【四十七人の刺客】や【どら平太】など、多作のなかで時代劇映画も遺した市川崑(いちかわこん)。アニメーター出身の実写監督という特異な経歴を有します。その独自の映像演出では光が巧みに使われており、刀剣描写・立ち回りでも変わりません。
市川崑はウォルト・ディズニーのアニメーションに感銘を受け、アニメーターとしてそのキャリアを始めます(1933年)。東宝の前身のひとつJ.O.スタヂオで働き、短編アニメ【新説カチカチ山】では企画・脚本・作画・撮影・編集・監督をしています(1936年)。
その翌年、所属先が合併したことから実写に転じ、伊丹万作や阿倍豊らの助監督を務めます。第2次世界大戦時には兵役召集されるも健康上の理由から入隊できずでした。
戦後、野上彌生子原作【花ひらく】で監督デビューします(1948年)。以後、文芸原作を中心に、新東宝・東宝・日活と複数の映画製作・配給会社から監督作を発表します。
この時期の時代劇映画には、野村胡堂の代表作を原案に独自に創作した【天晴れ一番手柄 青春銭形平次】があります(1953年〔東宝〕配給)。
竹山道雄(ドイツ文学者)の児童文学を原作とした【ビルマの竪琴】(1956年〔日活〕配給)が初期の代表作となります。大戦中に戦地ビルマ(現在のミャンマー)で行方不明になった音楽学校出身の日本兵の物語です。
同作は第17回ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受けます(1956年)。第30回キネマ旬報・日本映画ベストテンでは第5位を受賞しました(1956年度)。
市川崑はその後、大映に移籍し、さらに文芸原作・原案に取り組みます。
松田道雄(育児評論家)原作【おとうと】では、「銀残し」を実用化します。暗部をより暗くし映像の濃淡をより明確にする技法で、市川崑映像の特色のひとつとなっていきます。
同作は第14回カンヌ国際映画祭で、フランス映画高等技術委員会賞を受けます(1960年)。第34回キネマ旬報・ベストテンでは日本監督賞と日本映画ベストテン第1位を獲得しました(1960年度)。
この時期の時代劇映画では、長谷川一夫300本記念映画として制作された三上於菟吉原作【雪之丞変化】(伊藤大輔・衣笠貞之助脚色)を監督しています(1963年〔大映〕配給)。
そして、黒澤明の辞退によって引き受けた総監督を務めた東京オリンピック(1964年)の公式記録映画【東京オリンピック】(脚本に谷川俊太郎他)でその名をさらに広く知らしめました(1965年〔東宝〕配給)。
「記録映画か芸術映画か」の議論が起こった同作は公開の年、第18回カンヌ国際映画祭では特別招待され国際批評家賞を、第18回英国アカデミー賞ではドキュメンタリー賞をそれぞれ受けました。
東京オリンピック(1964年)以降、大衆娯楽の中心は映画からテレビへと完全に移っていました。市川崑は映画と同時に、日本テレビからの依頼(1959年)をきっかけに早くからテレビの演出にかかわっています。
テレビ時代劇では、国際エミー賞・フィクション部門第1位を受賞した紫式部原作【源氏物語】(1965~1966年〔毎日放送〕放送)、大ブームを起こした笹沢左保原作【市川崑劇場 木枯し紋次郎シリーズ】(1972年〔フジテレビ〕放送)、林不忘原作【丹下左膳】(1974~1975年〔読売テレビ/日本テレビ〕放送)などを演出しています。
またこの時期、大映を離れて崑プロダクションを設立します(1965年)。黒澤明・木下惠介・小林正樹との映画監督4名による「四騎(しき)の会」も結成します(1969年)。同会では黒澤明の初カラー映画の共同脚本(1970年)、四騎の会ドラマシリーズ(1972年)などに取り組んでいます。
