島津豊久(しまづとよひさ)は、戦国大名であった島津家が、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を統一した年に当たる1570年(永禄13年/元亀元年)に生まれました。
戦上手として知られた島津家久(しまづいえひさ)を父に持ち、元服前から武人として育てられ、かなりの美少年であったとも伝えられています。
豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵で、出陣に二の足を踏んでいた島津家中における他の武士達をよそに、目覚ましい活躍を見せたのが島津豊久でした。いくつもの合戦において先陣を切り、誰よりも早く敵陣に旗を立てていたのです。
その一方で関ヶ原の戦いでは、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される作戦において、自軍の大将のみを戦場から脱出させる、「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる撤退戦術を考案するなど、前に出るだけではない作戦を遂行する武将でもありました。
関ヶ原の戦い後、徳川家康が西軍に属していた島津家を処罰しなかったのは、これら捨て身の戦を見て警戒したためだとも言われています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
1歳 |
島津家久の子として生まれる。
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1584年(天正12年) | 15歳 |
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で初陣を飾る。
肥後国(現在の熊本県)で元服を果たす。 |
1587年(天正15年) | 18歳 |
豊臣軍との間で勃発した戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)で先陣を務めるが、敗退する。
父・島津家久が死去する。 |
1588年(天正16年) | 19歳 | |
1590年(天正18年) | 21歳 | |
1592年(天正20年/ 文禄元年) |
23歳 |
豊臣秀吉の命を受け、文禄の役(ぶんろくのえき)、いわゆる朝鮮出兵に従軍する。約6年もの間、朝鮮に滞在する。
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1599年(慶長4年) | 30歳 |
朝鮮出兵での武功により、中務大輔(なかつかさのたいふ)、及び侍従(じじゅう)に任じられる。大将として庄内の乱に出陣。山田城(宮崎県都城市)を攻め落とす。
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1600年(慶長5年) | 31歳 |