「正宗」(まさむね)と言えば、日本における刀史上、最高と評される名工です。そんな正宗は、5つの地域で発達した鍛刀の伝法「五箇伝」(ごかでん)のうち、相模国(現在の神奈川県)で誕生した「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させたことでもよく知られています。 この相州伝がどのような経緯を経て確立され、どんな特色があったのか、「刀剣ワールド財団」が所蔵する同伝の刀を通じて紐解いていきます。
「相州伝」が誕生したと伝わる時期は、鎌倉時代中期頃。この時期までにはすでに、大和国(現在の奈良県)で生まれた「大和伝」(やまとでん)や、同じく山城国(現在の京都府南部)の「山城伝」(やましろでん)など関西地方における刀工の中から、幾人もの名工が出現しています。その一方で関東地方では、関西の名工達に匹敵するほど有名な刀工が現れていませんでした。
そんな中で誕生した相州伝は、関東地方において、「名匠」と評される刀工達が世に送り出される礎(いしずえ)となっていくのです。相州伝が生まれる契機となったのは、1185年(文治元年)に、日本で初めての武家政権となる「鎌倉幕府」が成立したこと。これにより鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の地は、政治や経済といった側面において、朝廷のあった京都にも引けを取らないほどの中心地として発展していくことに。
しかし、「源頼朝」が同幕府の初代将軍であった当初には、軍事以外の様々な制度を設けることが最優先事項。そのため、合戦において必要不可欠である刀などの武具を、鎌倉で作刀することまでは手が回らない状況にありました。このような背景があり、鎌倉幕府では、刀の作刀では一歩先を行っていた大和国や山城国など、他国の刀工に作刀を依頼していたのです。
また、武家政権が確立したことで合戦が急増。これに伴って鎌倉の地では、いわゆる「鎌倉武士」が出現し、刀の需要も拡大したため、鎌倉の地で常時作刀できる刀工を集めることが鎌倉幕府にとって目下の急務となりました。
そこで、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)が、全国から刀工達を呼び寄せます。その刀工とは、建長年間(1249~1256年)に、山城国の「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)、及び備前国(現在の岡山県東南部)の「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)の2名。
さらには、1266年(文永3年)に鎌倉幕府7代将軍となった「惟康親王」(これやすしんのう)が、備前国の「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)より「助真」(すけざね)一門を鎌倉に招いています。この3名が、鎌倉鍛冶の基礎を築くのに重要な役割を果たしたと考えられているのです。その後、鎌倉鍛冶として登場したのが、粟田口国綱の養子であったと言われる「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)。「鎌倉住人」との銘を切っていた新藤五国光は、のちに「相州伝の開祖」であったと伝えられるほどの活躍を見せ、その優れた作刀技術を門人の「行光」(ゆきみつ)へ伝授。
そして行光に師事した「正宗」は、鎌倉時代末期頃に相州伝を完成させるまでに至ったのです。正宗が完成させた相州伝の技法は、あとに続く同伝における刀工達にとっての基本となりました。ところが、この相州伝は、五箇伝の中で最も難しいと言われるほど、高度な技術が求められる鍛刀法だったのです。
例えば、その焼き入れの方法。相州伝の技法では、刀身を極めて高い温度で加熱したあと、すぐさま水の中に入れて冷却することが重要なポイントとなります。この焼き入れが上手にできない場合、致命的な傷となる「刃切れ」(はぎれ)などが発生しやすくなるのです。
これを起こさないような作刀技術を会得するには、師から直接学ぶことはもちろん、自身の経験から得る「勘」(かん)のようなものも必要。
この勘の部分を正確に後代へ伝えていくことは、どんな名工であっても、やはり至難の業(わざ)。そのため相州伝においては、その後継を育成することが難しかったと言われています。実際、相州伝の刀工は、武士達から非常に重宝されていたのにもかかわらず、「古刀期」(ことうき)のうち約300余年を通しても、140人にも満たない数しか存在していませんでした。
一方で、「備前伝」(びぜんでん)の刀工が約2,000人、同じく山城伝では約300人であったことを考えると、相州伝の刀工数が非常に少ないことは、火を見るよりも明らかだったのです。このように相州伝は、高い技術を要求される伝法であったが故に、後継が育ちにくかったこと、さらには、鎌倉幕府の滅亡により、鎌倉の地における刀の需要が大幅に減少したことも相まって、室町時代中期を過ぎる頃には、鎌倉には刀工がひとりもいなくなったと伝えられるまでに衰退してしまいました。
相州伝による作刀の姿は、その多くが「中反り」(なかぞり)になっています。これは、「輪反り」(わぞり)とも呼ばれ、反りの中心が刀身の中央に来る反りのことです。
刃文は焼幅(やきはば)が広く、「乱刃/乱れ刃」(みだれば)の一種である「湾れ」(のたれ)に、「丁子」(ちょうじ)や「互の目」(ぐのめ)が交じるのが特徴。刃中には、「金筋」(きんすじ)や「砂流し」(すながし)、「稲妻」(いなずま)といった多彩な「働き」が見られ、覇気に満ちた印象を受けます。そして「地鉄」(じがね)は、「板目肌」(いためはだ)鍛えの地肌に「地景」(ちけい)が目立つ作風が良く観られるのです。
