「五箇伝」(ごかでん)のひとつである「備前伝」(びぜんでん)は、平安時代後期より、現在の岡山県東南部に当たる「備前国」で発達した鍛法です。 日本における刀の一大生産地として、備前伝が「刀の代名詞」と評されるまでに発展した背景には、どのような歴史と特色があったのかについて、「刀剣ワールド財団」所有の備前刀をご紹介しながら解説します。
「備前伝」が興った備前国は、古代日本における地方国家「吉備国」(きびのくに)に該当する地域。現在まで多くの古墳が残されており、「ヤマト政権」を支える有力な豪族達が支配していた場所でもありました。
また、刀の材料となる良質な砂鉄が採れる中国山地や、水や炭などが豊富にある「吉井川」(よしいがわ)流域など、立地の面でも、品質の高い刀を作るのに適した条件が揃っていたのです。
そのため備前国に当たる地域では、古来鍛冶の産業があったと考えられています。その中で備前伝は、平安時代後期以降に、同国に住していた刀工達によって生まれた伝法です。同伝で最初に興った刀工集団の一派は「古備前派」(こびぜんは)と称され、鎌倉時代初期頃まで、その隆盛を極めていました。
鎌倉時代初期以降には、「一文字派」(いちもんじは)と呼ばれる刀工集団が出現。同派には、時代ごとに「福岡一文字」や「吉岡一文字」(よしおかいちもんじ)などの流派が誕生しました。この当時、82代天皇の「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)により、「御番鍛冶」(ごばんかじ)と称する作刀制度が設けられています。これは、全国から13名の刀工を招聘し(しょうへいし)、月番で作刀させる制度でした。
一文字派においては、吉井川流域に位置する福岡(現在の岡山県瀬戸内市)の地で興った福岡一文字派から、7名もの刀工が御番鍛冶に選ばれています。そのあと、この一文字派は、南北朝時代初期頃まで続きました。さらに鎌倉時代中期から室町時代末期には、備前伝を代表すると言っても過言ではないほど繁栄した「長船派」(おさふねは)が登場。
同派からは、類い稀なる作刀技術を持った名工達が多数世に送り出されました。そして戦国時代に入り、激しい合戦が頻繁に勃発するようになると、武器として用いるために全国から刀の注文が殺到。長船派の刀工達は、急速な需要の拡大に応じて大量生産しながらも、高品質な出来映えである備前刀を作刀しており、それらは「末備前」(すえびぜん)と呼ばれています。
ところが1590年(天正18年)、吉井川において大規模な洪水が発生。長船派の刀工達は、壊滅的な被害を受けることに。これにより、作刀活動を行えなくなった備前伝の長船派は、没落することになったのです。
備前伝の最たる特色は、「腰反り」(こしぞり)が付く姿であるということ。現在の奈良県で興った「大和伝」(やまとでん)や、同じく京都府南部での「山城伝」(やましろでん)による作刀の場合、反りの中心が刀身の中央辺りに来ますが、備前伝では、「茎」(なかご)のすぐ上部から反りが始まり、「区」(まち)付近にその中心が見られるのです。
室町時代初期頃までの主流であった反りが深い「太刀」(たち)だけでなく、室町時代中期以降に作られるようになった、比較的反りの浅い「打刀」(うちがたな)にも、わずかながら腰反りの付く作例が多くありました。また、腰反りの次に備前刀の大きな特徴となるのは、「乱映り」(みだれうつり)と称される「地中の働き」(じちゅうのはたらき)です。
「映り」とは、刀身の「平地」(ひらじ)を光に透かして観察したときに、刃文に似た形状の淡く白い影が観える文様のことを言います。この映りの中でも備前刀には、直線的ではなく、乱れたように観える乱映りが多く現れているのです。
さらに備前刀は、「匂出来」(においでき)の刃文となる「丁子乱刃」を焼き、これにより「地鉄」(じがね)部分に、映りの一種である「丁子映り」が見られるようになります。そしてこの丁子映りこそが、他の伝法による作刀にはない、備前刀のみが持ち得る美しさであると評されているのです。
