「日本の城」という言葉でイメージする物と言えば、美しく積まれた石垣や高くそびえる天守(てんしゅ:城郭建築の中心となる高く造った建物のこと)ではないでしょうか。実は、城の起源は弥生時代にまで遡り、日本国内には分かっているだけでも50,000もの城跡があると言われています。戦乱が増加した南北朝時代から江戸時代までの城についての解説と、歴女におすすめの城をご紹介します。
日本の城は、江戸時代の軍学者が行なった地形による分類を採ると、大きく分けて3種類に大別することができます。
ひとつが山城です。標高400m程度の山地に築いた城のことで、山頂や山腹の地形を利用して建てられました。軍事施設としての役割が強く、戦乱が増加した南北朝時代から戦国時代初期にかけて普及。しかし、食料や水の確保が難しく、住むには不便という問題がありました。
次に平山城と呼ばれる、低い山や小高い丘と周辺の平地を利用して建てられた城。山城よりも低い、標高100m程度の場所が選ばれました。防御力を確保するために、高い石垣を配し、大きな天守を建てて、周囲には幅の広い水堀を設置。山城に比べ、より多くの兵を収容できるようになり、戦国時代終盤には平山城が隆盛を極めます。
また、天守の存在は大名の権威の象徴としても機能。「織田信長」が築いた「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)が国内最初の平山城であったと言われています。
そして平城と呼ばれる平地に建てられた城です。城が単なる防衛施設としてだけでなく、領国統治機関としての側面が強くなったことが大きく影響したと考えられています。
政治経済の中心として城が機能し、周辺に家臣を住まわせ、やがて城下町として発展。最初の平城は、「豊臣秀吉」の「大坂城」(現在の大阪城:大阪府大阪市)でした。
また、湖や海など、水辺を利用して築城した城である水城は、一般的に平城に含まれます。
天守は、種類や形式により、築城主や時代背景、文化や風習などを読み解くことができる、奥深い存在です。特に、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」以降、構造的に発展しました。外観は3~5層が多く、次第に城主の権威の象徴として装飾化が進みます。
しかし、江戸幕府が発布した「一国一城令」と「武家諸法度」により、大名の居城となる1城以外の城は破却に。さらに城の新築工事も禁止されたことにより、ほとんどの城は消滅してしまったのです。
ただし国内には、江戸時代以前に建てられた12の天守が現存しています。12天守は、「弘前城」(青森県弘前市)、「松本城」(長野県松本市)、「丸岡城」(福井県坂井市)、「犬山城」(愛知県犬山市)、「彦根城」(滋賀県彦根市)、「姫路城」(兵庫県姫路市)、「松江城」(島根県松江市)、「備中松山城」(岡山県高梁市)、「丸亀城」(香川県丸亀市)、「松山城」(愛媛県松山市)、「宇和島城」(愛媛県宇和島市)、「高知城」(高知県高知市)。
このうち、姫路城、彦根城、松本城、松江城、犬山城の5つは、国宝に指定されています。
基本的に木造建築物である天守が、自然災害や戦火を免れ、現代までその姿を留めていることは、奇跡と言っても過言ではありません。
建設当時の築城技術の高さはもちろんのこと、地域の象徴として城を守りたいという、市井の人々の努力により、現在も美しい姿を鑑賞することができると言えます。
国内には遺構や復元も含め、様々な城がありますが、今回は天守が現存する城に限って、女性に支持を集める城や歴女におすすめの城をピックアップ。何度も訪れたい魅力あふれる城を見ていきましょう。
まずは、歴女のみならず歴史に疎い人をも魅了する姫路城です。
平山城に分類される姫路城は、城郭建築の最高傑作とも称され、高さ、面積共に最大の天守を備えます。
外観は、外壁から屋根瓦の目地に至るまで白漆喰(しろしっくい)を使用。白く輝くような姿は、白鷺が羽を広げたように見え、「白鷺城」(しらさぎじょう/はくろじょう)とも呼ばれます。
現在の天守は、関ヶ原の戦いのあとに姫路城主となった「池田輝政」が、1601年(慶長6年)から9年の歳月をかけて築いた物。5層6階の大天守と3つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)で繋がる美しい連立式天守閣を完成させました。そして、1617年(元和3年)に城主となった「本多忠政」により、「三の丸」や「西の丸」などが造成され、姫路城の全容が整ったと言われています。
