「名物」という言葉は、もともと茶道の世界で用いられたのがはじまりです。その後、様々な分野で使われるようになりましたが、かつては武士の象徴であり、現代では美術品として高い価値が認められている日本刀も例外ではありません。日本刀における「名物」とは、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に所載された作品のことを指し、そこには編纂を命じた江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」の日本刀に対する想いが込められているのです。「刀剣ワールド財団」が所蔵している名物4振をご紹介するとともに、日本刀の名物について紐解いていきます。
日本には「名刀」と呼ばれる優れた作品が数多く現存していますが、そのすべてが「名物」と称されるわけではありません。「正宗」や「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)など、歴史に名を残すほどの名工が鍛えた名刀の中でも、最高品質の日本刀だけが名物と認められるのです。
名物の条件としては、出来栄えに優れて美術的な価値が高く、かつ歴史的にも価値が高くなければなりません。美術的な価値には「品質」と「姿」が含まれ、とりわけ上質な「玉鋼」(たまはがね)を素材として、作刀に適した温度と湿度が整った状況のもと腕の立つ刀工が鍛えたこと、そして完成した日本刀の姿が美しいことも名物の条件です。
さらに、皇室の持ち物である「御物」(ぎょぶつ)であったことや、徳川将軍家または御三家、諸藩の主家に所持されたことなどの来歴も重視されています。
日本刀に名物の称号を用いるようになったのは室町時代であるとされ、権力者の多くは名物の蒐集(しゅうしゅう)にも力を入れました。名物のなかには「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」という戦国時代の三英傑に所持された名品もあるほどです。
また、古くは「鬼退治に用いられた」、「雷を切って避けた」など、特徴的な逸話を持つことも名物に選定される条件となっていました。
現代では、「享保名物帳」に所載された日本刀が名物であるとされています。
享保名物帳とは、江戸時代半ばの1719年(享保4年)に8代将軍・徳川吉宗の命により、本阿弥家13代当主「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)とその一族が編纂(へんさん)した書物です。現代風に言えば「名刀リスト」にあたると考えて良いでしょう。
享保名物帳が編纂された理由のひとつには、徳川吉宗が信条とした「尚武」(しょうぶ)の気風があります。尚武とは武道を尊ぶことで、泰平の世が続き忘れられかけた勇武の精神を取り戻すために、徳川吉宗は武芸を奨励しました。そこで、武士の象徴たる日本刀の価値を高めるために、特に優れた名刀を名物として書物にまとめさせたのです。
編纂を担った本阿弥家は、もともと日本刀の研磨を生業(なりわい)としていた家系で、代々足利将軍家に仕えていました。やがて膨大な研磨の記録・資料を蓄積したことから、それをもとに日本刀の鑑定を行うようになり、10代当主「本阿弥光室」(ほんあみこうしつ)の頃には作品の価値・価格を記した「折紙」(おりがみ:鑑定書のこと)を発行しています。徳川吉宗が享保名物帳の編纂を本阿弥家に命じたのは、こうした実績によるものだったのです。
享保名物帳の上巻には、正宗の作品41振、粟田口吉光の作品16振、「郷義弘」(ごうよしひろ:江義弘とも)の作品11振の計68振を収録。この3名の名工は「名物三作」、または「天下三作」(てんがさんさく)として有名です。下巻は100振、また編纂当時にはすでに火災などで失われていた81振や、のちに追記された25振を加えて、全274振が所載されています。
ただし、名刀を所有していた大名家が、徳川幕府に没収されてしまうことを懸念して秘匿(ひとく:こっそり隠すこと)することもあったため、すべての名刀が享保名物帳に所載されたわけではありません。
本短刀「銘 来国光」(めい らいくにみつ)は、織田信長の異母弟で、武将の「織田長益」(おだながます)こと「織田有楽斎」(おだうらくさい)が、「豊臣秀頼」から拝領した1振です。「名物 有楽来国光」と呼ばれ、1930年(昭和5年)には国宝に指定されています。
