巻き起こした、新々刀の代表的な刀工について、「刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)」所蔵の刀剣と併せてご紹介します。
「水心子正秀」(すいしんしまさひで)は、1750年(寛延3年)に出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれた刀工です。本名は「鈴木三治郎」(すずきさんじろう)と言い、1774年(安永3年)、当時の「山形藩」の藩主「秋元家」(あきもとけ)に召し抱えられて、「水心子」と号しました。
水心子正秀は、古刀時代における名刀を作った刀工の子孫に、直接話を聞きに行き、失われてしまった作刀技法について熱心に研究しています。
さらには、刀工「正宗」の子孫である刀工に弟子入りをして、秘伝書を授けられるほど貪欲に学び、新々刀の様式を生み出すまでに至ったのです。
それから水心子正秀は、1825年(文政8年)に76歳で亡くなるまでの間、369振もの刀剣を自ら作る一方で、教育者としても優れており、数十人の弟子を全国に送り出し、新々刀を世に広めました。新々刀の生みの親として、その時代の刀剣を語る上では、避けて通れない名工です。
1805~1806年(文化2~3年)頃に土佐で生まれた「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん) は、当初、「大鋸」(おが:林業などで用いるために、大材から板を挽く大型の鋸[のこぎり])鍛冶をしていた家業を継いでいましたが、やがて刀工になることを決意。
京都に出て「伊賀守金道」(いがのかみきんみち/かねみち)に作刀技術を学んだのちに、江戸の水心子正秀に師事します。
天保年間(1831~1845年)には独立し、「湯島天神」(現在の「湯島天満宮」:東京都文京区)の近くに移住。多くの門弟を受け入れ、師の水心子正秀が唱えた復古刀論に基づいた鍛刀法を伝授することに尽力しました。
また南海太郎朝尊は、作刀活動だけでなく刀剣研究にも力を入れており、「刀剣五行論」(とうけんごぎょうろん)や「新刀銘集録」などの刀剣書も著しています。
「源清麿」(みなもときよまろ)は、1813年(文化10年)に信州(現在の長野県)で生まれ、もともとは、「山浦」姓を名乗っていました。
1854年(嘉永7年)、42歳で自刃するまでの短い生涯の間に、約130振の刀剣を作った江戸時代の名工です。源清麿と水心子正秀、そして後述する「大慶直胤」(たいけいなおたね)の3人は、江戸時代の名工として「江戸三作」と称され、非常に高い人気があった刀工としても知られています。
また源清麿には、「四谷正宗」(よつやまさむね)という別名がありました。これは、源清麿が、江戸の四谷(現在の東京都新宿区)に住んでいた頃に制作した刀剣が、鎌倉時代の名刀である正宗のような素晴らしい切れ味であったことが由来です。
その時代の四谷には、刀工の「固山宗次」(こやまむねつぐ)が住んでおり、お互いに鍛刀の技を競い合ったという逸話も残っています。
「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、水心子正秀のもとで作刀を学んだ弟子のひとり。その門下の中でも、師匠に匹敵するほどの素晴らしい刀剣を作り続けたとの呼び声が高い、江戸時代末期の名工です。
同郷の生まれであった水心子正秀に、24歳の頃から師事。その後約50年もの間、多くの名刀を生み出しました。
刀工としての名声が上がり、全国から注文を受けるようになった大慶直胤は、各地に出向いて作刀しており、その刀剣には、土地の名前を銘に刻んでいたのです。なお、大慶直胤の娘は、水心子正秀の養子と結婚しています。
陸奥国白河(現在の福島県白河市)出身の「固山宗次」(こやまむねつぐ)も、新々刀の時期に名を馳せた刀工です。当初は江戸に出て「加藤綱英」(かとうつなひで)に入門。同門の名工「長運斎綱俊」(ちょううんさいつなとし)に学び、作刀技術を修得します。
その後固山宗次は、陸奥国「白河藩」藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)に仕えることになったのです。
1837年(天保8年)頃、主君であった松平定信が伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)に転封となったことを機に、桑名へと移住。
