戦国武将一覧

土岐頼芸の歴史
/ホームメイト

土岐頼芸の歴史 土岐頼芸の歴史
文字サイズ

「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道三」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。

実兄との家督争いに勝利した土岐頼芸

名門・土岐家の次男として誕生

土岐頼芸のイラスト

土岐頼芸

1501年(文亀元年)、「土岐頼芸」(ときよりのり)は美濃国(現在の岐阜県)の守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれました。

土岐政房の嫡男は、土岐頼芸より2歳年上の実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)。

土岐氏は、第56代天皇「清和天皇」を祖とする清和源氏の嫡流であり、室町幕府の政権運営にも関与した名門と言われています。

また、美濃国は701年(大宝元年)に定められた街道のひとつ「東山道」(とうさんどう)の要所であり、群雄割拠の戦国時代には多くの歴史的戦いの舞台となりました。

兄弟間における家督争いで敗北

土岐政房は、幼い頃より長男の土岐頼武よりも、次男の土岐頼芸を寵愛しており、結果的に実の兄弟間で熾烈な守護職争いへと発展していきます。また、守護代でもあった土岐氏の重臣・斎藤氏が衰退し、その座を狙う長井氏が台頭。重臣も、斎藤氏は土岐頼武派、長井氏は土岐頼芸派に分かれ、ついには実戦に突入することとなるのです。

初戦となった1517年(永正14年)の戦いでは、兄の土岐頼武が大勝、しかし翌年の1518年(永正15年)の戦いでは、土岐頼芸に軍配が上がります。勝った土岐頼芸は、兄を越前国(現在の福井県)に追放。しかし、土岐頼武も諦めることなく再び美濃に侵攻し、1519年(永正16年)に起こった3度目の争いで、土岐頼芸は敗北してしまうのです。

また同年、父の土岐政房が亡くなり、土岐頼武が美濃国守護に就任。土岐頼芸は、土岐頼武の居城「稲葉山城」(いなばやまじょう:のちの岐阜城[岐阜県岐阜市])から見下ろすことができる山城「鷺山城」(さぎやまじょう:岐阜県岐阜市)に追いやられ、不遇のときを過ごします。

実兄・土岐頼武を破り、美濃国守護に就任

1525年(大永5年)、土岐頼芸に起死回生の機会が訪れます。土岐家の重臣「長井長弘」(ながいながひろ)と、その家来「西村新左衛門尉」(にしむらしんざえもんのじょう:のちの長井新左衛門尉)らが、土岐頼芸を擁立し、挙兵。

この西村新左衛門尉は、僧から還俗(げんぞく:出家した僧が俗人に戻ること)して着々と出世した人物で、息子は「西村勘九郎」(にしむらかんくろう)と言いました。実は、この西村勘九郎こそ、のちに「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)なのです。

1530年(享禄3年)、土岐頼芸は長井氏の協力により、ついに土岐頼武を追放。1536年(天文5年)には、室町幕府からも正式な美濃守護として認められました。土岐頼芸は、守護の座を獲得するために協力した、長井氏や西村新左衛門尉を信用し、統治運営でも重用するようになります。

美濃の蝮こと斎藤道三の裏切りで没落

守護代に命じた斎藤道三による攻撃

斎藤道三

斎藤道三

土岐頼芸が美濃守護に就任したことは、兄・土岐頼武を支えていた斎藤氏の衰退も意味していました。

また、1538年(天文7年)に土岐頼芸の父・斎藤政房の時代から守護代を務めていた「斎藤利良」(さいとうとしなが)が死去したことで、守護代の斎藤氏は断絶。

土岐頼芸は、1533年(天文2年)、父・西村新左衛門尉の死去に伴い、家督を継いでいた息子の西村勘九郎に斎藤氏を継がせ、守護代に任命します。

西村勘九郎は、「斎藤新九郎利政」(さいとうしんくろうとしまさ)、のちに「斎藤秀龍」(さいとうひでたつ)と名乗り、次第に権力を増大させていき、遂には土岐頼芸とも敵対するようになるのです。

斎藤秀龍は、1542年(天文11年)、土岐頼芸の居城であった「大桑城」(おおがじょう:岐阜県山県市)を攻撃。土岐頼芸は、尾張国(現在の愛知県)に逃げ延びます。土岐頼芸は、「織田信長」の父親であり、尾張国の守護代「織田信秀」(おだのぶひで)に協力を要請。織田信秀の支援を受けて斎藤秀龍と和睦し、守護に復帰します。