織田信長亡きあと、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手)として仕えた織田有楽斎。幼少の頃より茶道を身に付けていたことから「千利休」(せんのりきゅう)に学んで道を究め、晩年に独自の流派である武家茶道「有楽流」(うらくりゅう)を興しました。一説には東京の「有楽町」という地名は、織田有楽斎の屋敷があったことに由来すると言われています。
本短刀の作刀者は「来国光」。鎌倉時代末期から南北朝時代に山城国(現在の京都府)で活躍した名工で、覇気のある作風が持ち味です。
享保名物帳には、5,000貫(現在の価格で約3億7,000万円)と記載されており、本短刀がいかに高く評価されていたのかが分かります。織田有楽斎が所持したあとは、刀剣鑑定家の「本阿弥光甫」(ほんあみこうほ)の取次で「前田利常」(まえだとしつね)の手に渡り、以後長く加賀(現在の石川県南部)100万石の前田家に伝来しました。
本短刀の銘は「備州長船住長義」(びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)。別名を「大坂長義」と言い、名前の由来については諸説ありますが、豊臣秀吉が愛刀である本短刀を、家臣であり旧知の間柄であった大名「前田利家」(まえだとしいえ)に、大坂城(現在の大阪城)内で下賜したからという説が有力です。それ以降、本短刀は加賀前田家の家宝となって受け継がれました。
大坂長義を作刀した「長義」は、南北朝時代の「備前国長船派」(現在の岡山県瀬戸内市を拠点とした刀工一派)を代表する名工です。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した名工・正宗の10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)にも名を連ねています。
作刀年代が離れているため、直弟子であったかどうかは定かではありませんが、本短刀においても、板目肌立ちごころの鍛えに地沸(じにえ)が強く付き、刃文は華やかな大乱れで、正宗の影響を受けた相州備前らしい作風が印象的です。
本短刀は享保名物帳に、「代金百枚 信長公の御時、江州塩川殿所持。後本多美濃守所持」と記載。織田信長が尾張国(現在の愛知県西部)を統治していた時代に、塩川氏が所持していたことが分かります。その由来と、作刀者である来国光の名を合わせて「塩川来国光」と名付けられました。
この塩川氏とは、江州(近江国:現在の滋賀県)の豪族であるとする説と、摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)の「塩川伯耆守国満」(しおかわほうきのかみくにみつ)であるという説があります。
塩川氏を経たのち、「本多美濃守忠政」(ほんだみののかみただまさ)が入手し、播州姫路藩(現在の兵庫県西南部)本多家に伝来しました。本多忠政は、「徳川四天王」のひとりで勇将として名高い「本多忠勝」(ほんだただかつ)の長男です。家督を継いで桑名藩(現在の三重県桑名市)2代藩主となったのち、播磨姫路藩初代藩主となりました。
作刀者の来国光は、「来派」の中でも作刀期間が最も長く、現存する作品の多くが国宝や重要文化財に指定されています。
本短刀は、大和御所藩(やまとごせはん:現在の奈良県御所市)の初代藩主「桑山元晴」(くわやまもとはる)が江州大津で買い求めたとされる逸品です。大和五派のひとつである刀工一派「当麻派」(たいまは)の作品であることから、「桑山当麻」とも呼ばれています。
桑山元晴の跡を継いだ「桑山貞晴」(くわやまさだはる)が、嗣子(しし:跡継ぎ)のないまま早世したため、大和御所藩は廃され幕府領となりました。このとき、本短刀も桑山家から紀州徳川家へ渡りますが、紀州徳川家には「上部當麻」(うわべたいま)という名の別の短刀があったため、尾張徳川家と道具替えすることになり、尾張徳川家の所有となったのです。
その際、刀剣鑑定家の本阿弥家が当麻派の短刀2振を混同したことにより、尾張徳川家へ移った本短刀も上部當麻と呼ばれるようになったと伝えられています。その後、尾張徳川家5代藩主「徳川五郎太」(とくがわごろうた)の遺物として、徳川将軍家へ献上されました。