刀剣の価値は、美術品としての美しさだけでなく、実戦で扱う際の切れ味の鋭さも非常に重要とされてきました。そのため、鋭い切れ味を表す特殊な名前(号)が付けられた名刀が、数多く存在します。「へし切長谷部」や「小豆長光」など、一見不思議な名前に見える、刀剣の切れ味が名前(号)となった名刀を見ていきましょう。
刀剣は、その価値を判断する上で、見た目の美しさはもちろんのこと、その切れ味がとても重要な判断基準となります。
もちろん切れ味がより鋭い刀剣が優れているため、武将達は優れた切れ味の刀剣を持つと、それを表す「号」を付けました。号とは、「三日月宗近」や「雷切」など、その刀剣を表す固有の名前です。
切れ味が特に鋭い刀剣は、試し切りをした際に、そのまま号が付けられたり、武将達が、刀剣で思わぬ物を切った際に名付けられました。
そのため、切れ味が名前となった刀剣には、一見すると不思議だと思うような号が付けられている場合があります。切れ味がそのまま号となった刀剣は現在にも多く残されており、その切れ味の鋭さを感じさせる伝承や、逸話が残されているのです。
「鬼切丸」(おにきりまる)は、源氏の棟梁「源満仲」(みなもとのみつなか)が作らせたと言われる、源氏に伝わる名刀のひとつで、「髭切」、「獅子の子」、「友切」などとも呼ばれている太刀。
銘は「國綱」ですが、これはもともと「安綱」とあった銘を改竄したもので、作者は平安期に活躍した伯耆国(現在の鳥取県中西部)の名工「安綱」(やすつな)です。そのため、本太刀は「鬼切安綱」とも呼ばれています。
本太刀に付けられた数々の号の由来は、そのほとんどが切れ味の鋭さを表しているもの。はじめに付けられた号・髭切は、試し切りで罪人を切った際に、同時にその髭まで切ったことから名付けられました。
そのあと、源満仲の嫡子「源頼光」(みなもとのよりみつ)が、家臣「渡辺綱」(わたなべのつな)に髭切を貸したところ、京都の「一条戻橋」で鬼の腕を切り落としたため、「鬼切」と名を改めたとされています。
そのあとも、本太刀が獅子のように吠えたことから「獅子の子」となったり、獅子の子より2分ほど長い獅子の子の写し「小烏丸」(こがらすまる)の目貫を切ったため、「友切」と名付けられるなど、号が変遷。「平治の乱」の際には、「源義朝」(みなもとのよしとも)が、敗戦続きであることを八幡大菩薩に向かって嘆いたところ、「友切」という号のせいであるという大菩薩の示現があり、それ以降、号を髭切に戻し、髭切は「源平合戦」で源氏を勝利に導いたと言われています。
また、「太平記」に登場する鬼切の太刀と同一視されることが多く、鬼切の名の由来は、源満仲が戸倉山の鬼を切ったためだとする説も。
そのあと、本太刀は鎌倉将軍家の宝刀として、洛中の霊社で祀られていましたが、現在は、鬼切丸(別名髭切)として、京都の「北野天満宮」が所蔵しています。
名物「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)は、鎌倉時代中期に京都で活躍した、「天下三作」のひとりに数えられる名工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の作品。
もともと薙刀(なぎなた)だったものが戦国期に磨り上げられ、大脇差となった薙刀直し刀です。九州の大名・大友氏から「足利尊氏」(あしかがたかうじ)へと献上されましたが、このときはすでに「骨喰」の号が付いていたと伝わります。
「享保名物帳」には、この号の由来として、「向かい合って切る真似をしただけでも、骨まで砕かれてしまうほど、すさまじい切れ味を持っていたため」だと記されました。
しかし、1723年(享保8年)の「享保名物帳 異本」には、「骨喰藤四郎に切られると、骨にしみるように感じるため」とも記されています。いずれにせよ、本刀剣は、骨を喰むほどすさまじい切れ味を誇る刀剣として、その号が付けられました。
骨喰藤四郎は、足利将軍家の重宝として伝わったのち、第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害した「松永久秀」(まつながひさひで)が入手。そのあと大友氏へ戻されましたが、「豊臣秀吉」から所望され、豊臣家へ渡りました。
