【七人の侍】、【用心棒】で時代劇映画に革命をもたらした黒澤明(くろさわあきら)。両作では人間らしい人物が主人公です。主人公は対立する者の間で揺れ動きます。また、刀の耐久性や、拳銃との勝負を描くうえでもリアリズムがこだわられ、独自の刀剣描写も生み出しました。それは海外文学、西洋演劇への造詣の深さによって支えられています。
黒澤明は画家を夢見る子供でした。またロシア文学に傾倒し、フョードル・ドストエフスキーやレフ・トルストイなどを愛読。そうした影響から日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴(おかもととうき:漫画家・白土三平はその息子)に絵画を学んでいます(1929年)。
やがて画家の道をあきらめるとピー・シー・エル映画製作所(東宝の前身のひとつ)に入社します(1936年)。当初は脚本家として活躍しました。
太平洋戦争が始まった翌年に書いた2本の脚本が評価されます。情報局国民映画脚本募集で情報局賞を、また、日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位を受賞しました(1942年)。
その年は、劇映画の映画製作会社が国策によって松竹・東宝・大日本映画社(略称・大映)の3社に統合された状況下でもありました(1942年)。
そしてその翌年、富田常雄原作の柔道漫画【姿三四郎】で監督・脚本デビューします(1943年)。同作は第2回国民映画賞・奨励賞、山中貞雄賞を受けるなど高い評価を得ました。
黒澤明は戦地には赴かず、第2次世界大戦中も映画制作を続けます。能【安宅(あたか)】と歌舞伎【勧進帳】に基づく時代劇映画【虎の尾を踏む男達】の監督・脚本も手がけています(1945年/検閲から公開は1952年〔東宝〕配給)。本作は自身初の時代劇映画となりました。
黒澤明は第2次世界大戦後の映画賞にて常連となります。
キネマ旬報・日本映画ベストテンでは現代劇【わが青春に悔いなし】で2位(第20回・1946年度)、現代劇【素晴らしき日曜日】で6位(第21回・1947年度)、そして現代劇【酔いどれ天使】で自身初の1位(第22回・1948年度)を獲得しました。
その後、東宝を離れて映画芸術協会に所属し、大映と組みます。
そして、自身2作目の時代劇映画【羅生門】を監督・共同脚本します(1950年〔大映〕配給)。脚本家・橋本忍が書いていた芥川龍之介の短編【藪の中】の脚本を叩き台とし、芥川龍之介の短編【羅生門】の要素を自ら書き足して仕上げました。
盗賊、武士、武士の妻がそれぞれの利己心を貫き合う人間らしい様を描きます。
同作公開の年は、いまだ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)占領下で、それまで禁止されていた剣劇(チャンバラ)がようやく解禁された年でもありました(1950年)。
映画公開の翌年、第12回ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞と第24回アカデミー賞・名誉賞を受けます(1951年)。ここに「世界のクロサワ」という呼称が始まることになります。
松竹でフョードル・ドストエフスキーの同名の原作を日本に置き換えた現代劇【白痴】を経て、東宝へ復帰します(1952年)。東宝創立20周年記念映画だった現代劇【生きる】は第4回ベルリン国際映画祭・ベルリン市政府特別賞を受けました(1954年)。
そして、自身3作目の時代劇【七人の侍】(1954年〔東宝〕配給)を監督・共同脚本します。
侍の実態を調査し、リアリズムにこだわった末に製作に1年以上かかっています。前作から始めた集団での脚本制作もなされ、共同脚本を橋本忍と小国英雄が手がけます。
黒澤明は同作の脚本について、その根底にレフ・トルストイ【戦争と平和】やアレクサンドル・ファジェーエフ【壊滅】などのロシア文学があることを明かしています。
同作は公開の年、第15回ヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞を受け(1954年)、「世界のクロサワ」の呼称を不動のものとしました。
