ファッションにはトレンドがあり、時代が求める服装に人気が集まって、良いデザインが生まれています。動きやすい機能性が重視されたり、見た目のインパクトが重視されたり。その時々で、着てみたい!と思わせる服が出てきます。
室町時代では、服装に関して大きな変化がありました。庶民の間で着られていた小袖を着ることが、武士や公家の間で認められたのです。そんな、室町時代の服装についてご紹介します。
室町時代では、身分によって着る服装が違いますが、どれもだんだんと簡便になっていきました。
ポイントは動きやすさ。武士は戦いが多く、儀礼的な装いよりも実践的、機能的な服装を求めたのです。
そこで主に着られたのは簡便な「直垂姿」(ひたたれすがた)。その他にも「大紋姿」(だいもんすがた)や「素襖姿」(すおうすがた)など、様々な戦の装束が生まれました。
戦以外での武士もまた、庶民の着る小袖を基本として簡略化した服を着るようになります。小袖の上から、「肩衣」(かたぎぬ)や「胴服」(どうふく)、「十徳」(じっとく)などを羽織っていました。
武家の女性も新しく「打掛姿」(うちかけすがた)や「腰巻姿」(こしまきすがた)と言う服装が主流になっていきます。
これまでの公家から影響を受けた衣服から袴を省略して、小袖を着流すという「動きやすい」スタイルへと変化していったのです。
公家は、その勢力の弱体化により服装を簡便化せざるを得ませんでした。以前の華美な姿は鳴りを潜め、小袖を上着とする服装が認められるようになります。
庶民の中から行商人が増えて、各地の行き来が活発化しました。農業技術の発展による農作物の生産量が増えてきたことにより、これまで生まれ育った町や村だけが行動範囲だった人達も、これまでより活動的になってきたのです。
庶民は、日常着として小袖を着ていました。これまで着ていた袖が大きな大袖より、袖が小さな小袖は動きやすかったからです。
室町時代では、衣服の素材に木綿が使われ始めました。これまで、服装の素材と言えば絹や麻がよく使われていました。木綿の材料になる綿花は、日本では栽培に適していなかったのです。衣服の素材が木綿に変わることになったのには、ポイントが大きく2つあります。
ひとつめは、明との貿易が活発になり、輸入品として大量に木綿が日本に入ってくることになったためです。日明貿易では、日本からは硫黄や刀剣、工芸品が輸出され、明からは銅銭や生糸、そして木綿が輸入されました。
輸入された木綿を使って、木綿の衣服が大量に作られるようになり、木綿の布を使った人は、その着心地の良さを気に入ったのです。そして、汗をかいてもさらりとしている吸湿性もあり、木綿の服の良さが各地に広まっていきました。
2つめは、戦乱の世だったと言うこと。木綿の服が良いと言っても、輸入品であるため、とても高価でした。庶民には手が出なかった木綿の服ですが、戦いに行く兵には与えられたのです。
かつて、兵の服装に使われていた素材は麻や絹。どちらの素材も動きにくく、汗をあまり吸収しないので、兵は戦いにくくなっていました。そこで、木綿の服を支給したところ、動きやすく着心地が良いので、木綿の服装は人気になり各地に広まったのです。
室町時代には、直垂から新しく、大紋や素襖という衣服のバリエーションが増えました。大紋は、正しくは「大紋直垂」(だいもんひたたれ)と言います。
素襖は、室町時代の中期以降に大紋から変化しました。大紋よりも染められている家紋が小さく、江戸時代には下級者の衣服となっています。
簡単に違いを説明すると、大紋には直垂の菊綴(きくとじ)の位置に、その名の通り家紋の文様が大きく染められているのです。もともとは、下級武士が仕える主君の家の紋を、衣服に染めたことから始まりました。紋付袴は、ここから来ていると言われています。
素材やパーツで言うと、直垂には裏地がありますが、大紋と素襖には裏地がありません。素襖は麻でできていて、生地が質素な直垂です。
