【利休】、【豪姫】の2作の時代劇映画を遺した勅使河原宏(てしがわらひろし)。華道創流者を父に持ちます。芸術大学に学び、安部公房作品の映像化を手がけるなど前衛的な映像活動でそのキャリアをスタートさせました。そんな勅使河原宏の時代劇映画は陶芸に取り組み、父・妹から継承した3代家元就任以降に企画されました。千利休・古田織部・本阿弥光悦の3部作だったといい、茶道、茶人の美学が描かれます。
勅使河原宏はいけばな草月流の創流者の子として生まれ、育ちます。学生時代は東京美術学校(現・東京藝術大学・美術学部)で日本画・洋画を学び、在学中には安部公房が主導した前衛芸術運動にも参加しました。第2次世界大戦をまたいだ学生時代、学生運動が高まるなかで農村解放運動にも参加しています。
大学卒業後は美術映画の制作参加をきっかけに映画に携わり、実験映画を制作します。そして木下惠介(代表作:【カルメン故郷に帰る】、【二十四の瞳】、【楢山節考】など)に師事し、映画制作を学びます。
初の長編映画の監督作は、安部公房脚本【おとしあな】(1962年〔ATG〕配給)です。
商業主義ではない作家性の強い映画の配給を目指した日本アート・シアター・ギルド(ATG)の邦画配給第1回作品で、勅使河原プロダクション第1回作品でもありました。
当時は大衆娯楽の中心は映画からテレビへと移行していた時期で、大規模な映画スタジオ方式から個人プロダクションの時代に向かっていました。同作は第15回カンヌ国際映画祭・批評家週間部門に出品もされています。
その後、安部公房「失踪三部作」と称される小説群(【砂の女】、【他人の顔】、【燃えつきた地図】)を映画化します。その最初となった映画【砂の女】(1964年〔東宝〕配給)は国際的にも高い評価を得ます。
第38回キネマ旬報・日本映画監督賞と日本映画ベストテン・作品賞、第17回カンヌ国際映画祭・審査員特別賞などを受賞します。さらには第37回アカデミー賞・外国語映画賞ノミネート(1965年)、第38回アカデミー賞・監督賞ノミネート(1966年)もされています。
世界を舞台に活躍していく勅使河原宏は日本人で初めてアメリカのアカデミー賞の会員にもなっています(1968年)。
しばらく映画制作の途絶えていた勅使河原宏は、海外の芸術家を取り上げたドキュメンタリー映画で復帰します(【動く彫刻 ジャン・ティンゲリー】、【アントニー・ガウディー】)。
そして、62歳の年、時代劇映画に取り組みます。
原作となったのは、野上彌生子【秀吉と利休】です。作者80歳の間際に執筆され、第3回女流文学賞(1964年)を受けています。
主人公は豊臣秀吉ではなく、千利休(せんのりきゅう)です。戦前に海音寺潮五郎が【茶道太閤記】で豊臣秀吉との対立を描き先鞭を着けた系譜です。野上彌生子はさらに両者の対立に主眼を置きました。
千利休が豊臣秀吉の茶頭筆頭(さどうひっとう)として出世し、やがて対立から切腹を命ぜられるまでの生涯が描かれます。その際、武に自身の茶道の審美を対峙させた野上彌生子の世界観は現在の千利休のイメージの古典となっています。
勅使河原宏監督作【利休】(1989年〔松竹〕配給)は、映画内に登場するいけばなを勅使河原宏自ら手がけ、表千家・裏千家・武者小路千家が後援しています。茶器や掛け軸は重要文化財などの本物を登場させています。
共同脚本を美術家の赤瀬川原平、音楽を武満徹、衣装をワダエミが手がけたことも当時大いに話題となりました。
撮影場所には、仁和寺(京都市)、西教寺(大津市)、彦根城(彦根市)、三渓園(横浜市)、隣松園(大津市)などが使用されています。
本作は、第13回モントリオール世界映画祭・最優秀芸術賞・芸術貢献賞(1989年)、第40回ベルリン映画祭・フォーラム連盟賞(1990年)、第40回芸術選奨文部大臣賞(1990年)などを受賞しています。
織田信長(9代目・松本幸四郎=現2代目・松本白鸚)から豊臣秀吉(山崎努)へ時代が移行するなかで千利休(三國連太郎)の生涯が描かれます。
豊臣秀長(田村亮)が豊臣秀吉の調整役を懸命に務めるなか、石田三成(5代目・坂東八十助=現10代目・坂東三津五郎)が暗躍します。
