「久保田藩」は、江戸時代に出羽国秋田(でわのくにあきた:現在の秋田県)を領地とした藩で、別名「秋田藩」。室町時代以降、「常陸国」(ひたちのくに:現在の茨城県)で代々守護を務めていた佐竹氏が秋田へ国替えとなって藩主となり、初代は豊臣政権下で活躍した名将「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)が務めました。今回は東北の地・秋田を260年に亘って統治した佐竹家をご紹介すると共に、久保田藩佐竹家に伝来した「福岡一文字」(ふくおかいちもんじ)の名刀を観ていきましょう。
徳川家康から疑われ、先祖代々守ってきた領地を離れることになった佐竹家。大きな不安の中、藩政を整え支配体制を確立していった歩みをご紹介します。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」で中立的な立場を取った佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、徳川家康から不信の念を抱かれたため、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)から秋田への減転封を命じられます。先祖代々領地としてきた土地を離れ、不慣れな秋田へ入封することとなった佐竹義宣に対して、幕府から石高が明示されることはありませんでした。石高が確定したのは、佐竹義宣の入封から62年経った1664年(寛文4年)。ようやく久保田藩の藩領が20万5,000余石に確定したのです。
常陸から秋田入りした佐竹義宣は、入国した翌年に「窪田神明山」(くぼたしんめいやま)に新しい城郭と城下町を建設することを決定。
1604年(慶長9年)に「久保田城」を完成させて居城としました。「久保田藩」の名称の由来は、この居城の地名にあると考えられています。
佐竹義宣が藩主となった当初は、秋田の大きな財源となった米作が盛んに行なわれ、鉱山や銅山による資源の採掘や、林業が順調だったこともあって藩財政は潤っていました。特に、佐竹義宣の入封後から続々と金・銀山の開坑が進み、久保田藩を支える潤沢な資源となっていたのです。こうして久保田藩を繁栄させた佐竹義宣は、次世代に大きな資産を残していくこととなります。
しかし、佐竹義宣は子宝に恵まれず、後継者の選定には苦労していました。
一度は末弟の佐竹義直(さたけよしなお)を養嗣子(ようしし:家督相続人となるべきようし)としましたが、佐竹義直は江戸城で猿楽(さるがく:伝統芸能でのちの能楽)見物をした際に居眠りをしたことに、佐竹義宣が激怒。佐竹義直を廃嫡としたのです。
そこで、甥である亀田藩主(現在の秋田県由利本荘市)「岩城吉隆」(いわきよしたか)を継嗣(けいし:跡継ぎ)として迎え、岩城吉隆は佐竹氏の通字を用いた「佐竹義隆」(さたけよしたか)に改名して2代藩主となりました。
2代藩主・佐竹義隆の時代は、初代が築いた基盤と資産により平和な治世。しかし、佐竹義隆の治世の後期になると、藩の経済を支えてきた鉱物の採掘量が激減。次第に藩財政の雲行きは怪しくなります。そして、佐竹義隆の次男「佐竹義処」(さたけよしずみ)が家督を継ぐ頃には、それまでの貯蓄を食いつぶすようになっていました。
3代藩主となった佐竹義処は、財政難に陥った藩を救うべく、1676年(延宝4年)に藩政改革を実行します。そもそも佐竹家は、初代・佐竹義宣が大幅減封で国替えしたにもかかわらず、家臣の数を減らさずに入国していたこともあって、藩領において家臣団の知行地(ちぎょうち:大名が家臣に与えた領地)が圧倒的に多くなっていました。
そこで佐竹義処は、家臣の家格調査を徹底的に行ない、奉行職の整理や軍役と政務の調整を行なって無駄をなくすように努めたのです。しかしこうした佐竹義処の苦労も空しく、久保田藩は1690年(元禄3年)の時点で、16万両という巨額の借金を抱えることになってしまいました。
その後、5代藩主「佐竹義峯」(さたけよしみね)の代になると、金銀を採り尽くし、乱伐によって山も荒れたことで、久保田藩はいよいよ困窮を極めることに。
そこで佐竹義峯は、藩政改革の建言書を藩に提出してきた「今宮大学」(いまみやだいがく)を家老に抜擢し、今宮大学を筆頭に財政再建へ向けた改革を行なっていきます。
1737年(元文2年)からは銅銭鋳造を中心に、一定の成果を上げて藩財政は再建の兆しを見せました。
しかし1745年(延享2年)、幕府から鋳造の禁止が発令されたため、財政再建政策は頓挫。1754年(宝暦4年)には、銀札を発行し藩内で銀と兌換(だかん:引き換えること)することで財政再建を図る「銀札仕法」(ぎんさつしほう)を打ち出しますが、銀札の信用を得られず、逆に金銀を貯め込む者が増えたことで、銀札の大暴落を招く事態に。結局、佐竹義峯と今宮大学の改革も失敗に終わり、領民の生活を圧迫させる結果となったのでした。
その後も久保田藩では、抜本的な改革が行なわれないまま時が過ぎ、9代藩主「佐竹義和」(さたけよしまさ)の代で、ようやく大規模な改革が実施されました。財政再建の専任者を起用し、林業の復活と鉱山の再活性化を図り、農村の取り締まりや産業の多様化にも着手したことで、久保田藩は一時的に財政難から抜け出します。