姫路城の天守は、1931年(昭和6年)に国宝指定、1993年(平成5年)に「法隆寺」(奈良県生駒郡)とともに、日本で初めて「ユネスコ世界文化遺産」に登録されました。
歴女としては、実戦の舞台にはならなかったものの、難攻不落と謳われた防御設備の高さに注目したいところ。
城内は複雑な造りで土塀にも狭間(さま:鉄砲や弓で攻撃するための穴)を設けるなど、戦争に備えたありとあらゆる仕掛けが施されています。
また、姫路城ではスマートフォン専用アプリを使って、姫路城の歴史を学びながら城内を探索することも可能。姫路城内に設置された専用スポットでアプリを使用すると、建物の復元CGや当時の暮らしを再現した動画などの解説を楽しむことができます。
次に、歴女の皆さんにおすすめしたいのは、長野県松本市にある松本城です。
現存する12天守のなかでは、5重6階の天守として最古と目されており、1952年(昭和27年)に国宝に指定されています。北アルプスの山々を背にした佇まいは、平城ならでは。
堀には黒漆で塗られた天守の姿が美しく映り、澄んだ空気と相まって一層凛とした雰囲気を醸し出しています。
松本城で注目したいのは、珍しい天守の構造。大天守と「乾小天守」(いぬいこてんしゅ)、2棟をつなぐ渡櫓は、1593~1594年(文禄2~3年)にかけての築城と推定されています。豊臣秀吉の家臣だった「石川数正」(いしかわかずまさ)とその息子「石川康長」(いしかわやすなが)により、立派な天守が完成したのです。
この3つは戦国時代の造りで、鉄砲狭間(てっぽうざま)や矢狭間(やざま)を115ヵ所も設置。この他、11ヵ所の石落(いしおとし:迎撃用の開口部)や壁の厚み、内堀幅などを見ても、鉄砲戦による攻守設備を備えた堅牢な天守に仕上がっています。
そののち、戦乱が落ち着いた江戸時代初期、1633年(寛永10年)より城主となった「松平直政」(まつだいらなおまさ)は、戦闘用の設備がほとんどない「辰巳附櫓」(たつみつけやぐら)と「月見櫓」(つきみやぐら)の2棟を増築。時代と特徴、目的の異なる天守と櫓が連なる、全国で唯一の連結複合式天守が完成しました。
また、松本城周辺は「中町通り」や「縄手通り」など、江戸時代の風情を感じる街並みが広がっています。ゆっくりと松本城を堪能したあとは、城下町散策もおすすめです。
最後におすすめしたいのは、天守が現存する、唯一の山城としても名高い、備中松山城です。
備中松山城は、岡山県高梁市の中心市街地北側、標高約480mの臥牛山(がぎゅうざん)山頂に建っています。
備中松山城の起源は、鎌倉時代の1240年(仁治元年)以降、この地を治めた「秋庭重信」(あきばしげのぶ)が築いた山の砦です。
そののち、数々の戦乱、様々な城主による統治を経て、関ヶ原の戦い後は、徳川家の代官として「小堀正次」(こぼりまさつぐ)が入城。その嫡男「小堀遠州/小堀政一」(こぼりえんしゅう/こぼりまさかず)が城を修繕しました。小堀遠州は、武家茶道「遠州流」の開祖であり、文化や芸術に通じた人物。そののち、1683年(天和3年)、備中松山藩2代藩主「水谷勝宗」(みずのやかつむね)によって、現在の天守の姿が完成したと言われています。
天守は2層2階で、現存する天守のなかでは最も小さい造り。自然の岩盤を加工して利用し築城されている点や、天守内に籠城戦に備えた囲炉裏や有事に城主の家族が居住する「装束の間」が造られているなど、小さいながら山城ならではです。
しかし実際は、壁の造りが7cmと薄く、実戦に対応できる城ではなかったと考えられます。これは、天守が関ヶ原の戦い後の戦乱が落ち着いた江戸時代に建てられたから。城下の人々にとって山城の天守は、備中松山藩の象徴として、遠く仰ぎ見る存在だったのです。
天守と「二重櫓」(にじゅうやぐら)、「三の平櫓東土塀」(さんのひらやぐらひがしどべい)は、1941年(昭和16年)、旧国宝(現在の重要文化財)に指定されています。
気象条件によって、秋から冬の早朝に深い霧が発生する高梁市周辺。備中松山城は、この雲海よりも上に位置することから、「天空の山城」とも称されています。
美しく幻想的な姿は、歴女はもちろん全国の城ファンを魅了しているのです。