ただし、備前刀の刃文が匂出来の丁子乱となるのは、鎌倉時代中期以降であり、平安時代から鎌倉時代初期頃までは、山城伝と同じく「沸出来」(にえでき)で「直刃」(すぐは)仕立ての作風を基本としていました。
また地鉄は、「板目肌」に「杢目」(もくめ)が交じり、良く練れて詰み、やわらかい印象を受けるのが特徴。「帽子」は乱込んで「小丸」(こまる)に返る作刀が多く観られます。
このように、備前刀には様々な特徴がありますが、それらの中でも、乱映りが立つ地鉄と共に焼かれた刃文の丁子乱刃は、太平の世となった江戸時代に入ってからも多くの武士に好まれていました。そのため、「新々刀期」(しんしんとうき)における「江戸三作」のひとりに数えられる「大慶直胤」(たいけいなおたね)などは、この備前刀の刃文を忠実に再現しようとその生涯を懸けたと言われています。
備前刀に共通する特色をご説明しましたが、その一方で同伝では、時代ごとに多種多様な作風を持った流派が登場していたため、備前伝は他の五箇伝における伝法に比べると、その特徴をひと言でまとめることが難しいというところも、大きな特色だと言えます。備前伝の刀工は、4,000人以上もいたと推測され、古刀期だけで見てみても、その数なんと2,200人以上。
これは、現在の神奈川県で発祥した「相州伝」(そうしゅうでん)の16倍、山城伝の12倍、さらには、現在の岐阜県南部で興った「美濃伝」(みのでん)の5倍に相当する人数です。このような背景から見ても、同じ備前伝の刀工であっても、流派や時代ごとに顕著な違いが見られることが備前伝の特徴だと言えます。
ここからは、備前伝を代表する各流派について解説すると共に、それぞれによって作刀された「刀剣ワールド財団」の所蔵刀をご紹介します。
平安時代中期頃に興った「古備前派」は、備前伝の始祖として、鎌倉時代初期頃まで活躍しました。その開祖は、現存する作刀が「国宝」や「重要文化財」に指定されるなど、高評価を受けている「友成」(ともなり)であったと伝えられています。
古備前派の作風は、直刃調、もしくはゆったりとした波の形状を模した浅い「湾れ」(のたれ)に「小乱」(こみだれ)の刃文を焼くことが特徴。備前刀らしく深い腰反りが付き、「踏張り」(ふんばり)のある太刀姿になっています。
本刀を作刀した「正恒」(まさつね)は、平安時代後期より作刀活動を行っていた名工です。様々な書物に「七種の正恒が見られる」と記載されている通り、その銘振りにはいくつか種類があることから、同銘の刀工が複数存在していたと伝えられています。
正恒は、友成と並び称されるほどの卓越した作刀技術を持っており、本刀においても、その才能を大いに発揮。正恒が得意とした直刃調の刃文からは優雅な雰囲気が感じられ、緩みが見られない鍛えの良さが、充分に現れている名品です。
なお、本刀の銘に用いられているのは、「額銘」(がくめい)と称される様式。所有者の体格や身長、そして好みなどに合わせて刀身の長さを短くする「磨上げ」(すりあげ)を行う場合、「茎尻」(なかごじり)と呼ばれる茎の最下端部を切って短く詰めます。
このとき、切る長さによっては銘がなくなってしまうことがあるため、事前に銘の部分を切り取って、磨上げ後の茎に嵌め込む方法です。また額銘は、短冊状に切り取ることから「短冊銘」とも呼ばれています。
「一文字派」は、「片山一文字」や「吉岡一文字」など複数の流派で構成されており、それらの中で最初に栄えたのは、「福岡一文字」と称される一派です。鎌倉時代中期頃に興ったと伝わる同派は、吉井川の東岸にあった福岡庄/福岡荘を拠点としていたことから、その呼称が付けられました。福岡一文字派の始祖は、古備前派の刀工・正恒の流れを汲む「定則」(さだのり)の子、「則宗」(のりむね)であったと伝えられています。