また、「胸紐」や「菊綴結」という紐があるのですが、直垂と大紋は「丸組紐」、素襖は革でできた「リボン」と、それぞれ違いがあります。
直垂は、古代から着られている衣服です。かつては、庶民が着る服として地位が低かったのですが、平安時代後期から動きやすいということで武士が着始め、鎌倉時代には武士の代表的な衣服になり、室町時代には礼装となっていきました。
さらに、江戸時代に入ると直垂は最高級の礼装となっていき、儀礼用としての生地が高級になり、袖も広く長くなっていきます。
また、直垂を着るときは「烏帽子」(えぼし)がセットになっているのです。烏帽子は、位によってかぶる帽子が違い、上級武士は「立烏帽子」(たちえぼし)、中級以下の武士は「折烏帽子」(おりえぼし)をかぶっていました。折烏帽子は、烏帽子を折って畳んだ帽子で、「侍烏帽子」とも呼ばれています。
直垂の変遷は、スーツがよりフォーマルな「燕尾服」(えんびふく)へ変わったイメージです。直垂は、現在でも着ている人を見ることができます。例を挙げると、大相撲の行司です。土俵の上での立ち回りの様子を見ると、確かに動きやすそうな衣服と言えます。
12~16世紀まで時代が経過していくごとに、武家の男子の衣服は、だんだんと簡略化されていきます。戦乱の時代で、動きやすい服が求められたのが原因です。まずは下級武士の服装が簡略化されて、その後、上級武士の服装が簡略化されました。
上級武士の服装が簡略化されたのちに、上質な服になってくると、また下級武士の衣服が簡略化されていき、そののち、上級節の服装も簡略化する、といった流れが続き、小袖を着るようになっていくのです。
直垂の際にかぶる待烏帽子も乱世にあって省略化されていき、代わりに成人男子は、「月代」(さかやき)を作って「髷」(まげ)を結いました。この髪型は、明治時代まで続いていきます。
小袖は、古くは下着として着られていたこともあり、白い色を着る場合が多かったです。
時代が進むにしたがって、草の花や葉っぱをそのまま服に押し当てて、「色や形を移す」と言うことが行なわれました。
染色技術が発展するにしたがって、草木から色を出すために抽出したり発酵させたりと色が増えていき、模様なども小袖に描くことができるようになったのです。
室町時代の女性の服装も、動きやすい小袖を中心としたファッションに変わっていきました。小袖は1枚で着るのが標準でしたが、裕福な家では、さらにその上から「袿」(うちき)や小袖をもう1枚羽織ることもあります。
働くときには、簡素な前掛けを着けるようになったのもこの頃です。小袖の袖も長くなり、「袂」(たもと)が見られるようになっていきます。足元は、歩きやすい「草鞋」(そうあい:わらじ)や「下駄」を履いていました。
小袖の変化で最も特徴的なのが、様々な模様が付けられるようになったということ。武士や公家の女性は、重ね着をして服の色を楽しみました。
庶民は、重ねるほどの服を持っていないので、持っている小袖を染めて模様を付けるようになったのです。
もともと平安時代の頃から、庶民でも衣服を染めている人はいたのですが、室町時代には染色技術の発展に伴い、急激に増えました。室町時代には、小袖の色だけでも「茶色」、「梅色」、「紫色」、「茜色」、「紅梅」など、身分や年齢などで使う色が違っています。
きれいな色や模様を小袖に付けることができるようになったので、室町時代の末期から貴族や武士、庶民に関係なく、小袖を表着(うわぎ)にするようになりました。
衣服が簡略化して小袖がメインになり、活動的になってくると、それに合わせてヘアスタイルも変わってきます。
平安時代は、長く黒い髪の毛を後ろに垂らして、床につかんばかりの長さを見せあって美しさを比べていたのですが、鎌倉時代になるにしたがって、武士の女性は、だんだんと髪の毛が短くなっていきました。
庶民の女性も、動きやすい小袖に合わせて髪を後ろで束ねるスタイルに変わっていきます。さらに、髪を分けて垂らし、髪先の方で結んだり、一度結んだ髪を折り返して頭の上の方に持ってきたりするなど、それぞれがおしゃれな髪型を楽しむようになりました。
