「栗原彦三郎」(くりはらひこさぶろう)は、明治時代から昭和時代前期にかけて活動した人物です。雑誌編集者の他、政治家、また刀匠としても活動し、日本刀界においては日本刀廃絶の危機を2度も救ったことから「現代刀保存の立役者」として知られています。
また、栗原彦三郎は「日本刀及日本趣味」(にほんとうおよびにほんしゅみ)と言う月刊雑誌を創刊し、日本刀と「日本文化」の素晴らしさを国内外へ向けて発信しました。栗原彦三郎とはどのような人物で、また栗原彦三郎が創刊した月刊雑誌「日本刀及日本趣味」とは、どのような内容か。ここでは、その概要をご紹介します。
日本刀は明治維新に伴って行われた「廃刀令」、及び太平洋戦争後にGHQ(連合国最高司令官総司令部)によって行われた「昭和の刀狩り」と言う2度の出来事によって、廃絶の危機に瀕しました。
1876年(明治9年)の廃刀令により、全国の刀匠の数は激減。このとき、「栗原彦三郎」は「日本刀伝習所」を設立し、刀匠のサポートや育成を試みますが、「日本刀伝習所」は閉鎖に追い込まれてしまいます。のちに東京・赤坂の自宅敷地に「日本刀鍛錬伝習所」を設立。日本刀復興に向けて、刀匠を育成すべく再スタートさせたのです。
その結果、意欲ある者が多く訪れ、のちに開設された「日本刀学院」と合わせて150人を超える刀匠を育てることに成功しました。また、栗原彦三郎は太平洋戦争における軍刀需要にもかかわっています。しかし、栗原彦三郎が目指したのは、古来受け継がれてきた伝統を継承し、担い手を育成することだったため、「大量生産されるだけの武器」と成り果てた軍刀を作刀することは、栗原彦三郎の信条に反することでした。
しかし、そのような信条も国家存続の危機の前では通用しません。栗原彦三郎は、自身の信条を押さえて軍刀を作刀する道を選んだのです。太平洋戦争の軍刀需要によって、多くの刀匠が誕生しましたが、終戦後に刀剣界へ訪れたのは2度目の廃絶の危機でした。
GHQによる日本の武装解除、通称昭和の刀狩り。これによって、刀剣を含むあらゆる武器は接収され、焼却・廃棄されることになります。また、戦後発令された「兵器・航空機等の生産制限に関する件」により、日本刀の作刀も制限されたのです。
しかし、栗原彦三郎は日本刀復興を諦めませんでした。はじめに行ったのは、「サンフランシスコ講和条約」の締結記念として要人へ贈るための「講和記念刀」と、主要な神社へ奉納するための「奉納刀」の作刀許可を得ること。この行動が、のちに日本刀を「美術品」として製造、所持することに繋がります。
栗原彦三郎は高齢の体で、講和記念刀の作刀協力を全国の刀匠に願うために奔走。このとき、栗原彦三郎は約1ヵ月をかけて自らの足で各県へ移動したと言います。1952年(昭和27年)、全国行脚を終えた栗原彦三郎は脳梗塞で倒れ、2年後の1954年(昭和29年)に永眠。
栗原彦三郎の熱い信念はそのあと、作刀事業に携わった多くの刀匠達に受け継がれ、現代刀は「美術刀剣」として復活を果たすのです。
「日本刀及日本趣味」は、日本人が古くから大切にしてきた刀剣や「茶器」、また「日本の城郭建築」などの「日本文化」の素晴らしさを、今一度、日本国民へ認識させるため、また外国の人びとへ広く知らしめるために出版されました。
当時、日本は明治時代に入り、外国から文芸作品、映画、音楽、美術品などが流入。当時の日本人にとって、それらの「異文化」は刺激的であり、革命的な存在だったのです。
そのなかで栗原彦三郎は、いつしか日本人は自国で生み出された日本文化に興味が薄れてしまうのではないかと危機感を抱くようになりました。そうして出版されたのが、日本文化の素晴らしさを伝える月刊雑誌日本刀及日本趣味です。
日本刀及日本趣味は、日本各地の名跡を巡る他、刀剣の製造に関する研究内容などが掲載されていますが、特に「①刀剣知識」、「②新作刀批判」、「③日本趣味」、「④日本夜話」の4節は、日本刀と日本文化を深く掘り下げて書かれているのが特徴。
ここでは、それぞれの概要をご紹介します。
刀剣知識は、刀剣に造詣の深い人びとが、刀剣の原料となる鉄について語ったり、刀剣と言う言葉の由来について考察したりするコーナー。毎回、筆者が異なるのが特徴です。創刊号で刀剣の原料となる鉄や鋼について語ったのは「岩崎航介」(いわさきこうすけ)。
岩崎航介は、日本刀を通じて刃物を科学的視点から研究し、その生涯を捧げた人物として知られています。刃物の生産地として有名な新潟県三条市の刃物問屋で生まれ育ちましたが、日本が第一次世界大戦後にドイツとの刃物商戦で敗れた結果、家業が大きく傾いたことがきっかけで、刀剣・刃物研究に目覚めました。
ドイツ・ゾーリンゲンは刃物製造において、世界的に高いシェアを占める都市です。岩崎航介は、日本製の刃物が海外製の刃物に勝つためには、日本で生産された刀剣・刃物の特異な点と利点を知る必要があると考えました。
そこで着目したのが、「日本刀が誇る切れ味の良さ」。なぜ日本刀は、他国の刀剣と比較して、ここまで切れ味に優れているのか。それを知るために刀剣の秘伝書を読んだり、実際に刀匠へ弟子入りしたりして、刀の研ぎ方や鍛法を学びました。
日本刀及日本趣味の創刊号では、岩崎航介が研究した結果得られた情報や、将来の刀剣研究家に「古刀の完全再現」を託す内容などが語られています。
