前田玄以(まえだげんい)は、織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康という、戦国三英傑すべてに仕えた美濃国(現在の岐阜県南部)出身の武将です。
織田信長に仕える前は僧侶であったと伝わっており、その当時は、宗向(しゅこう)と名乗っていました。
織田信長が、尾張国(現在の愛知県西部)の一大名から頭角を現し始めた頃から、前田玄以は、その臣下に入ります。
織田信長の命により、その嫡男・織田信忠(おだのぶただ)の家臣となり、本能寺の変後は、同じく次男の織田信雄(おだのぶかつ)に仕え、京都所司代(きょうとしょしだい)に抜擢。
豊臣秀吉に仕えてからも、豊臣秀吉と朝廷を結ぶ重要な役割を担い、五奉行のうちのひとりとして、内政を中心に高い能力を発揮します。関ヶ原の戦い後は、徳川家康に認められ、丹波亀山藩(現在の京都府)5万石の初代藩主になります。
本能寺の変の際、織田信忠が織田信長の孫にあたる三法師(さんぼうし)の保護を、前田玄以に託すために渡したと言われる日本刀が、短刀の「徳善院貞宗」(とくぜんいんさだむね)。
前田玄以は、これを豊臣秀吉に献上しますが、再度その手元に戻り、のちに徳川家康に献上。その後、さらに紀州徳川家に下賜され、現在は三井記念美術館(東京都中央区)に所蔵されています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1539年(天文8年) | 1歳 |
美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)に生まれる。
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1573年(元亀4年/ 天正元年) |
35歳 | |
1576年(天正4年) | 38歳 |
長男・前田秀以(まえだひでもち)が誕生。
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1579年(天正7年) | 41歳 |
この年には、織田信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)に、側近として仕えていた記録が残る。織田信忠より、尾張国(現在の愛知県西部)、及び美濃国における統治補佐役に抜擢される。
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1582年(天正10年) | 44歳 | |
1583年(天正11年) | 45歳 |
織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)に仕え、京都所司代(きょうとしょしだい)に任命される。
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1584年(天正12年) | 46歳 |
豊臣秀吉の家臣となり、京都所司代を継続して務める。
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1588年(天正16年) | 50歳 |
豊臣秀吉による聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)に際し、朝廷との交渉役として能力を発揮。豊臣秀吉が朝廷を重視し、関白から太政大臣にまで就任して朝廷の最高位を独占した背景には、京都や朝廷に通じた前田玄以の取り成しがあったと伝えられている。
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1595年(文禄4年) | 57歳 | |
1598年(慶長3年) | 60歳 | |
1600年(慶長5年) | 62歳 | |
1602年(慶長7年) | 64歳 |
5月20日に死去。前年に早世した長男・前田秀以に代わり、三男の前田茂勝(まえだしげかつ)が跡を継ぐ。
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