豊臣秀吉の逆鱗にふれた千利休の高弟・山上宗二(井川比佐志)の打ち首、大徳寺の古渓和尚(財津一郎)が進めた山門楼上への千利休の木像建立などに、映画版独自に石田三成から千利休へ徳川家康(2代目・中村吉右衛門)の茶室での暗殺依頼が描かれます。
そして、豊臣秀吉が推し進めた唐御陣(からごじん:*朝鮮出兵)への千利休の物言いをきっかけに、豊臣秀吉と千利休の2人の間に決定的な亀裂が生じます。
勅使河原宏は映画版独自のやりとりとなった場面で、千利休を次のように描きました。
千利休(三國連太郎)は武人・豊臣秀吉(山崎努)から文化・芸術への複雑な感情をぶつけられます。
豊臣秀吉
「お前の指一本で花も器も姿を変える、見事な奴じゃ。お前のような男は他にはおらん。そう思っておるだろ。お前は指一本で世界が変えられる、そう思っておるだろ。この俺もこの梅の枝のようなものだと思っておるんだ」
千利休
「滅相もござりません」
豊臣秀吉
「滅相もない? ないわけがない。それがあの不届きな木像を楼上に飾り上げたのだ。俺にお前の足の下をくぐらせる気だ、お前はそれほど偉いのか」
千利休
「迂闊なことを致してしまいました」
豊臣秀吉
「(激怒)迂闊で済むと思うのか! 古渓は木像を刻ませたのも山門に置いたのもことごとく自分のしたことだと申すそうだ、そちとあやつのことだ、坊主はかばいだでしているに相違ない。どうだ!」
千利休
「ご賢察の通りでございます」
豊臣秀吉
「(落ち着いて)いや、木像はいいんだ。それを大胆にも楼上に置く。それでこそお前だ、俺は気に入っている」
映画【利休】
勅使河原宏の利休が公開された同じ年には、もうひとつの利休映画が発表されています。
井上靖の第14回日本文学賞受賞作【本覺坊遺文】(1981年)を原作とする熊井啓監督作【千利休 本覺坊遺文】(1989年〔東宝〕配給)です。この時期、千利休没後400年(1991年)を迎えようとしていました。
こちらでは千利休(三船敏郎)の実在とされる弟子・本覺坊(奥田瑛二)を主人公に、千利休切腹の謎が回想形式で描かれます。
本覺坊は千利休・山上宗二(上條恒彦)・古田織部(加藤剛)3人の茶人が切腹した理由を知りたい織田有楽斎(萬屋錦之介)の願いに応えます。同作は第46回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けています。
かつて熊井啓は千利休の娘・お吟を主人公にした【お吟さま】を監督していました(1978年)。今東光の同名の小説(1957年)の映画化です。すでにこの小説は女優・田中絹代によって映画化されており(1962年)、2度目の映画化でもありました。
お吟さまでは、千利休の娘・お吟が想いを寄せる正室のいるキリシタン大名・高山右近への純愛、美しいお吟を側室にしようとする豊臣秀吉の強欲、娘を守ろうとする千利休の父娘愛が描かれました。
熊井啓の千利休映画2弾目となった千利休 本覺坊遺文と、勅使河原宏の利休とによってこの時期、千利休への関心が大いに高まることになりました。
勅使河原宏は続いて、千利休の高弟ともされる古田織部(ふるたおりべ)を主人公とする時代劇映画を監督します。
原作は、富士正晴【たんぽぽの歌】(1961年)です。のち【豪姫】に改題されました(1979年)。
主人公の古田織部は、千利休切腹後の茶を大成したとされる武将で茶人です。千利休の切腹時、前田利家、細川忠興らと共に助命嘆願もしています。
豊臣秀吉没後は、徳川家康・徳川秀忠に茶を教える立場となるも大坂夏の陣で豊臣方との内通が疑われ、徳川家康の命で切腹しています。
同小説では古田織部の生涯と同時に、古田織部の架空の下人で侍嫌いのウスがもうひとりの主人公として扱われます。そして、ウスと豪姫(前田利家四女・豊臣秀吉養女・宇喜多秀家正室)との恋愛が創作されます。
前田利家の娘・豪姫は、当時子のいなかった豊臣秀吉の養子となることが生まれる前から約束されていました。数え年15歳で豊臣秀吉の寵臣・宇喜多秀家の正室として嫁ぐなど、豊臣秀吉に溺愛されました。豊臣秀吉は関白職を豪姫に譲りたかったほどとも言われます。
