「山城伝」(やましろでん)は、平安時代後期以降に現在の京都府南部に当たる「山城国」で興った鍛刀の伝法です。同国は、日本における政治の中心地として、公家や貴族が集まっていたことにより、この山城伝を含む「五箇伝」(ごかでん)のなかでも、山城伝は優雅で美しい姿である刀が多く作られていました。山城伝の歴史を紐解きながら、「刀剣ワールド財団」が所蔵する山城伝の刀について解説します。
「山城伝」の歴史は、50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が、784年(延暦3年)に「平城京」(現在の奈良県)から「長岡京」(現在の京都府長岡京市)へ、さらには794年(延暦13年)、「平安京」(現在の京都府京都市)へ遷都したことから始まります。
これにより、朝廷が置かれることになった山城国が、日本における政治や経済の中心地となりました。そのため、全国の刀工達が同国に集まるようになったのです。そのなかのひとりが同国三条(現在の京都市東山区)に住していた「三条宗近」(さんじょうむねちか)。「日本三名匠」のひとりに数えられるのほどの作刀技術を持っていた三条宗近が、山城伝の始祖であったと伝えられています。
山城伝の刀工は、当初、美しさを重視した気品のある姿の太刀を作刀していました。これは、その当時における注文主の大部分が武士ではなく、天皇や公家、貴族であったことが背景にあります。奈良時代には、唐(中国)に影響を受けた「唐風文化」が主流となっていましたが、平安時代中期頃から、日本特有の「国風文化」が発達していきます。国風文化の特長は、公家や貴族が好む風雅な優美さがあること。これが山城伝の刀工が手掛けた作刀にも反映され、同伝の特色になっていったのです。
ところが、そんな山城伝の特色を変えてしまうほどの内乱が、平安時代末期に当たる1180年(治承4年)に起こります。それは、通称「源平合戦」と呼ばれる「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)。「源氏」と「平氏」の間で、覇権争いが繰り広げられたこの戦いは、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、武家政権となる「鎌倉幕府」を創始する結末を迎えて終わります。つまり、この頃の刀には外観の美しさではなく激しい合戦に耐え得るだけの頑丈さを持った、実用性の高さが求められるようになったのです。
鎌倉時代に入ると、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)による「御番鍛冶」(ごばんかじ)制度が始まります。これは、全国から名工を京都に集め、作刀を月番で行わせた制度です。御番鍛冶には、現在の奈良県で興った「大和伝」(やまとでん)や、「刀の代名詞」と称されるほどの優品を作っていた、岡山県の「備前伝」(びぜんでん)などの名工達に混ざって、山城伝を代表する「粟田口派」(あわたぐちは)の「国友」(くにとも)や、「国安」(くにやす)なども招聘(しょうへい)されました。
この頃には、鎌倉武士達による激しい合戦がさらに繰り返されるようになったため、豪壮な姿の太刀が大流行。そのため、山城伝の刀工達は現在の神奈川県で発達した「相州伝」(そうしゅうでん)の影響を受けて作刀していましたが、鎌倉時代後期に鎌倉武士の気質に合った相州伝が繁栄したことにより、山城伝は室町時代に入ると衰退の一途を辿っていくことになったのです。
山城伝の最も大きな特色は、品格が備わった細長い太刀姿にあります。山城鍛冶が手掛けた刀は「山城物」(やましろもの)と呼ばれており、そのような雰囲気を醸し出しているのは、山城物独特の「反り」があるからです。これは、反りの中心が刀身の中央に来る「中反り」(なかぞり)と称される反り姿で、「京反り」や、神社の鳥居のような形状をしていることから「華表/鳥居反り」(とりいぞり)とも呼ばれています。
