鬼退治を題材とした作品は、能や歌舞伎をはじめ、テレビや映画館で公開される作品など、実に数多く存在します。最近では社会現象となった漫画「鬼滅の刃」にも鬼が登場。2020年(令和2年)には「鬼滅の刃 無限列車編」が上映され、全国各地で映画館に足を運んだ方も少なくはありません。
また、平安時代の京の都を騒がせた盗賊の首領「酒呑童子」(しゅてんどうじ)は、「日本三大妖怪」にも挙げられる伝説的な鬼としても有名です。そして、刀工「安綱」(やすつな)が作刀した「童子切安綱」(どうじぎりやすつな/どうじきり)という太刀が、酒呑童子を斬ったという日本刀の逸話としても語られているのです。酒呑童子物語の内容と共に、太刀・童子切安綱とその持ち主である源頼光について追って行きましょう。
時代は「一条天皇」の御代の頃、若い貴族の姫達がさらわれる事件が起きました。犯人が何者なのかを陰陽師の「安倍晴明」(あべのせいめい)が占うと、丹波国(現在の京都府中部・兵庫県北東部)の大江山を拠点にする鬼・酒呑童子だということが分かります。
そこで討伐のための白羽の矢が立ったのが、藤原道長に仕えていた源頼光と四天王の「渡辺綱」(わたなべのつな)、「坂田金時」(さかたのきんとき)、「碓井貞光」(うすいさだみつ)、「卜部季武」(うらべすえたけ)そして「藤原保昌」(ふじわらのやすまさ)でした。
鬼滅の刃でも、「竈門炭治郎」(かまどたんじろう)をはじめ、「我妻善逸」(あがつまぜんいつ)、「嘴平伊之助」(はしびらいのすけ)といった仲間達が、鬼殺隊として様々な任務をこなします。テレビや映画館の画面で、恐ろしい姿をした鬼達と激しいバトルを繰り広げる姿が話題になりました。
鬼を倒すには一筋縄ではいきません。鬼滅の刃に登場する「鬼舞辻無惨」(きぶつじむざん)はもちろん、映画館上映の「無限列車編」で「煉獄杏寿郎」(れんごくきょうじゅろう)を死に追いやった「猗窩座」(あがざ)など、鬼のなかには強敵がいます。
源頼光一行は神仏の加護を得るため「住吉明神」・「石清水八幡宮」・「熊野権現」へお参りに向かいます。
そして大江山に向かう道すがら3人の翁に出会い、人には薬となり鬼であれば毒になる「神変鬼毒酒」(じんぺんきどくしゅ)を授けられました。この翁らは、実はお参りした3社の化身であったとされています。
源頼光の一行は、鬼を油断させるため山伏の姿に扮して大江山へと入山。さっそく酒呑童子配下の鬼に行く手を阻まれ「我らを倒しに来た武士ではないか」と疑いをかけられますが、「道に迷ったただの山伏です。舞をお見せするのでどうか一晩泊めて下さい」と頼みます。
このシーンは、映画館で公開された「大江山酒呑童子」でも忠実に再現しています。
そして、源頼光達は鬼の宴で舞を踊ってみせることで、鬼達の信頼を得ることができました。さらにその宴では、翁達から授けられた神変鬼毒酒を酒呑童子らに飲ませることにも成功。毒酒が回った酒呑童子達は、すぐに命を落とすことはありませんでしたが、宴を終え早々に眠りに就きました。
源頼光達は荷物として背負って来た笈(おい:山伏などの修験者が背負う、竹や木で作られた箱)から、それぞれ忍ばせていた甲冑(鎧兜)を身に着け、太刀を腰に佩きます。
そして鬼達が寝静まった夜更けに、酒呑童子の寝室へと侵入。源頼光は自慢の太刀・童子切安綱を構え、眠っている酒呑童子の首めがけて振るいました。なお、鬼退治ではたびたび「首を刎ねる」「首を斬る」という言葉が目につきます。
鬼滅の刃においても、鬼は首を斬ることで殺すことが可能。原作コミックスやアニメ版、また、映画館でプレミアム上映された「兄妹の絆」でも「鬼を殺すためには頸を斬らなくてはならない」ということが強調されました。
