名刀には様々な謂れがあるものですが、その持ち主も同じ。「母子丸」(ぼこまる)の持ち主であった「平維茂」(たいらのこれもち)は、文献や能楽などでその武勇を存分に語られる人物です。その物語の数々と、母子丸にまつわる説話をご紹介します。
平維茂は、平安時代中期の武将です。父は「平繁盛」(たいらのしげもり)ですが、伯父である「平貞盛」(たいらのさだもり)の養子として育ちました。
平貞盛は、平維茂以外にもたくさんの養子を迎えていて、平維茂はその中で15番目の子どもにあたり、10を超えた余りの5と言う意味も込められて「余五」(よご)君。さらに将軍となった際には「余五将軍」(よごしょうぐん)と呼ばれました。
その名前は「今昔物語集」(こんじゃくものがたりしゅう)の本朝世俗部(ほんちょうせぞくぶ)、第25巻第4「平維茂が郎党、殺され話」、そして続く第5「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」と言う文献に残っています。
「平兼忠」(たいらのかねただ)と言う武士が、上総国(千葉県中部)を治めたときのこと。息子である平維茂(この物語では平兼忠の子のこと)が、上総守(かずさのかみ)となったお祝いに父を訪ねてきました。
平維茂と平兼忠が話す間、平維茂の従者達は庭に侍り(はべり:そばにいること)、平兼忠は小侍に腰を叩かせていましたが、庭にいる従者を見た平兼忠はふと小侍に「あの者を知っているか」と問いかけます。
小侍が「いいえ」と答えると、平兼忠は太郎介(たろすけ)と言うその従者が、以前小侍の父親を殺した者だと告げます。平兼忠は「親の仇も知らないままでいるのも情けないことだ」と思ってのことでしたが、小侍は驚き悲しみ「顔を知ったからには」と姿を消してしまいました。
その夜、小侍はよく研いだ包丁を隠し持ち、上手く太郎介の部屋にもぐりこみます。「親の仇を討つことは、天が許した親孝行です。どうか全うさせて下さい」と願い、夜が更けると太郎介を殺してしまいました。
翌朝、騒ぎを聞いて驚いた平維茂は、「私に遠慮のある者なら、こんなことはしない。旅先でこんな目にあうとは、私自身の恥だ。父を殺された子どもがここに仕えているから、きっとその者の仕業だろう」と屋敷に向かいます。
平兼忠も、きっと小侍のやったことだと認めながらも、平維茂にこう問います。「小侍を咎めて殺すつもりなのか? 親の仇討ちを咎めるなら、それは、もし私が殺されたとき、そなたは仇を討ってはくれないと言うことか」。それを聞いた平維茂はそっと立ち去りました。
平安時代中期、「藤原実方」(ふじわらのさねかた)が、陸奥守を務めたときのこと。国には平維茂と、「藤原諸任」(ふじわらのもろとう)と言う有力者がいましたが、ふたりはささいな所領争いで、藤原実方にそれぞれの正当性を訴えていました。
お互いに道理があることから采配を下すことができないうちに、藤原実方は死んでしまい、ついに合戦にまで発展してしまったのです。
平維茂の兵は3,000人、藤原諸任の兵は1,000人。あまりの戦力差に、藤原諸任は戦わず退いたため、平維茂の軍勢もそれぞれ国へ引き上げていきました。
ところが、しばらくしたある日、周囲が騒がしく感じて平維茂は夜中に目を覚まします。様子を見に遣いをやると、藤原諸任が軍勢を引き連れて不意打ちの攻撃を仕掛けてきたのでした。
平維茂は妻子を裏山へ逃がし、家の中にいたわずかな兵と防戦に努めますが、屋敷に火を放たれ、皆死んでしまいます。
火が消えたあと、藤原諸任は平維茂の死体を探しますが、どれも黒く焦げて、誰か分からないものばかり。藤原諸任は、「誰も逃さず、これだけやったのだから」と、平維茂を死んだものとして引き上げました。