七人の侍では剣客の浪人・島田勘兵衛(しまだかんべえ:志村喬)を筆頭に7人の侍が奮闘します。野武士に狙われたとある村の百姓に雇われ、村を守ります。
主人公は、野太刀を愛刀とする侍を気取る菊千代(きくちよ:三船敏郎)です。その愛嬌ぶり、機転ぶりから7人目の仲間として加わることになります。
けれどもその正体は百姓でした。黒澤明はこの侍に憧れる百姓を通して、正義の侍像、純粋な百姓像の両方にゆさぶりをかけ、人間らしさを描きました。
菊千代
「よく聞きな! 百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ! 畜生おかしくって涙が出らぁ! だがな、そんな獣(けだもの)を作りやがったのは一体誰だ? おめぇたちだよ! 侍だってんだよ! 馬鹿野郎!」
暴れる菊千代。
菊千代
「戦のたびに村を焼く! 田畑踏ん潰す! 食い物は取り上げる!人夫にこき使う! 女は犯す! 手向かや殺す! 一体百姓はどうすりゃあいいんだ! 百姓はどうすりゃあいいんだ、百姓は、畜生、畜生、畜生、畜生」
と、座り込んで泣く。
島田勘兵衛
「貴様、百姓の生まれだな」
映画【七人の侍】
黒澤明は実際の侍を描くことにこだわりました。刀の耐久性にも注目し、戦では何振りもの刀を用意していたと考えます。
そこで野武士との決戦の前、独自のリアリズムに基づく場面を設けました。
七郎次
「菊千代、どうするんだ、それを?」
菊千代
「一本の刀じゃ五人と斬れん!」
映画【七人の侍】
反核映画【生きものの記録】を経て、黒澤明は西洋演劇を時代劇に置き換えた映画を続けます。
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲【マクベス】を原作とする【蜘蛛巣城】(1957年〔東宝〕配給)と、マクシム・ゴーリキーの同名の戯曲を原作とする【どん底】(1957年〔東宝〕配給)です。
蜘蛛巣城は第1回ロンドン国際映画祭でオープニング作品として公開されています。このとき黒澤明が敬愛するアメリカの映画監督で、西部劇の神様と称されるジョン・フォード(代表作:【駅馬車】、【怒りの葡萄】など)も招かれており、交流が図られています(1957年)。
続けて時代劇映画【隠し砦の三悪人】を監督・共同脚本します(1958年)。第9回ベルリン国際映画祭・銀熊賞と国際映画批評家連盟賞を受けた同作は、のちにジョージ・ルーカス【スター・ウォーズ】に大きな影響を与えることになりました。
その翌年、黒澤プロダクションを設立します(1959年)。
自身のプロダクション製作第1作目となった現代劇【悪い奴ほどよく眠る】ではアレクサンドル・デュマの復讐小説【モンテ・クリスト伯】を下敷きにしています。
そして、時代劇映画【用心棒】(1961年〔東宝=黒澤プロ〕配給)を監督・共同脚本します。共同脚本は菊島隆三です。ダシール・ハメットのハードボイルド探偵小説【血の収穫】から大いに着想されています。
用心棒も海外の映画人への影響は大きく、同作を西洋に置き換えたイタリア製西部劇(マカロニ・ウエスタン)を生み出すことになりました。
また、同作ではリアリズムの追求から、立ち回りの場面では人を斬った際の衝撃音を導入します。日本映画史上初の本格的な試みとされ、以後、多くの時代劇映画で模倣されていくことになります。
主人公は、桑畑三十郎(くわばたけさんじゅうろう:三船敏郎)です。本名は明かさず、思い付きの名前を口にする浪人です。
物語の舞台は関八州(現在の茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県の地域にあたる)の無法地帯にある宿場町です。
その町では、馬目の清兵衛(河津清三郎)と跡目争いでもめた新田の丑寅(山茶花究)のやくざ同士が対立していました。桑畑三十郎は両者を騙し打ちにすることで、宿場町からやくざ者を一掃することに挑みます。
桑畑三十郎はその考えを次のように語ります。
桑畑三十郎
「まぁ聞け親父。今この町では人を斬れば金になる。しかもこの町には叩っ斬った方がいいような奴しかいねえ。まあ考えてみろ。清兵衛や丑寅、そのほか博打打ち無宿者がみんなくたばったら、この宿場もすっきりするぜ」