刃文は「直刃」(すぐは)を基調としているため大人しい印象を与えますが、「小乱」(こみだれ)や「小丁子乱」(こちょうじみだれ)などの「乱刃/乱れ刃」、そして刃中においては「金筋」や「地景」(ちけい)、「湯走り」(ゆばしり)など、働きが豊富。
また、地鉄(じがね)については不純物が少なく潤いがあり、「小沸本位」(こにえほんい)であることが基本。精微な「小板目肌」(こいためはだ)が詰んでいるのが特長で、「地沸映り」(じにえうつり)が見られるのです。彫刻は派手な物は少なく、簡単ではあるものの刀身の中央に深く施されており、品位を感じさせる意匠になっています。
平安時代後期に発達した山城伝は、永延年間(987~989年)に活躍した三条宗近の「三条派」に始まり、同伝の代表的な存在であった粟田口派や「来派」(らいは)、そして室町時代初期に興った「信国派」(のぶくには)が続きました。
ここからは、「刀剣ワールド財団」が所蔵する刀のなかでも、山城伝におけるこれら4つの流派によって作られた刀についてご説明します。
三条派の祖と伝わる三条宗近は、66代天皇「一条天皇」が世を治めていた永延年間(987~989年)に活躍した名工として知られています。三条宗近はもともと、公家として朝廷に勤めていた人物であり、当初作刀は、単なる趣味として行っていました。
しかし、その技術が桁外れであったことから「小鍛冶」(こかじ)と称され、一条天皇の勅命により宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を作刀。この逸話をもとに、小鍛冶と題した謡曲が作られました。また、三条宗近と言えば、「名物」と評される国宝の太刀「三日月宗近」を鍛えたことでも有名です。これは、刃縁(はぶち)に現われる弓状の働き「打除け」(うちのけ)が、三日月に見えることから付けられた名称。
三日月宗近は、その出来映えの素晴らしさから、室町時代には「天下五剣」(てんか/てんがごけん)のひとつに選ばれ、「徳川将軍家」に代々伝わったのです。三条宗近の類い稀なる作刀技術は、その子、もしくは孫と伝わる「三条吉家」(さんじょうよしいえ)や、のちに「五条派」と呼ばれる山城伝の一派を作る「五条兼永」(ごじょうかねなが)などに受け継がれました。
本刀を手掛けたと鑑せられる三条吉家は、953年(天暦7年)に生まれ、東三条に住した刀工です。前述の通り三条宗近の子孫であったと推測されていますが、一説には三条宗近の「隠し銘」であったとも伝えられています。
同じく「吉家」と銘を切る刀工は備前伝にも見られますが、「備前吉家」には本刀の「吉家作」のような三字銘を切った作刀がないことから、三条吉家の作刀であると考えられるのです。
なお、本刀の茎(なかご)に切られているは「額銘」(がくめい)と呼ばれる銘の一種。「大磨上げ」(おおすりあげ)により刀身の長さを短くする際に、もとの銘をあらかじめ短冊形に切り取り、磨上げた新しい茎に嵌め込んだ銘です。
本刀の刃文は、山城伝らしく小乱に丁子乱が交じり、また、地鉄は板目肌に「杢目肌」(もくめはだ)が交じっているのが特長。父、または祖父であった三条宗近による作刀のような風雅さが感じられる1振です。
粟田口派は、平安時代後期に登場した「国家/國家」(くにいえ)を始祖とする刀工一派です。国家の6人の子ども達は「粟田口六兄弟」と称され、前述した御番鍛冶を務めた長男の「国友」(くにとも)や次男の「久国」(ひさくに)など、優れた名工達が世に送り出されています。
粟田口派のなかでも、特に作刀技術が高かったと伝わるのは、久国の曾孫であり、鎌倉時代中期頃に活躍した「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)。通称「藤四郎」(とうしろう)とも呼ばれていた粟田口吉光は、「豊臣秀吉」により、「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)や「郷義弘」(ごうよしひろ)と共に、「天下三作」(てんがさんさく)のひとつに選ばれていました。