11代続いた美濃国守護を手放し、土岐氏没落へ

なんとか守護に復帰した土岐頼芸でしたが、復帰から2年後の1547年(天文16年)、兄の土岐頼武の死去をきっかけに、再び斎藤秀龍による攻撃が始まりました。

土岐頼芸は再度、織田信秀に協力を要請しますが、織田氏と斎藤氏が和睦。斎藤新九郎利政の娘「帰蝶」(きちょう:通称・濃姫)が、織田信秀の息子・織田信長と結婚し、斎藤秀龍は、ますます勢力を拡大していくこととなります。また1549年(天文18年)、斎藤新九郎利政は入道し、斎藤道三と名乗りました。

そして、1552年(天文21年)、斎藤道三による3度目の大桑城攻めが始まると、土岐頼芸は美濃国を追放され、美濃守護として11代続いた土岐家は没落してしまったのです。

土岐頼芸の晩年

全国を流浪し、美濃国で死去

美濃国を出た土岐頼芸は、実の弟「土岐治頼」(ときはるより)を頼り、常陸国(現在の茨城県)へ身を寄せます。土岐治頼は、「江戸崎城」(えどさきじょう:茨城県稲敷市)の城主を務めており、土岐頼芸は、土岐家宗家の家宝や家系図をすべて土岐治頼に移譲。

そののちの足取りは、土岐頼芸の従兄弟であり、上総国(現在の千葉県)の「万喜城」(まんぎじょう:千葉県いすみ市)城主「土岐為頼」(ときためより)や、近江国(現在の滋賀県)の六角氏などに寄宿したとも伝わりますが定かではありません。

織田信長

織田信長

しかし、武田氏が治める甲斐国(現在の山梨県)に身を寄せていたところ、1582年(天正10年)織田信長により武田氏が滅亡。

土岐頼芸は、織田信長に捕らえられ、尾張国で蟄居の身となります。

そののち、土岐氏の旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)に迎えられ、美濃国に帰還。

稲葉一鉄が設けた寺「東春庵」(現在の法雲寺:岐阜県揖斐郡)で余生を過ごしますが、まもなく病気により81歳の生涯を終えました。

文武両道・土岐頼芸の佩刀「無銘 伝志津」

戦国随一とも言えるほどの策士であり、劇的な下剋上を成し遂げた斎藤道三の引き立て役となってしまったとも言える土岐頼芸ですが、自身も少年時代より戦を重ねた戦国武将

また、和歌にも通じ画才に優れ、特に鷹の絵を得意としていたと言います。「土岐洞文」(ときとうぶん)の印を持つ「鷹図」が現存しており、この土岐洞文は、土岐頼芸と同一人物とする説もあるのです。

文武両道とも言える土岐頼芸が佩用(はいよう:腰から下げること)したと伝わるが、美濃伝の「刀 無銘 伝志津」。美濃伝は、美濃国で南北朝時代に誕生し、戦国時代に繁栄した五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)の一派です。「志津」とは、名匠志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)のことで、大和伝相州伝を加味し、新しい美濃伝を創始した人物として知られています。

刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
73.3
所蔵・伝来
土岐頼芸
(ときよりのり)→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

土岐頼芸の歴史をSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「戦国武将一覧」の記事を読む


山中鹿之助(山中幸盛)の歴史

山中鹿之助(山中幸盛)の歴史
戦国時代に活躍した「山中鹿之助」(やまなかしかのすけ)とは、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の通称です。尼子家(あまごけ:山陰地方で活躍した戦国大名)再興のために尽力し、「毛利元就」(もうりもとなり)の山陰地方侵略に対して、勇猛に対抗しました。しかしその願いがかなわぬまま、悲劇の最期を遂げてしまったのです。忠誠心が強い山中鹿之助の生涯は、江戸時代から明治時代にかけて、講釈場(こうしゃくば:講談や軍談の解釈をする寄席)で人気を博していました。山中鹿之助の生涯や逸話などについてご紹介します。

山中鹿之助(山中幸盛)の歴史

佐久間信盛の歴史

佐久間信盛の歴史
「佐久間信盛」(さくまのぶもり)は、織田家の家中でも名門佐久間宗家の嫡男。2020年(令和2年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で「金子ノブアキ」さんが演じたことでも知られています。佐久間信盛は「織田信長」を幼いころからサポートし、戦いにおいても高い信頼を得ていました。しかしあることがきっかけで織田信長の怒りを買い、非業の最期を遂げます。この佐久間信盛の生涯や最期についてご紹介します。