これらの特色の中で、相州伝の作風を最も示しているのが、刃文を構成する要素のひとつである「沸」の部分にあります。相州伝の沸は、他のどの伝法よりも粒子が大きい「荒沸」(あらにえ)となっていました。相州伝による作刀は、言ってみれば沸を強調した作風だったのです。
このような沸が刃文に現れるのは、高温で刀身を熱して急速冷却を行う焼き入れが、その要因のひとつ。この沸を美しく施すには、前述した通り、相当高い作刀技術が必要となります。そのため、相州伝による作刀は必然的に高品質となり、その人気が全国に広がっていったのです。
そして相州伝の作風は、山城伝の「来国光」(らいくにみつ)や、備前伝の「長義」(ながよし/ちょうぎ)といった同時代における他国の刀工のみならず、「新刀期」の「井上真改」(いのうえしんかい)や、「新々刀期」(しんしんとうき)の「水心子正秀」(すいしんしまさひで)など、後世の刀工達にまで大きな影響を与えています。
ここからは、相州伝を完成させただけでなく、その名声を一気に高めた名工・正宗を軸として時期を3つに分け、それぞれを代表する刀工と、その作刀である「刀剣ワールド財団」の所蔵刀について解説します。
粟田口国綱や備前三郎国宗、助真といった3人の名工が、他国から移住してきたことにより、鎌倉の地における本格的な作刀が始められるようになりました。しかし、その当初は、作風に共通した特色が見られたわけではなく、各刀工の本国に伝わる技法に、いくらかの改良が加えられただけの作風が示されていたのです。
これは、3人の間で作刀における技術交流などがほとんどなかったことが背景にあったと言われています。ところが、このような状況は、新藤五国光の登場によって徐々に変わっていくことに。新藤五国光はもともと、備前三郎国宗の子として生まれましたが、そのあと、山城伝の粟田口国綱の養子となります。
2人の父のもとで作刀技術を学んだ新藤五国光は、備前伝と山城伝、両者の伝法を身に付けたのです。やがて新藤五国光は、この備前伝と山城伝のハイブリッドとも言える、独自の技法を生み出すことになります。そしてこれが、相州伝の基礎となっていきました。
本短刀は、「短刀の名手」と称されていた新藤五国光による1振。その地中には「地沸」(じにえ)が良く付き、地中一帯に地景が現れるなど、相州伝の開祖らしく、同伝の特色を大いに示した作風となっています。
相州伝を創始した新藤五国光は、後継者の育成にも注力し、その門下からは、「郷義弘」(ごうよしひろ)や「越中則重」(えっちゅうのりしげ)、行光といった名工達を世に送り出しています。なかでも、新藤五国光の子でもあった(諸説あり)と推測される行光は、鎌倉鍛冶の棟梁(とうりょう)として名を馳せ、新藤五国光から受け継いだ作刀技術を正宗に伝えたのです。
正宗はその後、行光に学んだ相州伝の技法をもとに、さらに品質を高めた刀を作刀するために研究を重ねます。
その動機のひとつとなったのが、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に亘り、「元」(げん)と称する旧モンゴル帝国から軍勢が襲来した「元寇」(げんこう)です。
このとき元軍は、その当時、一騎打ちが主流であった日本とは異なる集団戦であったり、火薬を使った武器で攻撃したりするなど、それまでの日本では見ることがなかった戦法を用いていました。元寇では最終的に、鎌倉幕府軍が勝利を収めましたが、さらなる外国からの侵攻に備えて、美しいだけでなく、より強靭である実用華美な刀が求められるようになったのです。
正宗は苦心の末、「折れず、曲がらず、良く切れる」と評される刀を作刀することに成功。地刃ともに強い相州伝の伝法を完成させました。
鎌倉時代末期頃に相州伝を完成させた正宗は、自身の作刀技術を磨くことはもちろん、新藤五国光と同様に多くの弟子を取り、その教育者としても活躍しました。そんな正宗の弟子達の中でも、特に優れた才能を持っていた正宗直系の高弟、あるいは、直系ではなくても正宗より強い影響を受けた10名の刀工達は、後世で「正宗十哲」(まさむねじってつ)と称されています。
正宗十哲の刀工は、正宗に師事したあと本国に戻ったり、他国へ移住したりするなどしたことで、相州伝の伝法を全国に広めました。この10名の構成には諸説ありますが、代表的な刀工は下記の通りです。
正宗十哲の代表的な刀工 | ||
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No. | 刀工名(読み仮名) | 本国または移住地 |
1 | 郷義弘(ごうよしひろ) | 越中国(富山県) |
2 | 備前長船兼光 (びぜんおさふねかねみつ) |
備前国(岡山県東南部) |
3 | 左安吉(さのやすよし) | 筑前国(福岡県西部) |
4 | 長義(ながよし/ちょうぎ) | 備前国(岡山県東南部) |
5 | 来国次(らいくにつぐ) | 山城国(京都府南部) | 6 | 長谷部国重(はせべくにしげ) | 山城国(京都府南部) |
7 | 越中則重(えっちゅうのりしげ) | 越中国(富山県) |
8 | 志津三郎兼氏 (しづさぶろうかねうじ) |
美濃国(岐阜県南部) |
9 | 金重(きんじゅう/かねしげ) | 美濃国(岐阜県南部) |
10 | 貞宗(さだむね) | 相模国(神奈川県) |
本刀を手掛けた「貞宗」(さだむね)は、実子のいなかった正宗に、その養子として迎え入れられた名工であり、正宗十哲のひとりとしても知られています。正宗の作風が実用華美であった一方で、貞宗の作刀は実戦向きではありましたが、どちらかと言えば、穏やかで奥ゆかしい刃文が特徴となっていました。
そしてその作風は、南北朝時代に活躍した刀工「廣光/広光」(ひろみつ)へと伝えられていったのです。貞宗による刀の在銘作は、現代では認められておらず、本刀においても無銘になっています。本刀の特徴として特筆すべきなのは、精巧に鍛えられた美しい地鉄。その鍛え肌は、正宗よりも抜きん出ていると言っても過言ではないほどの仕上がりを見せている1振です。