富士正晴はそんな豪姫を武芸に長けた男勝りと創作し、戦国時代を生きる女性の悲哀を描きました。
古田織部と豪姫とのつながりも創作され、表題のたんぽぽは政局に巻き込まれる以前に2人をつないだ象徴の花とされます。晩年を籠の鳥として生きることになった豪姫に対し、古田織部は茶頭・千利休のような名誉ある切腹を拒否し、最期まで見苦しいまでに敵に刃を振るう武将という生き方を選びます。
勅使河原宏監督作【豪姫】(1992年〔松竹〕配給)は、脚本は前作に続いて赤瀬川原平、音楽も武満徹が担当しました。
撮影場所には、大覚寺・仁和寺(京都市)、彦根城(彦根市)などが使用されています。
主人公の豪姫(宮沢りえ)は、前田利家(*映画内では未登場)の娘として生まれるも豊臣秀吉(笈田勝弘)の養女として迎えられ、豊臣秀吉に仕える古田織部(仲代達矢)にも愛されて育ちます。
武芸の腕が立ち腕白が過ぎる豪姫は切腹した千利休(*映画内では未登場)の首が河原にさらされることを知ると千利休の尊厳から、古田織部の下人ウス(永澤俊矢)を従え、首を盗み出しました。
そんな豪姫はウスを欲しがり、ウスは豪姫の寝所を訪れました。
恋に落ちた2人だったものの、ウスは千利休の首を盗んだことで豊臣秀吉から命を狙われ、2人は離れ離れになります。
それから20数年後、天下は徳川家康(井川比佐志)の時代を迎えます。
豪姫は宇喜多秀家(*映画内では未登場)の正室となっていたものの、夫は関ヶ原の戦いに負けたことで島流しとなります。そして故郷・金沢でひとりの暮らしを選んでいたとき、ウスと再会しました。
映画版ではその続きが独自に創作されます。
豪姫は時代が変わるなかで徳川家康と対立し、孤立していく古田織部のために茶会を開くことを決意します。古田織部の妹を妻に迎えたキリシタン大名・高山右近(9代目・松本幸四郎=現2代目・松本白鸚)、キリシタンの細川ガラシャを妻に持つ細川忠興(山本圭)らに声をかけます。日取りは千利休の命日が選ばれました。
勅使河原宏は映画版独自の場面で、古田織部を次のように描きました。
古田織部(仲代達矢)はキリスト教の脅威を感じる武人・徳川家康(井川比佐志)から文化・芸術への複雑な感情をぶつけられます。
徳川家康
「物作りは何かにつけて熱中する、しかも頑固で身勝手になる者が多い、茶の湯者も用心せんとな。利休なんかもそうじゃろ、どうじゃな織部守」
古田織部
「はばかりながら申し上げます。物を作る楽しみは新しきを見出すことにございます。新しき物はその価値が推し量れませぬゆえ、正統なる評価も下しようがないままに傍から見ると身勝手と取られる場合も多ございましょう。利休居士がよい例かと存じます」
徳川家康
「今何と言うた? 新しき物を見出すとな」
古田織部
「はぁ」
徳川家康
「いらぬことを」
古田織部
「は?」
徳川家康
「織部守、そちは将軍家の茶の指南役であろう。茶道具の名品はすでに十分ある。その名品の価値を損なわぬよう上手に活かすのがそちの務めではないのか」
古田織部
「いかにも大御所様の仰せの通りにございます。さりながら名物は名物として我ら等しくその価値を認めながらも、今の物、新しき物を作る喜びを打ち消すこともできかねます。これぞ自然の摂理ではございますまいか」
徳川家康
「キリシタンは摂理という言葉を好むが、どのように説く?」
古田織部
「人の知恵を超えてあらるる神の閾とでも申しますか」
徳川家康
「そちはキリシタンか?」
古田織部
「いいえ」
徳川家康
「ならば摂理などに執着するな」
古田織部
「はい」
徳川家康
「人の世を丸く治むるのは人の知恵の相和じゃ、はみ出すでないぞ」
古田織部
「は」
映画【豪姫】
勅使河原宏は物語の最後、古田織部(仲代達矢)の死を知った豪姫(宮沢りえ)にこう語らせました。
映画【豪姫】
その台詞は共同脚本の赤瀬川源平とで原作小説にある台詞を短く表現しただけのものの、華道創流者の家に生まれ、学生運動や様々な芸術に変転してきた勅使河原宏の時代劇感覚かも知れません。赤瀬川源平によればその後も本阿弥光悦(江戸時代初期の書家・陶芸家・茶人)の映画も考えていたという勅使河原宏は、実現前にこの世を去っています。