戦闘が大規模化・集団化するにつれ、兵の生命・身体を守る甲冑(鎧兜)も進化していきました。
そこで注目されたのが下半身です。室町時代になると歩兵同士による戦闘「歩立戦」(かちだちせん)が一般的になります。機動性を高めるため、甲冑(鎧兜)においても下半身の可動域を広げる試みと同時に、下半身の防御力を高める試みがなされたのです。
草摺とは、甲冑(鎧兜)の胴から吊り下げられた、腰から太ももまでの下半身を覆い、防護するための部品です。通常、胴と同様の素材となる、韋や鉄板などで制作されています。
草摺の枚数は、甲冑(鎧兜)の種類や時代によって変化し、4枚から8枚ほどに分かれているのが一般的。草摺の名前は、裾が草をこすることが由来とされ、「下散」(げさん)や「こしよろい」とも呼ばれました。
歩兵戦が盛んになり始めた頃に登場した胴丸。大鎧はかなり重い装束であり、地上を歩くこと自体ほとんど想定されていないつくりでした。
その一方、胴丸は地上での歩兵戦用に作られた甲冑です。大鎧のような大きく重たい草摺は、歩くのには不向きだったのです。そこで、胴丸の草摺は大きく形状を変化させます。
まず、四間草摺だった物が、「八間草摺」(はちけんくさずり)になりました。これまで4枚で足周りを防護していた物を、8枚に細分化したのです。これにより、機動力が格段に上昇しました。
胴丸とほぼ同じ時期に作られた腹巻も、胴丸同様、歩兵戦のために作られた鎧でした。腹巻における草摺の枚数は、5~7枚と幅がありますが、大鎧よりも分割されており、動きやすさの面では格段に上でした。
さらに腹巻は、小札を5段重ねる形式の胴丸よりも短く、2~4段で形成されていました。胴丸は切込の数を増やすことで機動性を上げ、腹巻は裾自体を短くして機動性を上げていた、と考えることもできるでしょう。
このとき、胴丸や腹巻を下地にした甲冑が進化していきます。
従来は胴からそのまま連結していた草摺ですが、下腹部までを覆う胴部と草摺が完全に分離し、「揺糸」(ゆるぎのいと)を長く取り、より自由度を高めた形で繋がれるようになったのです。
縅毛の処理技術の進化、小札のバリエーションが増えたことなども手伝って、様々な草摺が誕生しました。
特に特徴的なのは、南蛮胴の草摺です。「徳川家康」が所用していたと伝わる「鉄錆地縦矧五枚胴胸取具足」(てつさびじたてはぎごまいどうむなとりぐそく)は、プレート状の鉄板などを縅した物で、横方向への柔軟性がほとんどなく、西洋甲冑のように左右開きになっています。
これまでの草摺が全方向を守れるスカート状になっていたのとは大きな違いが見受けられるのです。
佩楯とは、太ももと膝を守るための防具で、エプロンのように腰で縛り、左右の太ももを覆うようにして装着するもの。
古墳時代から用いられており、平安時代には「膝鎧」(ひざよろい)と称されていました。形状は、足さばきの良いように左右で2枚に分かれているのが特徴で、胴や袖と同様に、小札を縅して制作されるのが一般的です。
室町時代末期から戦国時代にかけて合戦が大規模化・激化すると、佩楯の種類も増加し、より高い防御性、柔軟性が求められるようになりました。伊予札ができるまでは縅佩楯が、その後は伊予佩楯と板佩楯が主流になっていきます。
縅佩楯、伊予佩楯、板佩楯は、どれも実用性が非常に高いことが特徴です。鎖佩楯は非常に優秀な防具ではありましたが、制作にかかるコストが大きかったため、あまり採用されることはなかったと言われています。
江戸時代前期は、戦いの少ない時代となり、甲冑自体が作られることは減りました。その後、江戸時代中期になると、甲冑の芸術品としての価値が再発見されます。いわゆる「復古調」の流行です。
