戦国武将の生涯

浅野長政の武将年表
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浅野長政

浅野長政

浅野長政(あさのながまさ)は、豊臣秀吉に仕え、その五奉行の筆頭として重用された戦国武将です。様々な合戦において数々の戦功を遂げただけでなく、太閤検地の奉行としても活躍。

政治面でも優れた手腕を発揮し、近江国(現在の滋賀県)の坂本城や大津城の城代(じょうだい:将軍に代わって城の警備などを行う役職)、さらには、若狭国(現在の福井県西部)・小浜城の城主となり、そのあとは、甲斐一国(現在の山梨県)を与えられました。

同国において善政を敷いた浅野長政は、存命中はもちろん、その没後も領民から遺徳が慕われています。豊臣政権を支えた重臣でしたが、関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、晩年には、徳川家康からの信頼も得たのです。

また、浅野長政は朝鮮出兵の際、「自ら海を渡って戦う」と言い出した豊臣秀吉を諫めた人物でもありました。

このとき、浅野長政は、激怒した豊臣秀吉から首に刀を向けられてもなお、朝鮮出兵による日本、及び朝鮮両国民の窮状を訴えたと言われているのです。

この浅野長政による天下人への「直言騒動」は、居合わせた徳川家康や前田利家のとりなしによって、ことなきを得たと伝えられています。

これは、豊臣秀吉と浅野長政の間で築かれた、永年に亘る信頼関係を物語ると共に、浅野長政の優れた知見や傑出した人物像を映し出す逸話です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1547年(天文16年) 1
尾張国(現在の愛知県西部)・春日井郡北野の安井重継(やすいしげつぐ)の長男として生まれる。
男子のいなかった母方の叔父である織田信長の家臣・浅野長勝(あさのながかつ)の婿養子となり、織田領内の地侍(その土地に代々定住する下級武士)・安井家出身でありなから、織田信長家臣の子息の身となる。
1573年(元亀4年/
天正元年)
27
織田信長浅井家を攻めた際に武功を挙げる。このとき、主君・豊臣秀吉が、織田信長から浅井家の遺領を賜っており、浅野長政は、豊臣秀吉から近江国120石の知行を与えられる。
1582年(天正10年) 36
豊臣秀吉の家臣・杉原家次と京都奉行に就任。杉原家次が病で退いて以降は、後任の前田玄以(まえだげんい)と共に奉行職を務め、のちに豊臣政権下の五奉行となる。
山城国(現在の京都府南部)で行われた検地奉行として手腕を発揮。のちの太閤検地へとつながる。
1583年(天正11年) 37
豊臣秀吉と柴田勝家の間に勃発した、賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)で活躍。豊臣秀吉の勝利に貢献し、近江の甲賀・栗太2郡2万3,000石を与えられる。
1584年(天正12年) 38
近江国・坂本城と大津城の城代となり、豊臣秀吉の側近として重用される。
1593年(文禄2年) 47
永年の功績により、豊臣秀吉から甲斐国22万5,000石を与えられ、国持大名、そして甲斐国・府中城の城主となり、豊臣秀吉と東国大名の取次役を任されるようになる。
甲斐国のみならず、東北の支配体制を強化し、東国において豊臣秀吉に次ぐ権力を手にする。
1598年(慶長3年) 52
病により、豊臣秀吉が伏見城(京都市伏見区)にて死去。
1599年(慶長4年) 53
前田利長らと共に、徳川家康から暗殺の嫌疑をかけられ謹慎。家督を長男・浅野幸長に譲り、武蔵国・府中(現在の東京都府中市)に隠居。
1600年(慶長5年) 54
関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍を支持し、徳川家康の三男・徳川秀忠軍に従軍。浅野長政・浅野幸長は親子で大きな活躍を見せ、浅野幸長は、紀伊国(現在の和歌山県)37万石へ加増転封。
1605年(慶長10年) 59
徳川家康の関東移封に従い、江戸に転居。
1606年(慶長11年) 60
徳川家康より常陸国・真壁(現在の茨城県真壁郡)に、5万石を隠居料として与えられる。
1611年(慶長16年) 65
真壁陣屋にて死去。没後は高野山・悉地院(こうやさん・しっちいん)に葬送された。真壁5万石は三男・浅野長重(あさのながしげ)が継承。
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本多忠政の武将年表

本多忠政の武将年表
本多忠政 本多忠政は、江戸時代最強の武将「本多忠勝」の長男です。 本多忠政も勇猛で、名物「塩川来国光」や刀「桑名江」を愛刀とし、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)にかけて行われた「大坂の陣」では、敵首292を獲るほど活躍。 桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石に移封して藩主を務めました。 子供は5人(三男、二女)。 長男はイケメンで有名な「本多忠刻」で、「千姫」と結婚した際に、父とは別途、姫路に10万石を受領。次男「本多政朝」(ほんだまさとも)も播磨龍野5万石を領し、娘婿「小笠原忠真」も明石10万石を領したため、本多忠政の時代には、本多宗家は実質40万石の大大名でした。 本多忠政は1631年(寛永8年)に56歳で病死。 長男・本多忠刻とその子「幸千代」も死去していたため、家督は次男・本多政朝が継いでいます。