「大坂夏の陣」ののちは徳川将軍家へと渡り、伝来。現在は豊臣家を祀った「豊国神社」(京都府京都市)へ寄進され、豊国神社が所蔵しています。
「小豆長光」(あずきながみつ)は、備前国(現在の岡山県)長船派の刀工「長光」の手による太刀で、「上杉謙信」の愛刀としてその名が広く知られています。
「小豆」という号は、上杉謙信の手にこの太刀が渡ったときの逸話が由来。あるとき、男性が小豆袋を背負って歩いていたところ、その背中から小豆がこぼれ落ち、鞘の割れた本太刀に当たりました。すると、小豆が真二つに割れていたのです。
これを見ていた上杉家の家臣が即座に買い上げ、主君である上杉謙信に献上したことから、「小豆長光」と名付けられ、上杉謙信の愛刀となりました。
たまたま当たったに過ぎない小豆をも真二つにするような切れ味こそが、小豆長光の特徴。小豆長光を愛用した上杉謙信は、「川中島の戦い」でこの小豆長光を揮い、「武田信玄」と一騎打ちをしたという話が残っています。
この話と共に上杉謙信の愛刀である小豆長光の名も世に広まりましたが、現在本太刀の所在は不明。上杉謙信の後継「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が記した愛刀の目録である「上杉景勝自筆腰物目録」には、上杉謙信の愛刀・小豆長光は記されていませんでした。
これにより、小豆長光は上杉謙信が誰かに贈与したか、別の号に変えられたのか、別の刀剣と混同されていると考えられています。
「鉄砲切り兼光」(てっぽうぎりかねみつ)は、もともとの所持者が「竹俣慶綱」(たけのまたよしつな)であったことから、別名「竹俣兼光」(たけのまたかねみつ)とも呼ばれる、備前国長船派「兼光」作の太刀。
その他、「一両筒」(いちりょうづつ)、雷切という別名もあります。雷切の名の由来は、本太刀を頭上に掲げて雷雨から逃げた、越後国(現在の新潟県)の百姓が、雷雨の過ぎ去ったのちに刀剣を確認すると、血潮が付いていたという話から。
本太刀は竹俣慶綱が所有していましたが、あるとき、その奮闘ぶりを聞き付けた上杉謙信が召し上げ、上杉謙信の所蔵となりました。のちに川中島の戦いでこの太刀を帯びた上杉謙信が、武田軍に深く攻め入ったところ、鉄砲兵を鉄砲もろとも切り捨ててしまったという話から、「鉄砲切り兼光」、「一両筒」という号が付けられたのです。
上杉謙信の死後は、上杉景勝の手に渡ったのちに、豊臣秀吉が召し上げました。豊臣秀吉から「豊臣秀頼」(とよとみひでより)へと伝わった鉄砲切り兼光は、大坂城が落城した際に行方不明に。徳川家が多くの報奨金を出し、探させましたが、結局見つからず、現在に至っています。
切れ味の鋭さを表す号を持つ刀剣として、特に有名なのが、国宝「へし切長谷部」(へしきりはせべ)。「へし切長谷部」は、「織田信長」の愛刀として知られており、正宗十哲のひとりに数えられる相模国(現在の神奈川県)の名工「長谷部国重」(はせべくにしげ)の作品。
あるとき、織田信長が失敗を犯した茶坊主「観内」(かんない)を手打ちにしようとして追いかけた際、観内が台所の御膳棚の下に隠れました。そのため、織田信長は手に持っていた、長谷部国重の刀剣を御膳棚に圧し当てたところ、その刀剣は棚ごと観内を圧し切ったと言います。
本来、刀剣は包丁と同様に、対象物に刃を当てて引かなければ、切ることができません。しかし、へし切長谷部は、刃を圧し当てただけで、棚ごと人間を切り捨ててみせたのです。その見事な切れ味に、織田信長はその長谷部国重の刀剣を、「へし切」と名付けました。
本刀剣は、差表に「黒田筑前守」、差裏には「長谷部国重本阿(花押)」との金象嵌(きんぞうがん)が入る、刃長64.8cm、反り0.9cmの名物です。このあと、織田信長から黒田家へと渡り、へし切長谷部は、黒田家代々の家宝として継承され、1953年(昭和28年)、国宝に指定されました。現在は黒田家から福岡市に寄贈され、「福岡市博物館」の所蔵となっています。
「人間無骨」(にんげんむこつ)は、室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活躍した刀工「和泉守兼定」(2代目)により作刀された十文字槍です。表の首に「人間」、裏の首に「無骨」と文字が彫られており、号の由来は「人間に骨がないも同然によく切る」ほどの切れ味があることから、名付けられました。