室町時代の末から江戸時代になるにつれて、髪は徐々にまとめて巻くようになり、時代劇で見るような女性の髪型に変わっていったのです。
日本の戦国時代で武士が着ている甲冑(鎧兜)と聞いて、頭に浮かぶのが、いわゆる「当世具足」(とうせいぐそく)。「当世」とは現代、「具足」とは、すべて備わっていて足りると言う意味です。
当世具足は、室町時代において「最新、最強の甲冑(鎧兜)」として、その名を付けられました。兜で「頭」を、鎧で「首からすね」までを守ります。
その特徴は、体を隙間なく甲冑(鎧兜)で包んで体を守ると言うことです。「籠手」(こて)や「佩楯」(はいだて)、「臑当」(すねあて)などの「小具足」(こぐそく)と呼ばれているパーツが、胴の部分と一体化しているのです。
室町時代以前に使われていた「腹巻」(はらまき)は、体をすべて覆うタイプではなく隙間があったので、そこを狙われると弱いと言う弱点がありました。
戦国時代には、これまでの戦の概念を根本的に変えてしまう武器「鉄砲」が登場しました。鉄砲への対策のため、当世具足はより頑丈に、そして、より軽快に動けるように、これまでの甲冑(鎧兜)とは違った工夫がされています。
当世具足は機能的にも優れているのですが、それと合わせて各武将が独自のデザインを施し、「変わり兜」などを作り上げました。目立つ兜をかぶるのは、戦では一見不利なように感じますが、これは戦場で自らの存在をアピールし、戦功を上げるために、あえて使っているのです。
のちに当世具足に西洋甲冑の要素を取り入れて日本風にアレンジした、「南蛮胴」と言う種類も出てきます。重量が重くて値段も高かったため、着ることのできる武将は少なく、「徳川家康」などが愛用していました。
当世具足は、戦のときに主に「上級大将」が装着して戦いました。装着の仕方については、着る人が下着として小袖、小袴、足袋、脚絆(きゃはん)を着るのです。脚絆は、すね当ての摩擦からすねを守るのに使います。
まずは足元から。すね当てをすねに装着して紐で結びます。次に、「佩楯」(はいだて)を着用。佩楯は、太ももを守る部分です。「ゆがけ」と「籠手」(こて)を着用。ゆがけは、てぶくろです。
「脇引」(わきびき)と「満智羅」(まんちら)を着用。脇引は脇を、満智羅は首周りや胴の上部を守るためです。
そして、「具足」をかぶります。かぶるときは誰かに手伝ってもらうか、正座して着用すると楽に着ることができるのです。帯を巻いて、太刀を差し、鉢巻を巻きます。陣羽織を羽織り、兜を着けたら当世具足の着用完了です。
室町時代では、甲冑(鎧兜)の役割が変わってきました。
鎌倉時代まで主に使われていた大鎧は、騎馬戦に適した鎧です。徒歩での戦いが多くなってきた南北朝時代からは、動きやすい「胴丸」(どうまる)や腹巻を装備して戦いました。
頻繁に戦がある中で、破損した甲冑(鎧兜)を使えるようにする新たな甲冑(鎧兜)の技法が登場します。それが、韋包の技法。韋包とは、胴を守る部分の表面を「綾」や「熏韋」(ふすべがわ)で覆い隠していくのです。
熏韋とは、鹿や牛、馬などの皮をやわらかくなめした「鞣革」(なめしがわ)のこと。損傷が激しい胴の部分を皮で覆うと、合戦で壊れた甲冑(鎧兜)も、また使うことができるのです。
当世具足の背中には、「合当理」(がったり)という部品が付くようになりました。
これは何かと言うと、背中に「差物」(さしもの)を付けるための装置。「差物」とは、人の多い戦場で個人や部隊を見分けるための目印であり、旗や飾りが多いです。
多くの人が乱れ戦う戦場では、敵味方の区別がつかなくなることもあります。そこで合当理を装着して分かりやすい印を掲げることで、誤って同士討ちをしなくてすむようになるのです。
また、飾り兜と一緒で、もし功を上げたときに分かりやすくアピールするのにとても重宝します。