火縄銃の登場により、日本の合戦は従来の戦の方式から一変。より強い威力で敵を圧倒できる火縄銃の存在を知った大名は、こぞって戦に取り入れるようになります。 戦国乱世で戦力の増強に直結する新しい兵器が、日本の南端である薩摩国(現在の鹿児島県西部)から東国の武将達のもとへ伝播するのに長い時間はかかりませんでした。火縄銃を使いこなし後世に名を遺した武将達をご紹介します。
「火縄銃」は、1543年(天文12年)大隅国種子島(現在の鹿児島県種子島)に漂着した3名のポルトガル人によって伝えられたというのは有名な話。しかし一説では、その前に中国の商人や倭寇(わこう:13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人)などによって、すでに火縄銃は日本にもたらされていた可能性があるとも言われています。
鉄砲伝来にまつわる歴史書「鉄炮記」によると、種子島に漂着したポルトガル人から銃を披露された種子島氏14代当主「種子島時尭」(たねがしまときたか)は、その威力に感じ入り、金2,000両で2挺の銃を購入。種子島時尭は家臣にポルトガル人から火薬の調合を学ばせ、自身は射撃について学んだとあります。
そのあと、うち1挺を鍛冶職人の「八板金兵衛」(やいたきんべえ)に調べさせ、国産化に成功。和泉堺(現在の大阪府堺市)の商人「橘屋又三郎」(たちばなやまたさぶろう)と、紀州(現在の和歌山県)の僧侶「津田監物」(つだけんもつ)が、種子島で火縄銃の製造技術を学び、故郷へ持ち帰ったことで堺と紀州は火縄銃の一大生産地となりました。以降、全国に火縄銃が伝播し数々の戦で扱われるようになります。
伝来した火縄銃は、島主・種子島時尭によって国主「島津義久」(しまづよしひさ)へと献上されました。また同時に火縄銃の火薬の調合法を伝えており、国産化された火縄銃を島津氏はいち早く戦場に投入します。初めて火縄銃が使われた戦は、鉄砲伝来からわずか6年後である1549年(天文18年)、大隅国(現在の鹿児島県東部)の制覇を目論んでいた島津氏による「加治木城攻め」でした。このとき何挺の火縄銃が投入されたのかは定かではありませんが、以降島津氏は戦に火縄銃を盛んに用いるようになりました。
また、1554年(天文23年)に九州の大名「大友義鎮」(おおともよししげ)は、将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から肥前国(現在の佐賀県と長崎県)の守護に任ぜられます。大友義鎮はその返礼として、足利義輝に南蛮渡来の鉄砲を献上しました。
このように、当時の火縄銃は希少価値の高い物であり、武具としてだけでなく貴重な贈答品としての役割も果たしていたのです。
1573年(天正元年)に甲州の「武田信玄」が没し、それまで武田方だった「長篠城」(現在の愛知県新城市長篠)の城主「奥平貞昌」(おくだいらさだまさ)が「徳川家康」側に寝返ると、「武田勝頼」(たけだかつより)は、1575年(天正3年)5月8日、15,000の兵を率いて長篠城を包囲。
徳川家康に救援を求められた織田信長は、13日に30,000の兵と共に「岐阜城」を出立、長篠・設楽原まで軍を進めました。
当時武田軍は、最強と名高い騎馬隊を有していたため、織田信長はその対策として連子川に沿って馬防柵(ばぼうさく)を設け、その内側に3,500名の鉄砲隊を配したのです。
当時の火縄銃は1発撃つたびに火薬を詰め直さなければならず、縄に火を点ける時間を取る必要もあり、1発1発に間ができてしまうのが欠点でした。しかし、織田信長は威力のある火縄銃を最大限に合戦で活用するために、あの有名な「3段撃ち」の戦法を編み出します。
「3段撃ち」とは、鉄砲隊を3段に分け、最前列が射撃している間に次列が点火、最後列が弾を込めるという戦法。射撃の間隔を最低限まで削った鉄砲隊の攻撃に、武田軍は反撃できずに総崩れとなり、名将を次々と失いました。この敗戦で武田軍は10,000人以上の死傷者を出したと言われています。
それまで最強と言われた武田の騎馬隊が足軽の撃ち出す火縄銃の前にあえなく敗れたことは、銃火器を主とする歩兵戦術が騎馬に代わる新しい時代の戦い方の主流にとって代わることを示していました。
火縄銃は、瞬く間に全国の武将達に伝播し実戦に投入されるようになっていきました。ここでは、火縄銃をいち早く取り入れ使いこなした武将や、火縄銃の名人と言われた火縄銃になじみの深い武将達を見ていきましょう。
「滝川一益」(たきがわかずます/いちます)は、1525年(大永5年)、近江国甲賀郡の国人「滝川一勝」(たきがわかずまさ)、もしくは「滝川資清」(たきがわすけきよ)の息子として生まれます。
一説では、忍者なのではないかとも言われ、織田信長に仕えるまでの半生が定かではありません。
17世紀に編纂された「寛永諸家系図伝」では、滝川一益は、若い頃に堺で火縄銃の射撃と製造技術を学んだと書かれています。
織田家に仕官し始めた時期も分かっていませんが、織田信長の前で百発百中の火縄銃の腕前を披露したことが認められ、召し抱えられました。
また、前述の「長篠・設楽原の戦い」では滝川一益は織田軍鉄砲隊の総指揮に抜擢されており、火縄銃の知識や使用に関して織田信長からの信頼が厚い武将だったのです。