しかし、首を落としたはずなのですが、酒呑童子は首だけの状態で源頼光へと襲いかかります。
四天王らもかかさず応戦、ついに酒呑童子が力尽きて絶命。酒呑童子の配下達を次々と退治し、さらわれていた姫達も無事に救出しました。
源頼光一行は京の都に凱旋し、一条天皇に仔細を報告。酒呑童子らは退治され、都には無事平和が戻りました。
酒呑童子物語には、異説や地方伝説が数多く存在するのです。長い年月の間に物語や逸話が変遷するのは珍しいことではなく、それだけ人々に関心を持たれていたとも言えます。
異説とは、酒呑童子が拠点とした場所で区別しており、丹波国と丹後国(現在の京都府北部)の境界にある「大江山系」、もう一方は近江国(現在の滋賀県)の「伊吹山系」に分けられます。物語の成立も平安時代当時ではなく、南北朝時代頃だと推測されているのです。
広く知られているのが、江戸時代に「渋川清右衛門」(しぶかわせいえもん)が出版した大江山系の「御伽草子版」の内容。酒呑童子物語も、この御伽草子版に倣っています。
他にも「今昔物語」や「大江山絵詞」、能の演目「大江山」、映画館で公開された「大江山酒呑童子」など、酒呑童子を下地にした物語や、どれも細かな違いはありますが、源頼光が四天王と共に酒呑童子を退治する話は同じです。
大江山を住処にする鬼・酒呑童子を退治した源頼光と四天王は、どういう人達だったのでしょうか。ここでは、映画館で話題の作品やテレビドラマ、小説などで題材になることの多い鬼切伝説に触れながら、彼らについてご紹介します。
源頼光は、「清和天皇」の血を引きながら臣籍降下(皇族が姓を与えられ臣下となること)した源氏一族3代目の当主です。
その祖父「源経基」(みなもとのつねもと)は武士が生まれた創成期の人でもあり、関東や畿内方面に荘園を持ちながら、京都で権力を掌握しつつあった藤原氏との関係を深めていきました。父「源満仲」(みなもとのみつなか)の代となる頃には、その地位はさらに上がっていたと言います。源頼光が家督を継いだ平安時代中期は、各地で武士の反乱が起きた時代でもありました。
源頼光は摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)を継ぎ摂津源氏の祖となり、弟「源頼信」(みなもとのよりのぶ)は河内国(現在の大阪府東部)の土地を引き継ぎ河内源氏としてそれぞれ活躍を見せます。
都周辺の土地を父・源満仲から継いだ源頼光は、当時の権勢を誇っていた「藤原道長」(ふじわらのみちなが)と関係を深め、軍事貴族としての地位を向上。さらに関東の反乱を鎮圧させていた弟・源頼信と合わせ、源氏武士団のリーダーとして勢力を広げていきます。
都やその周辺には、貴族社会に不満を持つ流民達が、物乞いや盗賊となり治安が悪化。藤原氏の警護役として信頼を得ていた源頼光は、討伐するために駆り出されました。
1960年(昭和35年)に映画館で公開されたことで話題になった「大江山酒呑童子」をはじめ、酒呑童子を退治した鬼切伝説は後世の創作ではありますが、実際に源頼光は1018年(寛仁2年)に大江山の盗賊討伐の勅命(天皇が直接命じること)を受けたとする戦勝祈願の願文が残されています。
こうして多くの武勇伝を生み出し、いつしか配下の者達と鬼を斬ったという伝説が誕生したのです。
渡辺綱は、「嵯峨天皇」(さがてんのう)を祖とした嵯峨源氏の出身の武者です。
渡辺綱の数代前には「源氏物語」の主人公「光源氏」の原型となった「源融」(みなもとのとおる)がいるなど、もとを辿ると貴族然とした優雅な一族としての面も持ちました。