ところが、幕府による普請役や出兵の要請で出費がかさんだことに加えて、大飢饉が起こったことで再び財政は暗転。久保田藩は、財政難に苦しめられたまま幕末期へと足を踏み入れていったのです。
久保田藩では、初代の入国時に重臣達と人事を巡る騒動が起こって以降、大きな事件や騒動は起こっていませんでした。しかし、6代藩主・佐竹義真(さたけよしまさ)の死を巡って、久保田藩にとっておよそ150年ぶりとなる事件「佐竹騒動」が勃発してしまったのです。
5代藩主・佐竹義峯には嫡子がおらず、分家の式部少輔家(しきぶしょうゆうけ)から佐竹義堅(さたけよしかた)を養嗣子に迎えました。しかし、佐竹義堅は佐竹義峯より先に逝去してしまいます。佐竹義峯はやむを得ず、佐竹義堅の子である佐竹義真を後継者に指名。1749年(寛延2年)に佐竹義真は6代藩主になりました。ところが、佐竹義真は22歳の若さで急死。式部少輔家は、佐竹義真の死によって途絶えてしまったのです。
7代藩主となった佐竹義明(さたけよしはる)は、式部少輔家と対立関係にあった壱岐守家(いきのかみけ)から送られた養子でした。この佐竹義明の藩主就任によって6代藩主・佐竹義真の死は、壱岐守家による毒殺説が持ち上がるようになるのです。
この後継者問題には、5代藩主・佐竹義峯の代に実施された銀札仕法が絡んでおり、この政策が大失敗したことで、銀札政策を推進していた式部少輔家派と、政策に反対していた壱岐守家派の間で責任問題を巡る対立抗争が勃発していました。両派の間でくすぶっていた火種が、佐竹義真の死を契機として御家騒動へと発展。
この一連の事件は、のちに脚色された物が伝奇小説となり、「秋田治乱期」(あきたちらんき)や「秋田杉直物語」(あきたすぎなおしものがたり)という読本として後世に語り継がれることとなったのです。
1867年(慶応3年)、「大政奉還」と「王政復古の大号令」により江戸時代が終焉を迎えると、「戊辰戦争」へと突入していきます。
このとき、久保田藩では国学の第一人者である「平田篤胤」(ひらたあつたね)の出身地でもあることから、じわじわと尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)が拡大。久保田藩最後の藩主である12代藩主「佐竹義堯」(さたけよしたか)は、藩論を尊王派に統一して新政府側に与する方向へと舵を切りました。
1868年(慶応4年)に東北における旧幕府軍と新政府軍の間で秋田戦争が勃発し、久保田藩が参陣した新政府軍は旧幕府軍に勝利。こうして明治まで久保田藩を護り抜いた佐竹義堯は、1869年(明治2年)に久保田藩知事となり、久保田藩は秋田藩へと改称したのち、「廃藩置県」によって秋田県となりました。
こうして江戸時代の幕開けから終焉まで佐竹家と共に歩んできた久保田藩には、「一」と刻まれた名刀が伝来。この名刀は、かつて備前国長船町福岡(びぜんのくにおさふねちょうふくおか:現在の岡山県瀬戸内市)で栄えた「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の刀工による作品で、鎌倉時代中期に制作された1振だと考えられています。佐竹家に伝来したあと、久保田藩士である大島家(おおしまけ)に伝わり、重要美術品に指定された当時は、明治時代に陸軍大将を務めた「大島久直」(おおしまひさなお)の後継「大島久忠」(おおしまひさただ)が所持していました。
また本刀には、「金置平目鞘金無垢桐紋金具糸巻太刀拵」という鞘が附属しており、通常は鞘に金粉を掛ける蒔絵技法の「金梨地」(きんなしじ)が主流ですが、本作は金粉を蒔かずに1粒ずつ鞘に置いていく「金置平目」で作られています。また、金具はすべて金無垢で、明治から大正年間に制作されたと考えられているのです。
「鎺」(はばき:刀身と鞘を固定する部分)下に菊花紋が彫られていますが、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が鍛えたいわゆる「菊御作」(きくごさく)の紋ではありません。銘以外に菊花紋が彫られている作品は、鎌倉時代の備前伝に多く見られたと言われています。
「薙刀 銘 丹波守吉道」は、江戸時代初期に京で活躍した刀工「丹波守吉道」が制作した薙刀。
本薙刀ははじめ、戦国武将「石田三成」が所有していましたが、1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いにおいて、西軍側への助力を求めるために石田三成から佐竹義宣へ贈られました。
石田三成と佐竹義宣は、関ヶ原の戦いが起きる以前から交流があり、互いの窮地を助け合うほどの義で結ばれていたと言います。そのため、佐竹義宣は関ヶ原の戦いには積極的に参加せず、また関ヶ原の戦い後も合戦に参加しなかった件を徳川家康へ謝罪しないまま、自身の居城である水戸城から動きませんでした。
本薙刀の制作者である丹波守吉道は、銘の「丹」の切り方に特徴があるため、「帆掛丹波」(ほかけたんば)の別称があることで知られています。丹波守吉道は三品系(みしなけい:三品一門、三品鍛冶とも呼ばれる美濃国・関で活躍した刀工一派)の名声を高めた名工であり、刃文の一種である「簾刃」(すだれば:簾のような刃文)を考案したことでも有名です。