【瞼の母】、【沓掛時次郎 遊侠一匹】といった長谷川伸原作の時代劇映画を遺した加藤泰(かとうたい)。現代を舞台にした任侠映画へと時代が移行する直前を映画人として生きました。長谷川伸が創始した股旅物に基づく刀剣観には、古き良き剣劇(チャンバラ)映画の香りが漂っています。
その後、共同監督による忍者映画などを経て剣劇(チャンバラ)映画を望み、東映へ移籍します(1956年)。移籍1作目は山手樹一郎原作【恋染め浪人】です。
以後、歴史・時代小説を原作とする時代劇映画を中心に多数の時代劇映画を監督します。
柴田錬三郎原作【源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流】、山手樹一郎原作【緋ざくら大名】、山手樹一郎原作【浪人八景】、児童文学者の千葉省三原作【紅顔の密使】などです。
また、山上伊太郎原作【時代の驕児】(監督・稲垣浩)をリメイクした【大江戸の侠児】、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲【ハムレット】を原作とし戦国時代に移し替えた【炎の城】、鶴屋南北(4代目)の歌舞伎狂言【東海道四谷怪談】の7度目の映画化となった【怪談お岩の亡霊】など他社で先行して話題となっていた題材も監督します。
そして、戦前に人気を博した時代劇映画も蘇らせます。
長谷川伸原作【瞼の母】(1962年〔東映〕配給)の監督・脚本です。
江戸時代後期を生きる任客・博徒・渡世人を主人公に義理人情を描く股旅物の創始者によるその原作は、戦前の稲垣浩監督作、戦後の中川信夫監督作に続いた3度目の映画化です。当時すでに5度のテレビドラマ化もなされていた人気の戯曲でした。
加藤泰は稲垣浩監督版への憧れから、いつか自身の手による映画化を夢見ていたと言う思い入れの強い作品でした。
主人公は、江州(現在の滋賀県)生まれの番場の忠太郎(中村錦之助=のち萬屋錦之介)です。
5歳のときに母親と生き別れた番場の忠太郎は、成長後、総州(現在の千葉県中部と現在の千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺)の侠客・笹川繁蔵の子分となります。そのことでやがて笹川一家と対立する侠客・飯岡助五郎一家に命を狙われることになりました。
きっかけは、番場の忠太郎の弟分・金町の半次郎(松方弘樹)で、親分が暗殺された仕返しの行動でした。
番場の忠太郎
「えーい、旅人・番場の忠太郎、義理あって助太刀する」
立ち回り。
金町の半次郎
「兄っ、やっぱりお前」
番場の忠太郎
「あわてるんじゃねぇこの野郎。手前を待っているおふくろさんや妹さんのため、手前殺したくねぇからだよ」
再び、立ち回り、始まる。
映画【瞼の母】
番場の忠太郎は、母親のおむら=おはま(木暮実千代)が江戸にいるという噂を聞き付け向かいます。
けれども母親は夜鷹(下級の私娼)の暮らしを経て、今は料亭の女主人・おはまと名を改めていました。再婚して娘も生まれ、娘は商人の若旦那と祝言を間もなく迎えるという幸せの絶頂にいました。
番場の忠太郎はそんな母と再会するも、ゆすりやたかりとして冷たくあしらわれます。この不幸な再会は番場の忠太郎の闘争心に火を付け、再び刀を振るわせることになります。相手は、飯岡助五郎一家から金をせしめるために暗躍していた素盲の金五郎(原健策)のごろつきと、浪人・鳥羽田要助(山形勲)です。
番場の忠太郎
「誰でぇ」
素盲の金五郎、鳥羽田要助、番場の忠太郎に恨みを持つ二人、出る。
番場の忠太郎
「てめぇたちのつらには見覚えがある。何の用でござんす」
素盲の金五郎
「てめぇの命をもらうんでぇ」
番場の忠太郎
「今夜の俺には逆らわねぇ方がいいぜ」
鳥羽田要助
「そうかなぁ、おう、あれを見ろ」
素盲の金五郎が声をかけていた一味、出る。道中合羽を脱いだ番場の忠太郎。
番場の忠太郎
「おめぇたち、親はあるのかい?」
素盲の金五郎の一味
「ぬ?何だ?そんなものあるけぇ」
三度笠を脱ぐ番場の忠太郎。
番場の忠太郎
「子供は?」
素盲の金五郎の一味
「ねえや」
三度笠を投げる番場の忠太郎。
番場の忠太郎
「ねぇんだな」
刀に手をかけた番場の忠太郎、「ねぇんだな!」と素盲の金五郎の一味を斬り付けていく。
映画【瞼の母】
続いて、林不忘原作【丹下左膳 乾雲坤竜の巻】の東映版シリーズ5作目の担当を経て、福田善之の舞台劇を原作とする【真田風雲録】を担当します(1963年〔東映〕配給)。
大正時代に書き講談を流行させた立川文庫によって広まった【真田十勇士】が題材です。