また、渡辺綱が四天王筆頭だと言われる逸話に、京都の「一条戻り橋」に出没する鬼「橋姫」の腕を切り落とすという抜きん出た武勇を持ちます。
このときに使用された日本刀は「髭切」(ひげきり:別名[鬼切安綱]、[獅子の子]など)と言い、源氏の棟梁に代々受け継がれる宝剣で、源頼光から借り受けたとされているのです。鬼を斬ったことから髭切は「鬼切」と号を変え、武門の象徴へとなっていきます。
坂田金時とは、童話や童謡に出てくる、まさかりを担いで熊と相撲を取ったという、「金太郎」が成長した姿と伝わる人物です。
金太郎伝説は全国各地にありますが、最も有名な逸話が神奈川県と静岡県の堺にある足柄峠周辺の話。父を亡くした金太郎は、母と2人で暮らしながら、森の動物達と遊び、熊と相撲と取るなどして過ごしていました。
怪力無双ながら心優しい青年に成長した金太郎は、足柄峠にやって来た源頼光に力を認められ、配下に加わることになったのです。
その後、源頼光らと多くの活躍を見せますが、実は坂田金時は実在しなかったとも言われています。坂田金時のさらにモデルとされているのが「下毛野公時」(しもつけのきんとき)です。京都で近衛兵として従事し、源頼光と共に藤原道長に仕えた武士。
また「相撲使」という相撲をする人達を集める仕事もしたことから坂田金時との符合する部分も多く、この人物に源頼光との鬼退治伝説が合わさり「坂田金時」像ができたのではないかとも言われているのです。
碓井貞光は、現在の神奈川県足柄下郡の碓氷峠を拠点とする一族の出身とされており、碓井貞光には人智を超えた逸話が残されています。
あるときの旅の道中、山の神のお告げを受けた碓井貞光は温泉を見つけました。これが「御夢想の湯」と呼ばれるようになり、のちに「四万温泉」(群馬県吾妻郡)の由来になったとも言われています。
また、故郷の碓氷峠でのこと、巨大な毒蛇が人々を苦しめており、それを退治するため「十一面観音」の加護を受け、見事に毒蛇を退治しました。
初代の「征夷大将軍」である「坂上田村麿呂」(さかのうえのたむらまろ)の子孫とされているのが、この卜部季武です。卜部季武の家は摂津国にある摂津源氏の領地を警護していた一族であり、卜部季武の父もまた源満仲の時代から仕えていました。酒呑童子を扱う数多くのドラマやアニメ、映画館公開の作品でも彼ら四天王の活躍には胸を熱くするものがあります。
童子切安綱は、源頼光が酒呑童子を退治した伝説を持ちます。名物刀剣の称号である「天下五剣」の1振に選ばれ、天下五剣のなかでも作刀年代が最も古いことからその筆頭という特別な地位を確立。
作者は平安時代の刀工、伯耆国(鳥取県中西部)に住んだ「安綱」(やすつな)です。平安時代の刀剣らしい強い反りと、繊細な小乱れの入った刃文は、優美な格調高さを持ちます。
本太刀は、「東の童子切、西の大包平」(おおかねひら:太刀 銘備前国包平作[名物大包平])と言われ「日本刀の東西の両横綱」とも称えられ、江戸時代に作成された刀剣帳「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも掲載された名刀中の名刀。
現代に至るまでにも多くの所有者達のもとを渡り歩いてきました。足利家や豊臣家、松平家、近代史に入ってからは政治家の「村山寛二」氏、画家「渡辺三郎」氏などです。現在は、「東京国立博物館」(東京都台東区)が所持し、定期的に展示などが行われます。
なお童子切安綱は鬼滅の刃で登場する「日輪刀」と似ているということで、一部のファンから噂された刀のひとつです。原作コミックスはもちろんアニメや映画館で初公開された劇場版では、日輪刀の研ぎ澄まされた刀身にますます魅了されたファンも。刀剣に想いを馳せながら、鑑賞することもおすすめと言えます。