権爺
「なぬ無茶な、命がいくらあってもそんなことはできっこねぇ!」
桑畑三十郎
「俺一人でみんな叩っ切るつもりじゃねぇよ」
権爺
「じゃぁどうする気だ?」
桑畑三十郎
「酒だ、酒を飲みながらよく考える」
映画【用心棒】
清兵衛一家を崩壊に追いやった桑畑三十郎(三船敏郎)には、丑寅一家との戦いが待っていました。丑寅一家の親分の弟で回転式拳銃を武器にする新田の卯之助(仲代達矢)が最後の敵です。黒澤明はリアリズムに基づき、回転式拳銃に対して刀への勝利の必然を描きました。
新田の卯之助
「あんまりこっちに来るんじゃねぇ」
笑顔の桑畑三十郎、さらに近付く。そして、いきなり左側に動く。新田の卯之助、その動きに合わせて動いた。その瞬間、桑畑三十郎、懐から素早く取り出した短刀を投げる。短刀は新田の卯之助が回転式拳銃を手にする右腕に刺さり、放った回転式拳銃の弾がそれた。新田の卯之助、痛みからさらに上空にもう一発放ってしまう。
桑畑三十郎、短刀の傷にうごめく新田の卯之助を一刀に斬り倒した。そして丑寅一家をばったばったと斬っていく。
丑寅一家の下っ端
「おっかー」
桑畑三十郎
「子供は刃物を持つんじゃねぇ。お袋ん所へけえれ、水粥すすっても長生きした方がよかねえか」
丑寅一家の下っ端
「うぁー」
と叫び声を上げて走り去る。
倒れていた新田の卯之助に近付く桑畑三十郎。
新田の卯之助
「おめぇは親切だな。俺も頼みがある」
桑畑三十郎
「何だ?」
新田の卯之助
「俺はこれを持ってねぇと、裸見てえな、とても冥途までは旅ができねぇ。これを俺に持たしてくれ」
地面に落ちていた回転式拳銃を拾う桑畑三十郎。
新田の卯之助
「大丈夫だよ、二つ撃った、もう弾は入ってねぇ」
桑畑三十郎、地面に落ちていた回転式拳銃を新田の卯之助の手に持たす。
新田の卯之助
「すまねぇ」
しかし、銃口を桑畑三十郎に向けて撃とうとし、撃鉄を起こす。
新田の卯之助
「駄目だ暗くなってきやがった。畜生」
と力尽き、弾は地面に放たれた。
映画【用心棒】
その後は剣劇(チャンバラ)映画は少なくなり、山本周五郎原作が増えていきます。
用心棒の続編的な時代劇映画【椿三十郎】(1962年〔東宝〕配給)は、山本周五郎の時代小説【日日平安】が原作です。原作を大きく作り変えた映画化では、立ち回りで派手な血しぶきの効果が導入され、以後多くの時代劇で真似られます。
エド・マクベインの警察小説【キングの身代金】を原作とする現代劇【天国と地獄】を経て、時代劇映画【赤ひげ】(1965年〔東宝〕配給)では山本周五郎の時代小説【赤ひげ診療譚】が原作でした。
東京オリンピック(1964年)以降、大衆娯楽の中心は映画からテレビへと完全に移っていきました。
東京オリンピックの記録映画の依頼を辞退した黒澤明は、そのあとを引き継いだ市川崑と、木下惠介・小林正樹との映画監督4名による「四騎(しき)の会」を結成します(1969年)。
テレビ演出も積極的に手がけた同会第1作目の映画として、自身初のカラー作品ともなった現代劇【どですかでん】を監督します。同作も山本周五郎の現代小説【季節のない街】が原作です。
その後も現代劇と時代劇の往復、西洋演劇に基づく時代劇の作風を続けます。
第48回アカデミー賞・外国語映画賞受賞作でロシア人探検家ウラディミール・アルセーニエフの探検記録を原作とする【デルス・ウザーラ】を経て、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した時代劇映画【影武者】では武田信玄の影武者を主人公に描きます。
第39回英国アカデミー賞・外国語作品賞などを受賞した時代劇映画【乱】(1985年〔東宝=日本ヘラルド映画〕配給)ではウィリアム・シェイクスピアの戯曲【リア王】と毛利元就の家訓「三子教訓状」が下敷きです。
晩年は現代劇を軸とする三部作を発表しました(スティーヴン・スピルバーグ協力【夢】、村田喜代子原作【八月の狂詩曲】、内田百閒原案【まあだだよ】)。
代表作となる時代劇映画では人間らしい人物を主人公とした黒澤明。リアリズムにこだわり、独自の刀剣描写も生み出しました。海外の映画人からも評価の高いその作品群は海外文学、西洋演劇への造詣の深さによって支えられています。