帰り道、一晩中戦って疲れた兵をねぎらおうと、藤原諸任は妻の兄である大君のもとへ立ち寄ります。
経緯を聞いた大君は、平維茂を本当に討てたものかと疑問を呈し、「私は今さら合戦にはかかわりたくないので、お疲れのことと思うが、長居しないでほしい。食事は翁から差し上げますから」と言い、藤原諸任達が休む川辺に酒や食料を届けさせました。一方、平維茂は下女に変装して難を逃れていました。
焼け落ちた屋敷跡に、屋敷の外に住んでいた平維茂の家来達がやってくると、平維茂は姿を現し、すぐさま藤原諸任のあとを追い、川辺で油断していた藤原諸任を討ち取りました。
その後、藤原諸任の屋敷も攻め落としましたが、藤原諸任の妻と侍女達には手をかけず連れ帰って、大君のもとへ送り届けると、大君は喜んで門を開き、平維茂は、ますます名を上げていきました。
平維茂が登場する、能の有名な演目があります。それが「観世信光」(かんぜのぶみつ)作の「紅葉狩り」です。
戸隠山(長野県北部)に、美しい女性が侍女達を連れて紅葉狩りにやってきました。
「私達は、粗末な家に暮らしています。寂しく空を眺めていたら、あたりの紅葉を見物したくなってきたのです」と言い、見事な景色の中に幕を引き屏風(びょうぶ)を立てて、宴会を始めました。しかし、身分の高そうなその女性の正体は、実は鬼だったのです。
そこに、平維茂と従者達が通りかかりました。平維茂は紅葉を楽しみながら、鹿狩りに来ていたのです。野を分け進むと、平維茂は山陰にいる女達に気が付きました。従者に名を尋ねに行かせますが、侍女からは「さるお方(身分がある人)」とだけ返答がありました。
平維茂は、きっと高貴な女性なのだろうと見当を付けて、「誰であれ、酒宴の最中と言うことなら、馬に乗って通り過ぎることはできない」と心遣い、馬から降りて、山陰の岩の間のけわしく細い道に遠回りしようとしました。
すると女が「私など取るに足りない者です。名前はお知らせしませんが、通りかかったのもきっと前世からの縁でしょう。どうぞこちらにお立ち寄り下さい」と言い酒を勧めるので、平維茂は立ち戻りました。
そして酒を飲むうちに平維茂は、景色と女性の美しさに心を奪われ、女も平維茂への恋情をささやくようになります。
まもなく夜になり、平維茂が酔って眠ってしまうと、女は目を覚まさない平維茂の様子を窺いながら、山へ姿を消すのでした。
あたりに強い風が吹き始め、荒れた雰囲気に変わります。平維茂は夢で八幡神(はちまんしん)のお告げを受け、目を覚ますと夢で授かったはずの太刀を手に取り、立ち上がります。
すると、先ほどの女が恐ろしい鬼となって現れ、平維茂を威嚇しましたが、平維茂は「南無や八幡大菩薩」と心に念じて太刀を抜き、悪事をはたらく前に、見事に鬼を退治するのでした。
平維茂の持つ佩刀(腰に帯びている刀)だったと言う「母子丸」ですが、平維茂と刀を結び付ける逸話は残っていません。
「紅葉狩り」に登場する太刀も「母子丸」とは別物と言われています。それよりも平維茂の8番目の孫にあたる城長茂(じょうながもち)にまつわる逸話の方が多く語られています。
城長茂は生まれてすぐに行方不明となりますが、4年後、狐の住まう狐塚で無事見つかり、城長茂を連れ帰ると、狐が年老いた男に化けて出て、城長茂に櫛や刀を授けていったのです。
そのため刀の「母子丸」と言う名前は、狐を慕うと言う言葉「慕狐」(ぼこ)と言う読みが転じて付けられたものではないか、と推測する説もあります。しかし現存していないため、由来や姿形などの詳細までは、分かっていません。
数々の武勇伝を持つ平維茂。その戦いの中で母子丸も活躍したのかと考えると想像が膨らみます。長野県の戸隠とその周辺には、現在でも鬼の伝説や平維茂ゆかりの地があるので、歴史の舞台を訪ねてみてはいかがでしょうか。