佐久間信盛の歴史

北条氏政の歴史

北条氏政の歴史
「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠として発展した戦国大名、「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主です。同氏の勢力を拡大させることに尽力した北条氏政は、関東地方において、歴代当主の中で最も大きい版図を築き上げました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原の役」(おだわらのえき:別称[小田原征伐])により、北条氏政の代で後北条氏を滅亡させてしまうことに。そのため「愚将」と揶揄される一方で、領民に対して善政を敷いていたことから、「名君」とも評されています。北条氏政が本当はどんな人物であったのかが分かる逸話を交えつつ、その生涯についてご説明します。

北条氏政の歴史

松平忠長の歴史

松平忠長の歴史
江戸幕府3代将軍「徳川家光」と言えば、祖父である初代将軍「徳川家康」を崇拝し、江戸幕府の体制や将軍家の基盤を固めた人物。そんな徳川家光には「松平忠長」(まつだいらただなが)と言う弟がいます。徳川家光にとって、唯一の兄弟であった松平忠長ですが、徳川将軍家を悩ませる存在でもありました。一時は将軍後継として期待されるも、改易処分を下されてしまった松平忠長とは一体どのような人物だったのでしょうか。将軍の弟でありながら問題行動を連発した松平忠長の人生を見ていきます。

松平忠長の歴史

織田信雄の歴史

織田信雄の歴史
「織田信長」の息子には、「本能寺の変」で父とともに自害した「織田信忠」(おだのぶただ)と、対照的な人生を送った次男「織田信雄」(おだのぶかつ・のぶお)という武将がいます。織田信長から未来を期待されていた織田信忠に対し、織田信雄は親子の縁を切られそうになったり、2度も改易(かいえき:大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させてしまうこと)されたりと、織田信長の息子でありながら散々な武将人生を歩んでしまった人物です。その一方で、長生きした織田信雄は多くの子孫を残し、その血は明治維新に至るまで受け継がれていきました。さらに、そのなかには現在の皇室に繋がる家系も。後世に「愚将」と評価されてしまった織田信雄の人生を振り返りながら、織田信雄が残した子孫について見ていきます。

織田信雄の歴史

織田信行の歴史

織田信行の歴史
「織田信長」と言えば、圧倒的な力で「天下布武」(てんかふぶ:武力で天下を統一すること)を達成したイメージが強い武将です。しかし戦国武将として台頭するまでに苦戦していた時期もありました。そして、織田信長を長年苦しめていたのが実の弟である「織田信行」(おだのぶゆき)です。当初は兄弟で協力して領地経営をしていた2人ですが、次第に織田家の当主争いが勃発し、熾烈な戦いへと発展していくことに。今回は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも織田信長との兄弟バトルが話題となった織田信行について紹介します。

織田信行の歴史

豊臣秀長の歴史

豊臣秀長の歴史
農民から天下人へと昇りつめた「豊臣秀吉」には、陰で出世を支えた「豊臣秀長」(とよとみひでなが)という右腕的存在がいました。豊臣秀長は豊臣秀吉の3歳下の弟で、政務や軍事面で兄を補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献した人物です。天下を目指して武力でひたすら突き進む兄の傍で、豊臣秀長は領地を守り、諸大名との間合いを取り持つなど、細やかで献身的なサポートに徹しました。豊臣秀吉にとって必要不可欠な存在だった豊臣秀長の人生を振り返り、天下人を支えた弟がどのような武将だったのか見ていきます。 天下統一という偉業を成し遂げた豊臣兄弟の奇跡を豊臣秀長の目線で描いたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」についてご紹介します。 これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。

豊臣秀長の歴史

豊臣秀次の歴史

豊臣秀次の歴史
豊臣秀吉の死後、豊臣家は晩年に生まれた実子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が当主となっていましたが、もともとは、別の人物が後継者候補となっていたことをご存知でしょうか。実子に恵まれなかった豊臣秀吉には7人の養子がおり、そのなかで「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)という人物が2代目関白となり、豊臣家を相続していました。しかし、実子の豊臣秀頼が生まれたことで、豊臣家を継いだ豊臣秀次の運命は大きく変わってしまうのです。今回は、豊臣政権崩壊のきっかけとなった「秀次事件」でも知られる豊臣秀次について紹介します。

豊臣秀次の歴史

本多忠政の歴史

本多忠政の歴史
「本多忠政」(ほんだただまさ)は、三河国(現在の愛知県東部)の譜代大名「本多忠勝」(ほんだただかつ)の嫡男です。戦上手の偉大な父・本多忠勝の影に隠れがちですが、才智に優れて勇猛で、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」からの信頼も厚かった人物。桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石の藩主を務め、後世に評価される良政を行いました。本多忠政の生涯や愛刀など、本多忠政の歴史について詳しくご紹介します。

本多忠政の歴史

注目ワード
注目ワード