復古調では、機能性よりも図柄を意識して甲冑が作られます。佩楯の中でも、特に意匠を凝らしやすい板佩楯と、宝幢佩楯が好んで作られるようになりました。
兜や鎧、袖と同様に、小具足である佩楯も基本的には小札を縅して制作する形式が一般的でした。作り方によって幾つかの種類があります。
伊予佩楯は伊予札を使った一般的な佩楯です。伊予札を使うことで軽量化と柔軟性を保っていました。山形県の指定文化財となっている「色々縅伊予佩楯」(いろいろおどしいよはいだて)は、革製で黒塗、伊予札を5段にわたって縅しています。草摺の内側に、直接腰紐を括り付ける形で使用されていました。
伊予佩楯と同様に一般的だったのが、板佩楯です。こちらも、大きな伊予札状の物を使っていますが、伊予佩楯が伊予札を縅して作られたのに対し、小札を縅したあとに漆で塗り固めて、板状にしたという違いがあります。これによって板佩楯は伊予佩楯よりもさらに軽量化することに成功しました。ただし、柔軟性にかけるため、前面にぶら下がっただけの形となっています。
縅佩楯は、他の甲冑の部位と同じように、小札を縅して作られた佩楯です。動きやすさの観点では伊予佩楯や板佩楯に劣りますが、防御力が高く、芸術的な図柄を出しやすいという特徴があります。当世具足としては位の高い武将が使っていた他、江戸時代の復古調では、より絢爛に見せやすいため、この形式が取られた物も多いようです。
細かく鎖をつないで作られた佩楯は鎖佩楯と呼ばれます。鎖佩楯の最も優れている点は、高い柔軟性と防御力。鎖をつなぎ合わせているため、守るべき部位にぴったりとフィットします。また、鎖の繋ぎ目で変形するため、非常に動きやすい構造でした。
上半分が伊予佩楯、下半分が3つに分かれた縅佩楯のようになっています。立ち姿では守るべき膝回りに隙間があり、歩兵戦には向いていませんでしたが、馬に乗るときにはこの切れ目が膝の柔軟性を上げる効果がありました。騎馬武者を中心として用いられていた他、復古調の佩楯として多く制作されています。
臑当とは、その名の通り、臑を守るための防具で、膝からくるぶしを覆い、古くは古墳時代から着用されていました。古代は「足纏」(あまき)と称され、平安時代に騎射戦が主な戦法だったことから、当時着用された大鎧の小具足として発達。
以降、時代の変容や戦法の変化によって、臑当も進化していきました。
これを脛に巻き付けるようにして装備し、革紐で繋ぎ留めて使用していました。この形式に類似する臑当は非常に古くからあると考えられ、古墳から出土された武装埴輪において、臑当の存在が確認できます。
筒臑当りも密着性が高くなりますが、布地が露出している部分は防御性能が低くなるという弱点もあります。
臑当は古墳時代からその存在が確認されています。ただ、日本式甲冑(鎧兜)と古墳時代の甲冑(鎧兜)については、厳密には種類が異なる防具であるという見解も有力。そのため、臑当についても同一系譜上にあるとは言い切れません。
大鎧が中心となっていた時代は、筒臑当が一般的でした。その後、室町時代を経て、臑当のカバー範囲が膝上にまで拡大した「大立挙」(おおたてあげ)が流行します。
大立挙も筒臑当ではありますが、膝までカバーする形に進化したため、後ろ側に金具が届きません。そこで、「臆病金」(おくびょうがね)という細い金属板を当てることになります。臆病金は、敵に背を向けたときに初めて見える金属だったことから、その名が付けられました。
篠臑当や鎖臑当の手法が編み出されたのは、戦国期以降と考えられています。筒臑当よりも柔軟性に優れ、機動性を上げるためです。戦乱の世が終わり、江戸時代中後期になって復古調が流行すると、再びきれいに磨き上げた筒臑当が臑当の中心となりました。