「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道三」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。
土岐政房は、幼い頃より長男の土岐頼武よりも、次男の土岐頼芸を寵愛しており、結果的に実の兄弟間で熾烈な守護職争いへと発展していきます。また、守護代でもあった土岐氏の重臣・斎藤氏が衰退し、その座を狙う長井氏が台頭。重臣も、斎藤氏は土岐頼武派、長井氏は土岐頼芸派に分かれ、ついには実戦に突入することとなるのです。
初戦となった1517年(永正14年)の戦いでは、兄の土岐頼武が大勝、しかし翌年の1518年(永正15年)の戦いでは、土岐頼芸に軍配が上がります。勝った土岐頼芸は、兄を越前国(現在の福井県)に追放。しかし、土岐頼武も諦めることなく再び美濃に侵攻し、1519年(永正16年)に起こった3度目の争いで、土岐頼芸は敗北してしまうのです。
また同年、父の土岐政房が亡くなり、土岐頼武が美濃国守護に就任。土岐頼芸は、土岐頼武の居城「稲葉山城」(いなばやまじょう:のちの岐阜城[岐阜県岐阜市])から見下ろすことができる山城「鷺山城」(さぎやまじょう:岐阜県岐阜市)に追いやられ、不遇のときを過ごします。
1525年(大永5年)、土岐頼芸に起死回生の機会が訪れます。土岐家の重臣「長井長弘」(ながいながひろ)と、その家来「西村新左衛門尉」(にしむらしんざえもんのじょう:のちの長井新左衛門尉)らが、土岐頼芸を擁立し、挙兵。
この西村新左衛門尉は、僧から還俗(げんぞく:出家した僧が俗人に戻ること)して着々と出世した人物で、息子は「西村勘九郎」(にしむらかんくろう)と言いました。実は、この西村勘九郎こそ、のちに「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)なのです。
1530年(享禄3年)、土岐頼芸は長井氏の協力により、ついに土岐頼武を追放。1536年(天文5年)には、室町幕府からも正式な美濃守護として認められました。土岐頼芸は、守護の座を獲得するために協力した、長井氏や西村新左衛門尉を信用し、統治運営でも重用するようになります。
土岐頼芸が美濃守護に就任したことは、兄・土岐頼武を支えていた斎藤氏の衰退も意味していました。
また、1538年(天文7年)に土岐頼芸の父・斎藤政房の時代から守護代を務めていた「斎藤利良」(さいとうとしなが)が死去したことで、守護代の斎藤氏は断絶。
土岐頼芸は、1533年(天文2年)、父・西村新左衛門尉の死去に伴い、家督を継いでいた息子の西村勘九郎に斎藤氏を継がせ、守護代に任命します。
西村勘九郎は、「斎藤新九郎利政」(さいとうしんくろうとしまさ)、のちに「斎藤秀龍」(さいとうひでたつ)と名乗り、次第に権力を増大させていき、遂には土岐頼芸とも敵対するようになるのです。
斎藤秀龍は、1542年(天文11年)、土岐頼芸の居城であった「大桑城」(おおがじょう:岐阜県山県市)を攻撃。土岐頼芸は、尾張国(現在の愛知県)に逃げ延びます。土岐頼芸は、「織田信長」の父親であり、尾張国の守護代「織田信秀」(おだのぶひで)に協力を要請。織田信秀の支援を受けて斎藤秀龍と和睦し、守護に復帰します。
なんとか守護に復帰した土岐頼芸でしたが、復帰から2年後の1547年(天文16年)、兄の土岐頼武の死去をきっかけに、再び斎藤秀龍による攻撃が始まりました。
土岐頼芸は再度、織田信秀に協力を要請しますが、織田氏と斎藤氏が和睦。斎藤新九郎利政の娘「帰蝶」(きちょう:通称・濃姫)が、織田信秀の息子・織田信長と結婚し、斎藤秀龍は、ますます勢力を拡大していくこととなります。また1549年(天文18年)、斎藤新九郎利政は入道し、斎藤道三と名乗りました。
そして、1552年(天文21年)、斎藤道三による3度目の大桑城攻めが始まると、土岐頼芸は美濃国を追放され、美濃守護として11代続いた土岐家は没落してしまったのです。
美濃国を出た土岐頼芸は、実の弟「土岐治頼」(ときはるより)を頼り、常陸国(現在の茨城県)へ身を寄せます。土岐治頼は、「江戸崎城」(えどさきじょう:茨城県稲敷市)の城主を務めており、土岐頼芸は、土岐家宗家の家宝や家系図をすべて土岐治頼に移譲。
そののちの足取りは、土岐頼芸の従兄弟であり、上総国(現在の千葉県)の「万喜城」(まんぎじょう:千葉県いすみ市)城主「土岐為頼」(ときためより)や、近江国(現在の滋賀県)の六角氏などに寄宿したとも伝わりますが定かではありません。
しかし、武田氏が治める甲斐国(現在の山梨県)に身を寄せていたところ、1582年(天正10年)織田信長により武田氏が滅亡。
土岐頼芸は、織田信長に捕らえられ、尾張国で蟄居の身となります。
そののち、土岐氏の旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)に迎えられ、美濃国に帰還。
稲葉一鉄が設けた寺「東春庵」(現在の法雲寺:岐阜県揖斐郡)で余生を過ごしますが、まもなく病気により81歳の生涯を終えました。
戦国随一とも言えるほどの策士であり、劇的な下剋上を成し遂げた斎藤道三の引き立て役となってしまったとも言える土岐頼芸ですが、自身も少年時代より戦を重ねた戦国武将。
また、和歌にも通じ画才に優れ、特に鷹の絵を得意としていたと言います。「土岐洞文」(ときとうぶん)の印を持つ「鷹図」が現存しており、この土岐洞文は、土岐頼芸と同一人物とする説もあるのです。
文武両道とも言える土岐頼芸が佩用(はいよう:腰から下げること)したと伝わる刀が、美濃伝の「刀 無銘 伝志津」。美濃伝は、美濃国で南北朝時代に誕生し、戦国時代に繁栄した五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)の一派です。「志津」とは、名匠「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)のことで、大和伝に相州伝を加味し、新しい美濃伝を創始した人物として知られています。