本多忠政の武将年表

北条氏政の武将年表

北条氏政の武将年表
北条氏政 北条氏政は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を中心とした関東地方において、一大勢力を誇っていた戦国大名「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主。 鎌倉時代に執権として実権を握っていた「北条氏」と区別するため、小田原の北条氏は後北条氏と呼ばれています。 北条氏政は、父「北条氏康」(ほうじょううじやす)の存命中に、その家督を相続。 父の補佐を受けながら、歴代の後北条氏当主の中で最大となる版図を広げる活躍を見せます。 しかし、天下統一を叶えるために奮起していた「豊臣秀吉」により、後北条氏の本拠であった「小田原城」(神奈川県小田原市)が攻め落とされたため、同氏は滅亡することとなりました。

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明智光秀の武将年表

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明智光秀の生涯を歴史年表でご紹介します。明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この歴史年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の歴史年表をまとめております。

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朝倉義景の武将年表

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朝倉義景 朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。 朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。 当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。 そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。 反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。 そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

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土岐頼芸の武将年表

土岐頼芸の武将年表
土岐頼芸 「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。 美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。 兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。 美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。 最後は旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

土岐頼芸の武将年表

那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
那須与一 平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。 源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。 しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。 同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

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島津豊久の武将年表

島津豊久の武将年表
島津豊久 島津豊久(しまづとよひさ)は、戦国大名であった島津家が、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を統一した年に当たる1570年(永禄13年/元亀元年)に生まれました。 戦上手として知られた島津家久(しまづいえひさ)を父に持ち、元服前から武人として育てられ、かなりの美少年であったとも伝えられています。 豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵で、出陣に二の足を踏んでいた島津家中における他の武士達をよそに、目覚ましい活躍を見せたのが島津豊久でした。いくつもの合戦において先陣を切り、誰よりも早く敵陣に旗を立てていたのです。 その一方で関ヶ原の戦いでは、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される作戦において、自軍の大将のみを戦場から脱出させる、「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる撤退戦術を考案するなど、前に出るだけではない作戦を遂行する武将でもありました。 関ヶ原の戦い後、徳川家康が西軍に属していた島津家を処罰しなかったのは、これら捨て身の戦を見て警戒したためだとも言われています。

島津豊久の武将年表

結城秀康の武将年表

結城秀康の武将年表
結城秀康 結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の次男の立場にありながら、数奇な運命を辿った戦国武将です。 元服を果たす前に、豊臣秀吉のもとへ養子に出されましたが、豊臣家の後継者が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に決まると、今度は下総国(千葉県北部、及び茨城県南西部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となります。 天下人の家系に生まれながら、流転の境涯(きょうがい:この世で置かれている立場、身の上)にあったのです。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、権中納言(ごんちゅうなごん)にまで昇進しますが、34歳の若さで病没してしまいます。 結城秀康は名刀を数多く所有し、そのなかでも南北朝時代の名工・郷義弘(ごうよしひろ)による「稲葉郷」(いなばごう)は、上杉討伐の際、上杉軍の抑えとして、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に留まる結城秀康へ、徳川家康が秘蔵の采配(さいはい:戦場において、兵士達を指揮するために大将が手にして振っていた武具)と共に託した1振。 結城秀康亡きあとも、代々、越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の家宝として受け継がれ、のちに作州松平家(さくしゅうまつだいらけ)へと伝えられています。 この他にも結城秀康は、童子切安綱(どうじぎりやすつな)や石田正宗(いしだまさむね)など、名立たる日本刀を所有していました。

結城秀康の武将年表

石田三成の武将年表

石田三成の武将年表
石田三成 近江国(現在の滋賀県)に生まれた石田三成は、幼い頃から天下人・豊臣秀吉の右腕として活躍したことで知られています。 豊臣政権下では司法や行政を担当し、知将として貢献しました。豊臣秀吉の代名詞でもある「太閤検地」は、全国を駆けまわった石田三成の脚と頭で遂げた実績です。 不公平を嫌った、真面目な石田三成の人柄を示す逸話には事欠きません。猛将・島左近(しまさこん)を召し抱えるにあたっての禄高は、なんと自身と同じ額。 豊臣秀吉が石田三成の心配りを評価して家来にすることを決めた「三献の茶」(さんこんのちゃ)や、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)との友情を物語る茶会など、数多くの逸話が挙げられます。 その優れた頭脳をもって、豊臣秀吉と共に天下統一の夢を追いかけた石田三成でしたが、天下の覇者となるべく、徳川家康が台頭してきた時勢には抗うことができませんでした。 なお、石田三成の愛刀であった「石田正宗」は、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に贈られています。

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