戦国三英傑の家紋

豊臣秀吉の家紋
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豊臣秀吉の家紋 豊臣秀吉の家紋
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「豊臣秀吉」は、下層民から天下人まで昇りつめ、激動の人生を送りました。「人たらし」、「気遣いを怠らない」とも言われ、人の心をつかむ術に長けた人物だったと考えられています。また、合戦で功績を重ねて出世するたびに風格のある名前に改名しており、自己を演出する達人でした。
そんな豊臣秀吉が重用していたのは桐の家紋。晩年の尊称「太閤」にちなんで「太閤桐紋」と呼ばれています。太閤桐紋に加えて、豊臣秀吉が使っていた、いくつかの家紋についてもご紹介しましょう。

豊臣家の伝統と格式を象徴する「桐紋」

豊臣秀吉が使用した桐紋は、織田信長からの下賜紋

豊臣秀吉

豊臣秀吉

室町時代や戦国時代には、朝廷が功績のある武家に桐紋を褒美として下賜する習わしがありました。「桐紋」は、もともと天皇家が使用していた紋章であり、朝廷から室町幕府将軍の足利氏に与えられたのです。

この桐紋を、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が「織田信長」に下賜しました。13代将軍の「足利義輝」(あしかがよしてる)が「三好長慶」(みよしながよし)に攻められ、政権を奪われそうになった際、足利義昭を奉じて織田信長が上洛。室町幕府を再興に導いた功績が評価されて与えられたのです。そののち、織田信長が豊臣秀吉へ桐紋を授けたため、豊臣秀吉が「五三の桐紋」(ごさんのきりもん)を使い始めます。

桐は、霊鳥の鳳凰が宿る神聖な木

五三の桐紋

五三の桐紋

桐紋とは、桐の葉と花を図案化した紋章で、桐の葉の上に桐花を3本描くのが基本形です。葉の描き方や花弁の個数などに多くのバリエーションがあり、織田信長の桐紋は、中央の桐花が5つの花弁、左右の桐花には3つの花弁を描いた五三の桐紋でした。

現在の内閣府などは、中央の桐花には7つの花弁、左右の桐花には5つの花弁を描いた「五七の桐紋」(ごしちのきりもん)を用いています。

桐は、中国では伝説の霊鳥である鳳凰が留まる木と言われる、聖なる植物。そのため桐紋は格の高い家紋として扱われ、鎌倉時代までは菊紋と並んで天皇家の紋でした。

豊臣秀吉の「太閤桐紋」は、自らがデザイン

太閤桐紋

太閤桐紋

豊臣秀吉が関白の官位を退いて、太閤と呼ばれるようになった際に用いていた家紋「太閤桐紋」は、自ら作り出したと言われています。

豊臣秀吉は、全国各地を制圧する過程で配下となった武将に桐紋を多く与え、自身はより高く格付けした独自の太閤桐紋を使い始めたのです。

太閤桐紋は通常の桐紋よりも派手な印象を受け、豊臣秀吉が好んだ、華やかな安土桃山文化の影響を感じます。

豊臣秀吉が用いた家紋

沢瀉紋は、桐紋の以前に使われた家紋

沢瀉紋

沢瀉紋

豊臣秀吉は「木下藤吉郎」と名乗っていた時期、織田信長から五三の桐紋を下賜されるまでは「沢瀉紋」(おもだかもん)を使っていました。その理由としては、豊臣秀吉の正妻である「ねね」の生家・杉原家の家紋だったからという説や、ねねの養家・浅野家の家紋だったからという説があります。

この沢瀉紋は日本で広く使用されている10大家紋のひとつ。沢瀉(おもだか)は水草の一種で、葉の形状が矢じりに似ており、矢が突き刺さる様子が連想されることから「勝い草」(かちいくさ)として、縁起の良い植物です。

豊臣秀吉は沢瀉紋を配下の武将に与えており、そのひとり、「福島正則」(ふくしままさのり)が、最後まで愛用していたことに由来し「福島沢瀉紋」(ふくしまおもだかもん)とも呼ばれています。

まとめ

豊臣秀吉は、幾多の努力を積み重ねたのち、太閤にまで昇りつめた戦国武将です。織田信長から桐紋を下賜されてからは、好んで身の回りの品物に桐紋をあしらっていました。

下層民の出身だった豊臣秀吉にとって桐紋は、天皇や名門武家と同格の同族意識を得られる家紋であり、桐紋に相当な愛着をもっていたと言えます。

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