戦国時代は、いずれ劣らぬ強豪達が割拠(かっきょ:権力者がそれぞれ地域を占拠し勢力を張ること)し、自らの命や領土のため、日本刀などの武器を持って、日夜合戦を繰り広げていた時代です。個性あふれる魅力的な武将達も多く、彼らは味方を勝利に導くため、あらゆる戦術を駆使して敵に挑みました。起死回生の一戦やライバル同士が長年に亘って繰り広げた合戦、天下分け目の合戦など、歴史上名高い合戦も多くあります。「日本三大合戦」と称される合戦の他に、「日本三大奇襲」や「日本三大水攻め」と呼ばれる合戦についてもご紹介します。
「大保原の戦い」(おおやすはらのたたかい)や「大原合戦」とも呼ばれる筑後川の戦いは、菊池家の黄金時代を築いた同家15代当主「菊池武光」(きくちたけみつ)が、1359年(延文4年)に、宿敵「少弐頼尚」(しょうによりひさ/しょうによりなお)と筑後川をはさんで戦った合戦です。菊池軍約40,000人の軍勢に対して、少弐軍は約60,000人と言われており、九州史上もっとも大規模な戦いとなりました。
「河越城/川越城」(かわごえじょう:現在の埼玉県川越市)は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい:家長の代わりに家政を取り仕切る武家の職責)であった、「太田道灌」(おおたどうかん)が築城した城です。
河越城の戦いは、1537年(天文6年)に、「上杉朝興」(うえすぎともおき)の死により、その子である「上杉朝定」(うえすぎともさだ)が家督を相続する隙を突き、「北条氏綱」(ほうじょううじつな)が、同城を奪ったことがその発端。この河越城を取り返すため、1546年(天文15年)に反北条連合軍約80,000人の兵が攻め寄せてきたのが、河越城の戦いです。
河越城から救援の依頼を受けた「北条氏康」(ほうじょううじやす)は、謀略(ぼうりゃく:人をあざむく企み)を用いて、敵を油断させて夜半に奇襲をかけ、河越城を包囲中の連合軍を撃退しました。このあと、上杉家の勢力は弱まり、北条家が力を付けていったのです。
毛利家はもともと、安芸国(現在の広島県西部)において、大内家と尼子家(あまごけ)の二大勢力に挟まれ、その顔色を窺いながら両家に家臣として仕えていた小豪族でした。
しかし、「毛利元就」(もうりもとなり)の時代に頭角を現すようになると、毛利家は尼子家と手を切って大内家に忠誠を誓います。ところが大内家は、下剋上により家臣「陶晴賢」(すえはるかた)に乗っ取られてしまいました。
当初こそ陶晴賢に従っていた毛利元就でしたが、その後は陶晴賢の城を次々と攻め落としていったのです。怒った陶晴賢は応戦しますが、毛利元就が流した噂に踊らされ、陶家随一の知将だった「江良信俊」(えらのぶとし)を殺害し、厳島(いつくしま:現在の広島県廿日市市にある島)を占領。毛利元就は厳島に奇襲をかけ、陶晴賢軍を全滅させました。この戦いを経て毛利元就は、中国地方の覇者となっていったのです。
織田信長の天下統一事業により、中国地方を担当していた「豊臣秀吉」は、毛利家の防衛拠点だった「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)の攻略に取り掛かります。まずは、城主「清水宗治」(しみずむねはる)に、毛利家から織田家へ寝返るように呼び掛けましたが、受け入れられませんでした。
そこで、備中高松城が三方を沼地に囲まれていたことから、水攻めを思い付いた豊臣秀吉は、堤(つつみ)を築く工事を始めます。季節は梅雨、備中高松城は水の中に孤立してしまいました。毛利家との交渉が進まないなか、「明智光秀」から毛利家に自分の味方となるように依頼する手紙が届きます。京都では明智光秀の謀反によって「本能寺の変」が起こり、その主君であった織田信長が自害していたのです。
本能寺の変を知った豊臣秀吉は、それを毛利側には隠したまま交渉を手短に切り上げるため、ある条件を提示します。それは、城主の清水宗治が切腹すれば、その他の兵の罪は問わず停戦するという内容でした。
清水宗治が切腹するのを見届けた豊臣秀吉は、織田信長の仇を討つため、明智光秀のいる京都へ向かいます。豊臣秀吉は、昼夜兼行で京都まで突っ走り、明智光秀を打ち負かすと天下人への道を歩き出したのです。
天下を目前にした豊臣秀吉は、紀伊国(現在の和歌山県、及び三重県南部)を平定するために出陣します。敵は「根来衆」(ねごろしゅう:根来寺[現在の和歌山県岩出市]の僧兵による武装集団)と「雑賀衆」(さいかしゅう:紀伊国北西部一帯の地侍による傭兵集団)です。
豊臣軍は圧倒的な兵力で根来寺を焼き尽くし、根来衆も雑賀衆も次々と豊臣秀吉の軍門に下るなか、唯一徹底抗戦を挑んできたのが、「太田城」(現在の和歌山県和歌山市)の城主「太田左近」(おおたさこん)でした。
豊臣秀吉は当初、大軍で一気に太田城を攻め落とそうとしましたが、なかなか思うようにいきません。そこで豊臣秀吉は備中高松城の戦いと同様に、水攻めを決行することにしたのです。大雨が降るなか、太田城を孤立させた豊臣秀吉は、やっとのことで落城させました。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉は、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)が立て籠もる「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)を包囲します。
そして、北条氏政と共に籠城していた人物が、北条方の「忍城」(おしじょう:現在の埼玉県行田市)の城主「成田氏長」(なりたうじなが)。
このとき、城主不在となっていた忍城は城代(じょうだい:城主が不在のときに城を管理した者)であった「成田泰季」(なりたやすすえ)が守っていましたが、同城を攻略するため豊臣軍が攻撃を仕掛けてきました。しかし、忍城の戦いと呼ばれるこの攻城戦の最中に、成田泰季は死亡。代わって城代となったのが、成田泰季の嫡男である「成田長親」(なりたながちか)でした。
そののち、豊臣軍は豊臣秀吉の命により、水攻めのための堤を築きましたが、大雨により決壊。忍城は難攻不落の城として、後世にまで知られるようになったのです。
戦国時代に起きた有名な合戦について解説しましたが、中国の複数の史書に残された記述により、日本史上初の戦いであったと推測されているのが、弥生時代後期にあたる2世紀後半に起こった「倭国大乱」(わこくたいらん)です。
倭国大乱以前に、日本で争乱があったとする記録は残されていませんが、ただ記録がないだけで、日本各地では様々な戦いが繰り広げられていたのではないかとする説もあります。
この倭国大乱から戦国時代まで、国内では天下統一を目指した武将達が競い合って、様々な戦いが起こりました。そのなかで最終的に天下の覇者となった人物が徳川家康です。そののち、江戸時代が終わりを告げるまで、日本では、合戦のない平和な世の中が続きました。