そして、商業主義ではない作家性の強い映画の配給を目指した日本アート・シアター・ギルド(ATG)とも組みます。詩人・谷川俊太郎脚本によるロード・ムービー風に撮影した時代劇映画【股旅】を監督しました(1973年〔ATG〕配給)。
市川崑は70歳を過ぎ、ビルマの竪琴をカラーでリメイクします(1985年)。
このとき、製作したフジテレビとはその後、大佛次郎原作【御存知!鞍馬天狗】(1989年〔フジテレビ〕放送)、フジテレビ版の長編として制作され劇場公開された【帰って来た木枯し紋次郎】(1993年〔東宝〕配給)を監督しています。
こうした時代劇への取り組みのなかで、池宮彰一郎【四十七人の刺客】を映画化します。この書き下ろしは刊行の年、第12回新田次郎文学賞を受けていました(1992年)。
この時代小説は長年、時代劇映画やテレビ時代劇の脚本を手がけていた池上金男(代表作:工藤栄一監督作【十三人の刺客】、五社英雄監督作【雲霧仁左衛門】など)の、歴史・時代小説家としてのペンネームによるものです。
最大の特徴は、浅野内匠頭長矩(赤穂藩第3代藩主)が殿中で吉良上野介義央(高家旗本:儀礼式典を司る名家)を斬り付けた刃傷沙汰の理由を謎としたことです。
そして、徳川綱吉(江戸幕府第5代将軍)の時代に起こった赤穂事件を歌舞伎化した忠臣蔵の物語を諜報戦とし、元・赤穂藩藩士を刺客としました。主君の仇を討った赤穂事件の面々を義士ではなく浪士として描いたことで歴史・時代小説の金字塔となった大佛次郎【赤穂浪士】より、池宮彰一郎はさらに独自性を持ち込みました。
主題は「スリルとサスペンス」の導入です。赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)と米沢藩江戸家老・色部又四郎(いろべまたしろう)の出し抜き合いに主眼が置かれます。
大石内蔵助は藩の特産・塩の相場での儲けを討ち入りのために軍資金とします。その金で主君が殿中で、吉良上野介義央を斬った理由を賄賂だったとの噂を流し、討ち入りへの世論の同情を買いました。結果、吉良上野介義央は江戸城城郭内にあった屋敷を追い出されることになります。
吉良側を支える色部又四郎が仕える上杉家は、吉良上野介義央の実子で養子として入った上杉綱憲が藩主です。現・将軍が推す次期将軍候補・徳川綱教(紀州藩第3代藩主)の姉の夫が上杉綱憲でした。こうした理由から徳川綱吉の側用人・柳沢吉保は色部又四郎を支えます。
色部又四郎は守りの堅い江戸城城郭内を追い出された吉良上野介義央を守るため、新屋敷を城塞のごとく仕かけを施し、鉄壁とします。
市川崑監督版【四十七人の刺客】(1994年〔東宝〕配給)は、日本映画誕生100周年記念作品として製作されました。脚本には原作者の池上金男を迎え、竹山洋と市川崑と共同で担当します。同作は第18回日本アカデミー賞では優秀監督賞・優秀脚本賞などを受けています(1995年)。
大石内蔵助(高倉健)率いる元・赤穂藩藩士の面々と、吉良上野介義央(西村晃)を支える柳沢吉保(石坂浩二)・色部又四郎(中井貴一)が諜報戦を繰り広げます。
原作に準じて大石内蔵助と元・赤穂藩藩士の未亡人・きよ(黒木瞳)との濡れ場、史実に基づき若い娘・かる(宮沢りえ)との恋愛模様も描かれました。
市川崑は吉良邸討ち入りに、独自の映像演出を実施しました。四十七士のひとり奥田孫太夫(井川比佐志)が手にした灯り・龕灯(がんどう)と、刀の反射を巧みに使用しました。
奥田孫太夫
「龕灯(がんどう)」
龕灯の光に向こうに刀を手にしていた四人の吉良派。龕灯に目がくらんでいる敵。そこに刀を抜く奥田孫太夫。わずかな龕灯の光のなかで彼らを斬る。