「本能寺の変」で織田信長を討ったことで有名な「明智光秀」も、火縄銃の名人だったと言われています。明智光秀について書かれた歴史書「明智軍記」によると、居城であった「明知城」を斎藤道三に攻められて越前まで逃げ延びた明智光秀は、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)に召し抱えられました。
1562年(永禄5年)、一揆鎮圧に向かった明智光秀が鳥銃(中国語でマスケット銃のこと)を扱い、敵を圧倒していったと聞いた朝倉義景は、その腕前を直接見たいと言います。
明智光秀は主人の願いに応え、1尺4方(1辺の長さ約30cmの正方形)の的を置き、100発撃ちを行いました。このとき、25間(約45.5m)先にある的に次々と撃ち込んでいった明智光秀は、1発も外さずに、100発すべて的を射抜いたと伝えられています。このことは、当時の銃や弾丸の性能を考えると驚異的な腕前を持っていることを示していました。
種子島で火縄銃製造の技術を学んだ津田監物からその技術を受け継いだ紀州の「雑賀衆」(さいかしゅう)。雑賀衆は、優れた鍛冶技術と貿易による財力で火縄銃と弾丸を製造し、当時全国の大名から声がかかる鉄砲傭兵集団でした。その頭領が「鈴木孫一」(すずきまごいち)と呼ばれています。
織田信長と浄土宗本願寺の勢力である石山本願寺が戦った「石山合戦」(いしやまかっせん)で、鈴木孫一は本願寺軍の鉄砲隊の総大将として織田軍を大いに苦しめました。
このとき鈴木孫一も、鉄砲隊を2列に並べ交互に発射して攻撃の空白期間をなくすという、織田信長と同じ戦法を採ったと言われています。
薩摩国の島津氏は、火縄銃が伝来したと伝わる種子島氏の国主であるため、伝来して間もなく種子島時尭によって火縄銃と火薬の製造法が献上されており、火縄銃の威力については早くから知ることとなりました。そのため、島津家も鉄砲戦術に優れており、九州を平定できたのはこの火縄銃の存在が大きかったと言われています。
「関ヶ原の戦い」で西軍に加勢した「島津義弘」(しまづよしひろ)の軍は、馬上で使用できるよう改良した「馬上銃」(火縄短銃)を携帯。ところが、味方の裏切りによって西軍は総崩れとなり島津軍も退却を余儀なくされます。島津義弘は自害を考えましたが家臣の説得によって撤退を決意、周囲を取り囲む敵から逃れるため「捨て奸」(すてがまり)という戦法を採りました。
捨て奸戦法とは、島津軍の最後尾の兵が順に道端で火縄短銃を構え、追いすがる敵兵を十分に引き付けて銃撃するという戦法です。しかし火縄銃は次の射撃まで時間がかかるため次々と迫る大勢の敵兵に有効なのは最初の一発だけで、あとは刀剣を抜いて捨て身で戦わなくてはなりませんでした。つまり、彼らは自らの命を犠牲にして大将を逃がすための時間稼ぎをしたのです。この戦法は、火縄銃の高い腕前と将のために殉ずる心得が必要であり、この2つが備わっている島津の兵達だからこそ行うことができた戦法でした。その結果、追いすがる「井伊直政」(いいなおまさ)や「松平忠吉」(まつだいらただよし)ら東軍の諸将をこの捨て奸戦法で撃退し、大将である島津義弘は無事に逃げることに成功。この壮絶な退却戦は、「島津の退き口」として後世に語り継がれています。
しかし、関ヶ原に出陣していた島津軍の兵約1,600名のうち、無事に薩摩へ辿り着いたのは、島津義弘をはじめわずか80名余に過ぎませんでした。
徳川家康は、合戦において早くから大砲の脅威を重視していました。関ヶ原の戦いに先立って、国友(現在の滋賀県長浜市)の鍛冶に十数門の大砲を作らせ、「大坂冬の陣」の前にも国友と堺、さらにはイギリスやオランダから大砲を購入したという記録が残っています。この大砲が大坂城の天守閣に命中し、豊臣方にプレッシャーを与えたことで和議が有利に運びました。
そんな火器の威力を知っていた徳川軍だけに、天下統一を果たしたあとも火器の移動には細心の注意を払います。「入り鉄砲に出女」として伝わるように、江戸への鉄砲の持ち込みには特別に厳しい詮議を加えました。
さらに幕府は、学者によって大名の関心を鉄砲からそらせるという活動にも力を入れています。徳川家康から4代に亘って仕えた朱子学の大家「林羅山」(はやしらざん)は、「飛び道具[火器]は武士道に反する卑怯な武器」、「鉄砲は身分の低い足軽の武器であり、高貴な武士にふさわしくない」と説き、その結果武士が銃を捨て江戸幕府は安定した支配を存続することができたのです。
戦国乱世では火縄銃が短い期間で爆発的に広まったのに対し、江戸幕府が始まり太平の世になると、日本の銃の技術は衰退の一途を辿っていきました。戦のない太平の世では無用の長物とされましたが、幕末に尊王攘夷の機運が高まると外国から流れてきた銃火器が台頭。この高度な武器が幕府を苦しめることとなります。
大きな合戦が増えると活躍が増え、太平の世になると姿を消す銃火器。戦国の武将達は火縄銃を合戦に使うばかりで、美術的価値を付けることはほとんどありませんでした。このように、芸術的に重んじられることの多い日本刀とはまた異なり、火縄銃は武器としての特性がより濃かったと言えます。