日本の長い歴史のなかで皇室と深いかかわりを持つ刀剣は少なくありません。現存する物、失われてしまった物、年月を経て行方が分からなくなっている物、それぞれが数奇な運命を辿って、様々な逸話や伝説とともに今の世に語り継がれています。例えば、皇位継承とともに受け継がれる「三種の神器」のうちのひとつ「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)は、特に有名で一般的にもよく知られています。
一方でその「三種の神器」に次ぐ宝器として、かつて皇室に継承されていた「大刀契」(だいとけい)については、あまり広くは知られていません。その大刀契のうち「日月護身之剣」(じつげつごしんのけん)と呼ばれる霊剣についてご紹介します。
かつて皇位継承の際に三種の神器とともに、新天皇へと受け継がれていた宝器で、「古事記」や「日本書紀」には出てきませんが、その後に書かれた有職故実(ゆうそくこじつ:古来の先例に基づいた、朝廷や公家・武家の行事や制度などのこと)の解説書「禁秘抄」(きんぴしょう)や、「中右記」(ちゅうゆうき:平安時代後期の日記)などの文献に大刀契(だいとけい)が登場します。
それらによると、大刀2振と節刀(せっとう:天皇が戦地へ行く将軍または遣唐使に持たせ、任命の証の役割を持った刀)数振、数種類の割り符を総じて大刀契と呼んでいたそうです。その2振の大刀は、ひとつが「三公闘戦剣」(さんこうとうせんのけん)、もうひとつが「日月護身之剣」と言う剣でした。
それらは隣国「百済」(くだら)から貢献されたと言う説や、桓武天皇の時代から相伝が始まったと言う説があります。また、桓武天皇とかかわりが深かった百済王氏一族が受け継いできた宝剣だったとも言われています。
日月護身之剣は、刃長が2尺2寸。左側には太陽、南斗六星(なんとろくせい)、朱雀(南神)、青龍(東神)が刻まれ、右側には月、北斗七星、玄武(北神)、白虎(西神)が刻まれていました。
さらに漢文で「歳は庚申正月に在り。百済の造るところの三七練刀。南斗北斗。左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武。深く不祥を避け、百福会就、年齢延長、万歳極まり無し」と銘打たれ、疾病や邪気を取り除き、福を呼び、寿命が延びる力を持った霊剣であったとされています。
また、その文様から、道教の思想のもとに作られた剣だと言うことが分かります。
多くの宝剣や名刀が数奇な運命を辿ったように、この日月護身之剣もまた、決して穏やかな運命ではありませんでした。
960年(天徳4年)村上天皇の時代に朝廷の内裏(だいり:古代都城の宮城における天皇の私的区域)火災があり、その際に日月護身之剣も銘文が読めなくなるほど焼けてしまいます。そこで天皇はこの剣の複製を鋳造させたいと考えます。
しかし霊剣なので、ただ複製するだけでは、再現できたとは言えません。剣に霊威(れいい:人を畏れさせ、従わせる神秘的な力)を込めて作り直さなければならないのです。
当時、道教の知識があり祭祀を行なえるのは、陰陽寮(おんようりょう:律令制において占いや天文などの編集を担当していた機関)だけでした。
そこで抜擢された人物が、かの有名な安倍晴明(あべのせいめい)だったのです。
安倍晴明は銘文の調査を行ない、木形を作り銘文と象嵌(ぞうがん)を記し提出します。
これをもとに備前国(現在の岡山県東南部、香川県小豆郡・直島諸島、兵庫県赤穂市の一部)の白根安生(しらねやすなり)という者により複製が作られました。
安倍晴明が祭祀を執り行ない霊威も込められることになりましたが、焼き直しは護身剣にふさわしくないとの考えから、この最初の焼失事件により、日月護身之剣は「昼御座剣」(ひのおましのおんつるぎ)という別の名で呼ばれるようになります。
しかしその後も、日月護身之剣は火災や盗難などの災難に見舞われました。
995年(正暦6年)、再度火災により日月護身之剣は焼損し、祭祀を行なうために再び安倍晴明が呼ばれます。
1094年(寛治8年)、内裏火災により焼損。この火災で青龍の象嵌がわずかに残り、朱雀は尾だけが残ります。
1227年(安貞元年)、大刀契が盗まれますが、翌年には日月護身之剣、三公闘戦剣の両剣ともに発見されます。
朝廷は度重なる災難に懲りて、日月護身之剣を大刀櫃に、もう一方の三公闘戦剣を節刀櫃に入れるようになり、天皇行幸の際にも携行するようになりました。
こうして日月護身之剣は幾度となく災難に遭いながらも、鎌倉時代までは天皇から天皇へと引き継がれていました。
しかし、世が乱れ始める南北朝時代になると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が隠岐の島に流されるなど朝廷でも異変が度重なり、そういった流れのなかで2つの霊剣は行方が分からなくなってしまいます。
吉野(奈良県)を本拠とした南朝では、それでも皇位を継承するにあたって必須の物と考え、神社が所蔵している古剣を霊剣の代用としていました。
しかし京都(京都府)を本拠とした北朝ではそのようなこともなく、やがて歴史上から消えてしまったのでした。
「匡遠記」(ただとおき:南北朝期の争乱に関することや、南北両朝の役所関係の記録などを記した史書)によると、観応3年(1352年)の後光厳天皇(ごこうごんてんのう)践祚(せんそ:天皇の位につくこと)までに大刀契は完全に失われて、継承は廃絶してしまったと言います。
その後の室町時代、江戸時代の公家の日記などにおいても、大刀契の記載は一切見られず、歴史の荒波に飲まれて失われた過去の宝剣となってしまったのです。
かつて国を越え、海を越えて日本に届けられたとされる霊剣。力のある尊い宝剣として、天皇から天皇へと受け継がれてきました。
刀は人の持つ権力の象徴であると同時に、身を守ってくれる物。歴史上で貴重な宝が失われてしまったことは残念なことですが、それもまた歴史の一部です。1振の刀が映し出すのは、壮大な歴史物語なのかもしれません。