「桑名藩」のお抱え工となった固山宗次は、一貫して師から継承した「備前伝」が中心で、よく詰んだ綺麗な地鉄に、匂出来で匂口が締まった丁子乱れを得意とし、人気を博しました。
「長運斎綱俊」(ちょううんさいつなとし)は、備前伝の最高峰と称えられた名工。その代表作には、「髭切丸」(ひげきりまる)や「雲井」などの名刀があります。
生まれは出羽国米沢(現在の山形県米沢市)で、「米沢藩」藩主の「上杉家」に仕え、江戸に出てからは、水心子正秀を師と仰ぎ、新々刀の鍛刀を学びました。
初めは「長運斎」と号して「濤瀾乱」(とうらんみだれ)の刃文を焼き、その後、号を「長壽斎」(ちょうじゅさい)に改め、備前一文字を彷彿とさせる「丁子乱」(ちょうじみだれ)の刃文へと作風が変化しました。
長運斎綱俊もまた、師の水心子正秀のように優秀な弟子を多く育て、新々刀の発展に貢献しています。
近江国(現在の滋賀県)生まれの「月山貞一」(がっさんさだかず)は、新々刀が終焉を迎えた1876年(明治9年)以降から、大正時代まで活躍した刀工です。
月山貞一が、廃刀令が発布された以降も刀工として活躍できた理由は、明治時代後期に、「帝室技芸員」として宮内省御用刀工に任命されたことが、その背景にあります。
月山貞一は、無類の刀剣愛好家として知られた「明治天皇」の軍刀など、著名な人々からの依頼を受けて作刀を行なっていたことから、その技量の高さが窺える刀工です。
宮内省御用刀工となった時点で、すでに71歳だった月山貞一ですが、1912年(明治45年/大正元年)には、「伊勢神宮」(現在の三重県伊勢市)奉納の刀剣なども作っており、晩年まで活躍していました。
その後月山貞一が、1918年(大正7年)に83歳で亡くなったあとも、月山家は、天皇家にかかわる刀剣を作り続けており、その子孫にあたる「月山貞利」(がっさんさだとし)は、大相撲の土俵入りに用いられた太刀を手掛けるなどの活躍を見せています。
「宮本包則」(みやもとかねのり) は、月山貞一と同じ時期に活躍した新々刀の名工です。
伯耆国(現在の鳥取県)の古い造り酒屋の家に生まれましたが、22歳の時に刀工を志し、備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)で活躍していた「横山祐包」(よこやますけかね)の門下に入りました。
宮本包則は、師のもとで備前伝の作刀技術を学んだあと、故郷である「鳥取藩」倉吉(現在の鳥取県倉吉市)において、同藩に仕えていた家老のお抱え刀工となっています。
さらには、121代天皇「孝明天皇」の御剣を作る栄誉を得て、「能登守」(のとのかみ)を受領するなど、才能のある刀工として、有名になっていったのです。
そして宮本包則は、1886年(明治19年)、伊勢神宮の宝剣などを鍛造するなど華々しい活躍をしたあと、月山貞一と同じ時期に帝室技芸員に任ぜられ、宮内省御用刀匠に。それから大正時代には、「大正天皇」の軍刀も制作しています。
「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父として名高い「水戸藩」(現在の茨城県水戸市)の9代藩主です。
徳川斉昭は、藩主としての大役を務めていた一方で、自ら作刀する側面も持っていた個性的な人物です。徳川斉昭の御相手鍛冶は、後述する「直江助政」などが務めていました。
水戸藩の領内に鎮座している「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)は、武神「武甕槌大神」(たけみかづちのおおかみ)をご祭神とし、宝刀を祭っています。
徳川斉昭は、この宝刀を模して作刀し、鹿島神宮に奉納しました。また徳川斉昭は、このような刀工としての実績だけでなく、藩内の刀工であった「勝村徳勝」(かつむらのりかつ)に命じて細川正義の門弟とし、水戸藩における刀工達の技術向上にも尽力しました。
江戸時代後期における時代背景のあと押しもあり、生み出された新々刀。鎌倉時代の作刀技法の復刻を目指し、刀剣に実用性を持たせました。幕末から明治時代初期に亘って作り続けられていましたが、廃刀令が施行されてからは、一部を除いて作られなくなりました。
現代に残されている新々刀の名刀は、古刀の力強さを感じられると同時に、江戸時代に入って太平の世が長く続いたために、失われた技術があったことを伝えています。
今回ご紹介した新々刀期の刀工の作刀は、博物館や美術館など、現代の様々な場所で所蔵されている刀剣も数多くあります。それらが展示される際には、ぜひ鑑賞に出かけてみてはいかがでしょうか。