斬られる四名。血が飛び散るふすま。倒れていくふすまに敵がひとりおりかかる。
奥田孫太夫
「これは、播州赤穂浅野家は旧臣。士道を立て、侍の一字を貫かんがため推参致した」
わずかな光の中で、誰もいない部屋で叫ぶ。
奥田孫太夫
「我と思わん者は出合え候え」
~以後もわずかな光の中で討ち入りは続いていく
映画【四十七人の刺客】
市川崑は【八つ墓村】のリメイク版を経て、山本周五郎の短編【町奉行日記】を映画化します。
同短編は一度も町奉行所に出所しない町奉行・望月小平太(もちづきこへいた)が主人公です。道楽者からくる「どら平太」と称されるほどの風情です。江戸にいる若殿の命を受けて故郷の町奉行に就任し、治外法権となっている壕外(ほりそと)と呼ばれる悪所問題に取り組みます。
同原作はそれ以前に映画、テレビ時代劇化されていました。
短編発表の年には三隅研次が映画化(1959年)し、その翌年フジテレビ版(1960年)が制作されています。
その後は時代劇プロデューサー・能村庸一企画によるフジテレビ版(1981年:岡本喜八演出)、テレビ朝日版(1987年:山下耕作演出)、再び能村庸一企画のフジテレビ版(1992年:工藤栄一演出)が続いています。
市川崑は原作を【どら平太】(2000年〔東宝〕配給)の表題で監督します。
それは31年後の実現でした。「四騎の会」の第1回作品として脚本化されたものの映画化されずに終わっていました。
四騎の会の面々で練り上げた脚本を、市川崑は映画化にあたり原作に忠実な物語に戻しています。
どら平太こと望月小平太(役所広司)は、江戸から若殿の命を受けて故郷の町奉行に就任し、壕外の悪所問題に取り組みます。
その際、友人の大目付・仙波義十郎(宇崎竜童)に頼んでわざと流した自身の悪評を利用し、町奉行所にはあえて顔を出しません。金を大量に使い、悪所に出入りし、裏の組織をあぶり出そうとします。
もうひとりの友人である徒歩奉行・安川半蔵(片岡鶴太郎)の助力、江戸から追いかけてきた芸者・こせい(浅野ゆう子)との恋愛模様も描かれます。
そして壕外を取り仕切る大河岸の灘八(菅原文太)・継町の才兵衛(石橋蓮司)・巴の多十(石倉三郎)の3名に立ち向かうことになります。
望月小平太(役所広司)の立ち回りには独自の映像演出が施されます。
大河岸の灘八(菅原文太)は望月小平太を屋敷に招きます。武家の次男坊の彼を自分の養子にして取り入ろうとするも拒否されたことで、子分に一斉に斬りかからせます。
市川崑はこのとき、部屋の灯りを徐々に光を暗くし、刀の反射を巧みに使用します。そしてスローモーションを導入しました。
映画【どら平太】
市川崑はその後も、時代劇の定番ジャンルと山本周五郎原作を繰り返します。
忠臣蔵と同じ人気ジャンルの新選組を取り上げます。黒鉄ヒロシ原作【新選組】(2000年〔メディアボックス〕配給)です。第43回文藝春秋漫画賞を受けた漫画を三次元立体漫画として映画化しました。
その翌年、江戸時代後期の貧乏長屋を舞台にした山本周五郎原作【かあちゃん】(2001年〔東宝〕配給)を監督します。市川崑夫人で脚本家だった和田夏十が【江戸は青空】(西山正輝監督)の表題で、かつて中編映画化していました(1958年)。市川崑版は第25回モントリオール世界映画祭で特別功労賞などを受けています(2001年)。
そして、30年ぶりのセルフリメイク【犬神家の一族】が長編の遺作に(2006年)、夏目漱石原作の10名の監督によるオムニバス【ユメ十夜】が短編の遺作となりました(2007年)。
多種多彩な映像表現に取り組み続けた市川崑。数作手がけたその時代劇映画でも巧みな映像表現は変わらず、晩年まで試みられました。