名刀にはときに不思議な物語がありますが、「狐と共に打った」と言う話からその名前がついたのが「小狐丸」(こぎつねまる)です。平安時代に実在したと言う刀工「宗近」(むねちか)は、一体どのような経緯でこの刀を打つことになったのでしょうか。小狐丸と、その他の名刀についても紹介します。
一説によると、宗近は平安時代中期にあたる986年(寛和2年)から1011年(寛弘8年)に在位していた一条天皇(いちじょうてんのう)の時代に生きたとされています。
どのような人物だったのか、詳細は謎に包まれていますが、日本の伝統芸能である能の曲目「小鍛冶」に、宗近をモデルにした話が残っています。
ある日の夜、一条天皇は夢の中で不思議なお告げを受けました。京三条にいる小鍛冶宗近に、刀を打たせなさいと言うのです。
一条天皇は「橘道成」(たちばなみちなり)を宗近の家に遣わして、その勅命を伝えます。宗近は恐れ多いと思いながらも宣旨(せんじ:律令期以降の日本での、天皇や太政官の命令を伝達する文書の形式名)を受けますが、刀はひとりで打つことができないため頭を悩ませました。
優れた刀を打つには、名工である宗近にも優れた「相槌」(あいづち:鍛冶工が向かい合って共に槌をふるう者)が必要なのです。
有能な相槌のあてがなく途方にくれた宗近は、氏神(うじがみ:同じ集落に住む人々が共同で祀る神道の神)の加護を頼ろうと、稲荷明神へ祈願に向かいます。すると、そこに童子(どうじ:子どものこと)のような男が現れて宗近に声をかけました。
「三条の小鍛冶宗近。あなたは帝(天皇)から勅命を受けたのですね」と言うので、宗近は驚き「あなたはどなたか。その命は先ほど受けたばかりなのに、それをすでにご存知とは不思議なことです」と返します。
すると童子は「天の声はただちに地に響く」「壁には耳があり、岩には口がある」と言うことわざがあると言い、その命は隠すことができないものだと語ります。
そして「今の御代には恵みが行き渡っているのだから、その刀も立派に打てるはずです」と宗近を安心させ、さらに漢や隋、唐の時代に振るわれた刀の威徳(威厳と人徳)についての故事や、ヤマトタケルノミコト(倭建命)が持っていた草薙剣(くさなぎのつるぎ)について語り、刀鍛冶として続いてきた家の当主である宗近であれば、きっとそれに劣らない刀が打てるだろうと予言して姿を消しました。
家に戻った宗近は、支度を整え、刀を打つための壇(だん)を飾り付けて祈願をします。すると、そこに稲荷明神の狐が現れました。狐は宗近の相槌をつとめ、無事に刀ができあがったのです。
宗近が表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」の銘を入れたのを見届けると、稲荷明神は刀を勅使である橘道成に渡し、雲に飛び乗り帰って行きました。穀物や農の神である稲荷明神が鍛冶師の信仰を集めていたのは、この説話に由来したためと言われています。
花山稲荷神社(京都市山科区)では、宗近が信仰していた神社であるとして、元々は鍛冶師のお祭りである「お火焚神事」(ふいご祭)を毎年11月に行なっています。
毎年、巡業の先頭を飾る「長刀鉾」。その名前は、疫病邪悪を払うと言う、大長刀を鉾先に付けていることに由来します。
現在飾られている大長刀は竹製のレプリカですが、かつて使われていた最初の大長刀を打ったのが宗近です。娘の病の治癒を祈願して、八坂神社(京都市東山区)に奉納した物だったと言われています。
残念ながら、1522年(大永2年)の時点で大長刀は三条長吉が打ったものと取り替えられ、現在は行方不明です。
この他、1909年(明治42年)に若狭小浜藩の酒井忠道(さかいただみち)から献上され、明治天皇のコレクションになったものの中にも「銘 宗近」と記された太刀があるなど、現存する作品は数少ないながらも、どれも秀逸な宝物となっている宗近の刀剣。
展覧会などで公開されることもあるようなので、ぜひ一度観に行ってみてはいかがでしょうか。