福田善之が当時の学生運動を下敷きにしたこの舞台劇は軽妙なミュージカル仕立てで映画化が進められ、加藤泰が監督を引き受けています。
東京オリンピック(1964年)以降、大衆娯楽の中心は映画からテレビへ完全に移っていました。
東映では大衆娯楽がテレビに移行したこの時期、岡田茂(東映取締役兼東映京都撮影所所長)の方針によって任侠映画が多数制作されることになります。そして、それまでの時代劇から脱却した東映任侠映画路線へ舵が切られます。
加藤泰の監督作も時代の流れを受けます。
司馬遼太郎原作【風の武士】、紙屋五平原作【車夫遊侠伝 喧嘩辰】、新選組を題材とした【幕末残酷物語】、紙屋五平原案【明治侠客伝 三代目襲名】、【緋牡丹博徒】シリーズ、藤原審爾原作【昭和おんな博徒】などを監督します。
この間、長谷川伸原作【沓掛時次郎 遊侠一匹(くつかけときじろう ゆうきょういっぴき)】(1966年〔東映〕配給)を監督します。
沓掛時次郎は戦前から8度目の映画化となる時代劇映画です。当時すでに3度のテレビドラマ化もなされていた人気の戯曲でした。
けれども、沓掛時次郎の原作は加藤泰版が現在最後の映画化となっています(1966年)。
物語は江戸時代後期、徳川家慶(江戸幕府第12代将軍)の時代です。
沓掛時次郎(くつかけときじろう:中村錦之助=のち萬屋錦之介)は渡世人です。彼を兄貴と慕う身延の朝吉(渥美清)と共に総州の任客・佐原の勘蔵(高松錦之助)の一家の世話になります。
一宿一飯の恩義を理由に、勘蔵一家と敵対する牛堀の権六一家を斬る助太刀を迫られます。
助太刀の扱いへの非情さを知る沓掛時次郎は拒否したものの、渡世人に憧れる身延の朝吉は引き受け、命を落とすのでした。
原作にはないこの映画版独自の演出で、沓掛時次郎は刀を振るいます。
沓掛時次郎
「てめぇたち、こいつひとりを、よってたかってやりなさったのかい」
権六一家
「あぁ飛び込んだ虫は叩かにゃならねぇ」
権六一家
「どこの旅人か知らねぇが望んだらてめぇも一緒にあの世に送ったっていいぜ。どうする、やるのかやらねぇのか」
沓掛時次郎
「やりたかねぇや。やりたかねぇが。朝ー、見てやがれ!」
と、刀を抜いた。
映画【沓掛時次郎 遊侠一匹】
その後、沓掛時次郎(中村錦之助=のち萬屋錦之介)は鴻巣金兵衛(堀正夫)一家への一宿一飯の恩義から、一家と敵対していた六ツ田の三蔵(東千代之介)を斬ります。
このとき斬った際、妻と子を託されます。沓掛時次郎は未亡人となったおきぬ(池内淳子)とその幼子・太郎吉(中村信二郎)を連れ、自身の故郷・信州(現在の長野県)の沓掛を目指すことになります。
そんな2人に恋心が芽生えます。けれどもおきぬは亡くなった夫を振り返り、櫛を置いて姿を消しました。その1年後、沓掛で再会したとき、おきぬは肺を病んでいました。その薬代を得るため、沓掛時次郎は足を洗っていたにもかかわらず、八丁徳(明石潮)一家の助太刀として、再び刀を振るいます。
おきぬ
「時次郎さん、あの櫛は持っておいでですか?」
沓掛時次郎
「へぇ、持っておりますよ」
と、懐から懐紙にくるんだ櫛を出す。
おきぬ
「その櫛は私の心のつもりでした。もうお目にかかるまいと別れたけれど、日が経つにつれて、いつのまにか足が沓掛の方へ」
櫛を胸の前で握り締める沓掛時次郎。
おきぬ
「もう私は長くはない、でもお前さんがこうしてそばにいてくれるんです。悪い女ですね」
沓掛時次郎
「(思い悩み、意を決して)おきぬさん、櫛をおけぇしいたします」
おきぬ
「え?」
と櫛を布団に置き、布団に隠していた刀を手にして部屋を出た。
映画【沓掛時次郎 遊侠一匹】
時代劇映画にこだわった加藤泰は拠点をテレビ時代劇の脚本へと移します。【水戸黄門】、【大岡越前】などを担当します。
そして、松竹へ移籍し(1972年)、任侠映画を手がけるなかで、ドキュメンタリー映画【ざ・鬼太鼓座】が最後の監督作となりました(1981年)。
その間、時代の移り変わりに逆らうように吉川英治原作【宮本武蔵】の映画化を手がけています(1973年〔松竹〕配給)。脚本は野村芳太郎(のちの代表作:監督作【砂の器】)とその弟子・山下清泉(=のちジェームス三木:のちに第25作NHK大河ドラマ【独眼竜政宗】を担当)が手がけています。
吉川英治原作で監督デビューし、晩年にも吉川英治原作を監督した加藤泰。任侠映画へ時代が移行していくなか、時代劇映画にこだわり続けました。その監督作では、股旅物の世界観である母のため・子のため・弟分のために刀が振るわれます。