石田三成(いしだみつなり)の家臣として知られる戦国武将、島左近/嶋左近(しまさこん:別称「島清興」[しまきよおき])は、大和国(現在の奈良県)に生まれました。
仕官の要請を断り続けてきた左近ですが、石田三成の説得に負け、石田三成の禄高(給与の額)と同じ額という厚遇で雇われたという逸話があります。
しかし、島左近の生涯については、あまり史料が残されていないこともあり、その逸話における真偽のほどは、定かではないところもあるのです。
猛将としてのイメージが強い島左近ですが、主君の石田三成が、司法や行政を担当していたこともあり、大和国の検地奉行(検地を執行する責任者)や、佐和山城(さわやまじょう:滋賀県彦根市)城下における、整備の仕事もこなしたと伝えられています。
「鬼左近」の異名を取り、周囲からは恐れられましたが、関ヶ原の戦いで討死(うちじに)。その亡骸も見つからなかったと言われています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1540年(天文9年) | 1歳 |
大和国(現在の奈良県)に生まれる。
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1558年(弘治4年/ 永禄元年) |
19歳 |
嫡男・島信勝(しまのぶかつ)が生まれる。
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1567年(永禄10年) | 28歳 |
もともとは島氏の本拠であった椿井城(つばいじょう:奈良県生駒郡)を襲撃。継母など計9人を殺害する。
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1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
31歳 |
この頃には、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えていた。
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1577年(天正5年) | 38歳 | |
1579年(天正7年) | 40歳 |
春日大社における若宮祭の願主人(がんしゅじん:神仏に願いをかける人)を務める。「有岡城攻め」(ありおかじょうぜめ)に参加。
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1583年(天正11年) | 44歳 | |
1584年(天正12年) | 45歳 |
椿井城主になる。主君・筒井順慶の死去により、その養子であった筒井定次(つついさだつぐ)に仕える。
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1586年(天正14年) | 47歳 |
領地の灌漑(かんがい)用水を巡って、中坊秀祐(なかのぼうひですけ)との間で争いが起こる。
このときの筒井定次による裁定を不服とし、筒井家を去る。石田三成に召し抱えられる。 |
1590年(天正18年) | 51歳 | |
1592年(天正20年/ 文禄元年) |
53歳 |
豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄の役」(ぶんろくのえき)において、石田三成に付き従う。
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1595年(文禄7年) | 56歳 |
石田三成が佐和山城の城主となった際、佐和山城下湖水寄りに位置する屋敷と2万石を賜る。
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1600年(慶長5年) | 61歳 |
関ヶ原の戦いの前哨戦となる、杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)が勃発。西軍の指揮官として「釣り野伏」(つりのぶせ)と呼ばれる戦法を採り、勝利を収める。関ヶ原の戦いでは西軍として参戦するも、本戦で死去。
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