粟田口派の作刀は、品のある直刃を特長とし、その精微な地鉄は、小板目肌が微塵に詰まれた「梨子地肌」(なしじはだ)が多く見られます。
本刀を作刀したと考えられる「粟田口国吉」(あわたぐちくによし)は、粟田口六兄弟のひとりである国友の子、「則国」(のりくに)を父に持つ刀工です。鎌倉時代中期頃に活躍し、短刀の作刀を得意としていました。そのため、粟田口国吉による作例は短刀以外はあまりなく、無銘ではありますが本刀のような「打刀」(うちがたな)が現存しているのは、非常に貴重であると言えます。
粟田口派に取って代わり、鎌倉時代中期頃に登場した山城伝の流派が「来派」です。来派の開祖は、高麗(こうらい:現在の朝鮮半島)から渡って来たとされる「来国吉」(らいくによし)と伝えられていますが、その作刀については古剣書に記述があるのみで現存する刀は遺されていないため、来国吉の子である「来国行」(らいくにゆき)が、同派における事実上の開祖であったと推測されています。
来派が隆盛した理由のひとつが、鎌倉幕府の成立により鎌倉武士が台頭してきたこと。来派は、優美さが最大の特長であった山城伝における他の流派とは一線を画し、豪壮な太刀を作刀することに長けていました。この特長が、実戦を繰り返していた鎌倉武士の需要に合致。作刀技術が優れていたのはもちろん、鎌倉武士との間における受注政策にも成功していたのです。
このような背景により、来派は現代においても山城伝と言えば真っ先に連想されるほどの名門に発展。「来国俊」(らいくにとし)や「了戒」(りょうかい)といった名立たる名工達を世に送り出しました。
本短刀は、「織田信長」の弟である「織田有楽斎」(おだうらくさい:別称織田長益[おだながます])が、仕えていた主君「豊臣秀頼」(とよとみひでより)から下賜された1振。その後、加賀藩(現在の石川県)の藩主「前田家」に伝来し、1955年(昭和30年)に、国宝に指定された名品です。
本短刀を手掛けた「来国光」(らいくにみつ)は、その出自には諸説ありますが一説によると、来国俊の子と伝えられています。その作刀は、短刀のみならず太刀についても現存している物が多く、美しく覇気のある沸が付いた直刃調の作風を得意としていました。
本短刀は、丁子乱に「互の目」(ぐのめ)が交じった刃文と、緻密に詰まれた小板目肌が特長。豪壮な姿であると共に、品があって気高い雰囲気も感じられます。
室町時代初期頃、来派と入れ替わりに興ったのが、「信国」を祖とする「信国派」です。信国は、「二代 了戒」の子や孫、あるいは門弟であったと伝えられています。
同派は、同銘で6代に至る室町時代中期まで存続した一門。信国による作刀のなかには、「武田信玄」が所有していたと伝わる「重要文化財」指定の脇差があり、その銘には「一期一会」(いちごいちえ)の言葉が切られています。
同派を開いた「初代 信国」は、相州伝の名工・正宗に師事した、「貞宗」(さだむね)の3人の高弟「貞宗三哲」のひとりに数えられるほどの技術を持っていました。
信国派の作風は、相州伝と備前伝が融合した「相伝備前」(そうでんびぜん)を想起させるような、沸が強く現われているのが特長。その刃文には、直刃を基調とした物、または、相州伝の影響を強く受けた「湾れ刃」(のたれば)に、互の目が交じった乱刃が良く見られます。
本太刀は信国派のなかでも、「源左衛門尉」(みなもとさえもんのじょう)の通称で知られる刀工が作刀したと鑑せられる1振。
その理由は、「表銘」(おもてめい)に切られた信国の文字が逆字になっていること、さらには、「裏銘」(うらめい)にある應永十五年(1408年)の年紀銘が、同工が作刀活動を行っていた時期に当たることが挙げられるのです。
本太刀は、板目肌が肌立ち気味になっている鍛えや、互の目を基調とした小沸本位の乱刃の刃文が見られるなど、源左衛門尉信国の得意な作風が存分に発揮されています。