福岡一文字派の中でも、時代が上がる鎌倉時代初期頃に作刀していた刀工集団の一派は「古一文字派」(こいちもんじは)と称され、「助宗」(すけむね)や「宗吉」(むねよし)といった名工達が属しており、彼らもまた、御番鍛冶に選ばれていました。
前述した通り、福岡一文字派が登場する以前の備前刀は、沸出来で直刃調の刃文が主流となっていましたが、福岡一文字派により、匂出来の丁子乱へと変化。この作風が、そのまま備前伝による作刀の特色となったのです。
同派を代表する刀工は、「吉房」(よしふさ)や「助真」(すけざね)。威風堂々たる姿に、地鉄は板目交じりの小板目肌となり、映りが顕著に現れているのが、福岡一文字派の特徴。刃文は丁子乱の中でも、ひと際華やかである「重花丁子乱」(じゅうかちょうじみだれ)となっています。
本刀を手掛けたと鑑せられるのは、鎌倉時代後期以降、福岡一文字派に続いて隆盛した「吉岡一文字派」の刀工。同派は、福岡庄の北方に位置した「吉岡庄/吉岡荘」で興った刀工集団です。
吉岡一文字の刃文は、福岡一文字に比べると、「乱刃/乱れ刃」(みだれば)の華やかさに欠けますが、浅い湾れに、やや逆がかった「互の目」(ぐのめ)と丁子が交じる焼刃が特徴。
一般的に「一文字派」と言われる場合、この吉岡一文字と福岡一文字を指すことが多く、両者とも珍重されています。本刀では、互の目と大丁子が交じって様々な「刃中の働き」が見られるだけでなく、備前刀における最大の特色である乱映りも出現。吉岡一文字を象徴する名刀です。
長船派は鎌倉時代中期頃に興り、一文字派に取って代わって繁栄した備前伝の一派です。同派の始祖は、古備前の名工・正恒系に属していたと伝わる「光忠」(みつただ)。
その子である「長光」(ながみつ)は、父の作風を受け継いで華やかな丁子乱刃を焼くことを得意としていましたが、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に亘って勃発した「元寇」(げんこう)の際には、美しさと質実さを両立させた作風を確立。これにより、「長船鍛冶」の名が広く知れ渡ることとなったのです。
鎌倉時代後期に入ると、「景光」(かげみつ)や「兼光」(かねみつ)といった長船正系の刀工を始めとして、優れた作刀技術を持った刀工が世に送り出されるように。次第に長船派は、刀の歴史における最大の流派へと発展していきます。その活躍は目覚ましく、「備前伝と言えば長船派」と言われるほどに、高い評価を受けていました。
長船派の特色のひとつは、その刃文を前期が丁子乱、後期が直刃調に小乱を焼くところ。また、腰反りの付いた太刀姿を基調とし、地鉄には小板目肌がよく詰み、乱映りがはっきりと現れています。
さらに景光や兼光の作刀には、「片落ち互の目」の刃文が多く見られるのが特色です。南北朝時代には兼光により、流行していた相州伝を備前伝の作風に加味した「相伝備前」(そうでんびぜん)と称する鍛法が完成。
そのあと、相州伝の名工「正宗」に師事した10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに数えられた「長義」(ながよし/ちょうぎ)や、切れ味に定評があることで知られる「元重」(もとしげ)の作刀にも、この相伝備前の鍛法が採り入れられています。
本太刀を作刀した刀工・景光は、長光を父に持ち、鎌倉時代後期より活躍した長船派を代表する名工です。父・長光は、その鍛えの良さで知られていましたが、景光自身は、長船派随一と言われる美しい地鉄を施していたことで、高い評価を受けていました。前述した片落ち互の目の刃文は、景光が考案したと伝えられています。
本太刀はもともと、「徳川家康」の愛刀であったと推測されている1振。徳川将軍家に伝来したあと、「徳川家達」(とくがわいえさと)の手に渡りました。徳川家達は、明治時代に入ると新政府の任命により、「徳川宗家」16代当主の座に就いた人物です。
本太刀の姿には浅い腰反りが付き、小板目肌の地鉄には、細かな沸と乱映りが現れており、景光の多彩な特色が示されている優品だと言えます。