本槍は、織田信長の家臣で、「鬼武蔵」と呼ばれた猛将「森長可」(もりながよし)が所持しており、森長可はこの人間無骨を揮った「伊勢長島の戦い」において、27もの首級を挙げ、主君・織田信長から称賛を受けたと言います。
またあるとき、森長可が首を突き刺した状態で本槍を立てたところ、首が十文字の部分を突き抜け、下まで落ちてしまったという逸話も残されました。
本槍は、森長可の子孫である赤穂藩(現在の兵庫県)森氏に代々伝来し、現在は個人蔵。なお、人間無骨の写しは古くから作られており、森家の先祖を祀っている、「赤穂大石神社」に所蔵されています。
徳川四天王のひとりとして知られる「本多忠勝」(ほんだただかつ)愛用の槍「蜻蛉切」(とんぼきり)は、「日本号」(にほんごう)や「御手杵」(おてぎね)と共に、「天下三名槍」のひとつに数えられている名槍。
三河文珠派(村正の一派)の刀工「藤原正真」(ふじわらまさざね)の手による笹穂の槍身で、刃長は43.7cm、重さは498gの大身槍です。樋(ひ:刀身にある、細長い溝のようになっている部分)に梵字と三鈷剣が彫られています。
本多忠勝は、「一言坂の戦い」や「長篠の戦い」、「小牧・長久手の戦い」など、多くの合戦でこの蜻蛉切を使用し、活躍しました。
蜻蛉切という号は、戦場で立てていた槍の刃先に留まった蜻蛉を、真二つに切ったという逸話に由来するもの。本多忠勝はこの蜻蛉切を携え、生涯で57回もの戦いに赴きましたが、一度も傷を負うことがなかったと伝えられています。
武勇に秀でた本多忠勝のことを称え、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と詠まれました。
蜻蛉切は、以降代々本多家に伝来しましたが、現在は個人蔵となっており、「東京国立博物館」には1847年(弘化4年)に作られた写しが、岡崎城にある「三河武士のやかた家康館」には、レプリカが展示されています。
「一胴七度」(いちのどうしちど)は、すさまじい切れ味を持つと言われた、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工「千子村正」(せんごむらまさ)の手による刀剣。
関白に任ぜられた豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の愛刀でした。差表には、「一胴七度」、差裏には、所持銘「前關白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之」が、双方金象嵌で施されています。一胴七度という号の由来は、豊臣秀次が自ら本刀剣を揮い、一の胴(両脇から少し下、胸よりやや上の胴体部分)の試し切りを7回も成功させたほどの切れ味を持っていたことから。
廃刀令よりも前、刀剣の切れ味を確かめるための方法として、罪人の遺体を切り、検証をしていました。その際、台の上に遺体を重ね、一度に何体切ることができるのか確認をしたものを、2体なら「二ツ胴」、3体なら「三ツ胴」と呼び、茎に銘を刻んだものもあります。
本刀剣の号「一胴七度」は、「二ツ胴」、「三ツ胴」のように、一太刀で何体も重ねて切ったというものではありません。
しかし、肋骨の多い部分である一の胴を切ることは、切りやすい部位を重ねた「二ツ胴」、「三ツ胴」よりも難易度が高いとされており、それを7回も成功させたことから、本刀剣が持つ、すさまじい切れ味が分かるのです。
鋭い切れ味が名前になった刀剣を取り上げ、その由来をご紹介しました。
切れ味の鋭さは、その刀剣の価値を計る上で非常に重要視され、切れ味が鋭いほど、武将達はその刀工が打った刀剣を、手に入れようとしたと言います。刀工によって丁寧に鍛造され、武将達によって所蔵されてきた刀剣は、やがて現在の日本で、芸術品としてその価値を問われることとなりました。
姿だけでなく、刀剣に付けられた号の由来を知った上で鑑賞すれば、その刀剣が辿ってきた歴史に触れることができます。刀剣鑑賞の楽しみのひとつとして、今後ぜひご注目下さい。