新作刀批判は、研師・刀剣研究家である「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)が、刀剣展覧会の入選作品について忌憚なく講評するコーナー。
本阿弥光遜は、「刀剣界の権威」として名高い人物です。創刊号の新作刀批判では、はじめに本阿弥光遜が前年の刀剣展覧会について以下のような見解を述べました。
「刀剣とは、古刀のように勇壮で実用向きの姿と性能を持つべきだ。現在作られている刀剣の多くは、本来あるべき豪壮な姿とはかけ離れた、細身で軟弱な形格好が多い。しかし、昨年の展覧会では技能も大幅に進歩し、かつての刀剣のような品質を持つ作品が多くなっていた。一方で、地鉄(じがね)や刃文(はもん)を美しく見せようとして、それがかえって刀匠の魂を削いでいるように見受けられた。私が論じる講評は、私が思うままに書くため、遠慮も世辞もなく、1振1振を冷静に判断するのみであることを理解しておいてほしい」。
創刊号以降、本阿弥光遜は新作刀批判において、歯に衣着せぬ評価・感想を掲載しました。本阿弥光遜の講評は、現代の刀剣鑑賞でも参考にできる内容となっています。
日本趣味は、茶道や茶器をはじめとした「日本に古くからある日本文化」の歴史や変遷などを紹介するコーナー。
創刊号では、画家・彫刻家である「田代二見」(たしろふたみ)が本コーナーの目的について、「多様な西洋文化が日本へ流入したことで、古くからあった日本文化が蔑ろにされている。だからと言って、一概に西洋文化が悪いと決め付けるのではなく、西洋文化と日本文化をそれぞれに見て、優れた点を見出すことで双方の文化を発展させることができる」と述べました。
創刊号の日本趣味は、栗原彦三郎の妻である「栗原梅子」が、植物の「蘭」(らん)に着目して、蘭の魅力や栽培のコツを掲載。
栗原梅子は、はじめは夫・栗原彦三郎が蘭の手入れなどをしていたこと、自分自身は庶民の出であり、特別な知識は持っていなかったことを説明し、なぜ自分が蘭の栽培を行い、その魅力に気付いたかを説明しました。栗原彦三郎は当時、朝早く起きて日本刀の鍛錬を弟子達に教え、日本刀を研究し、また朝食前後には蘭の手入れをしていました。
しかし、雑誌の原稿を書いたり、「足尾銅山鉱毒事件」のために名士を訪問したり、毎日2時間の読書を行う等、次第に忙しくなっていったと言います。そうして、時間がない夫に代わり、蘭の手入れを任されたのが妻・栗原梅子でした。
栗原彦三郎からは、給水の仕方や葉の掃除、肥料のやり方などを教わっただけでしたが、それでも上手に蘭を栽培することができたと言います。栗原梅子は、鉢を替えるときだけは人の手を借りましたが、100鉢以上の蘭を栽培。約20年に亘って蘭の手入れを続けた結果、専門家からも褒められるほどの腕前となりました。
創刊号では蘭の栽培方法に加えて、蘭の種類や購入する際の注意点などが細かく説明されており、また第3巻では、施肥(しひ:植物に肥料を与えること)の時期や給水の頻度、蘭を置く場所や湿度の注意点、害虫駆除の仕方などを掲載。
日本趣味ではこの他にも、茶道や名物茶器の紹介、埴輪(はにわ)の研究、城郭建築の特徴、漆器をはじめとした日本製家具の歴史や魅力などが、当時の文化思想と共に語られています。
日本夜話は、日本で活躍した著名人の歴史と、その人物にまつわる刀を紹介するコーナー。創刊号では、政治家で愛刀家の「田中正造」の経歴や、田中正造が所有していた愛刀にまつわる逸話が紹介されています。
田中正造は、鎌倉時代中期に山城国(現在の京都府)で活躍した刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の「鎧通し」(よろいどおし)や、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工「来国光」(らいくにみつ)の短刀など、著名な刀工の作を多く所蔵していました。そのなかでも、特に印象的なエピソードを持つのが「虎徹」の大脇差(おおわきざし)です。
虎徹は、江戸時代初期に活躍した刀工で、切れ味や質実剛健な姿から、愛刀家や幕末志士達から高い人気を集めましたが、一方でその切れ味の良さが原因となり、度々トラブルが起きています。田中正造が江刺県花輪支庁(えさしけんはなわしちょう:現在の秋田県鹿角市[かづのし])の官吏となった翌年のこと、田中正造の上司「木村新八郎」が何者かに暗殺されると言う事件が起きました。木村新八郎が暗殺された日、村落の飢饉を救うために、支庁に響き渡るほどの抗議を行った田中正造は真っ先に疑われ、犯行に使用されたのが田中正造の愛刀虎徹だったのではないかと嫌疑をかけられるのです。
木村新八郎が暗殺された1ヵ月後、田中正造は木村新八郎暗殺の疑いによって約3年間、投獄されます。冤罪を訴え続けた田中正造を救ったのは、木村新八郎亡きあとに田中正造が飢饉の救済措置を行った村民でした。
村民の証言を聴いた裁判長は心を動かされ、また縣令(けんれい:県の長官)の「島惟精」(しまいせい)も田中正造の厚い愛国心に胸を打たれて、田中正造はついに無罪放免となります。嫌疑をかけられた虎徹は、そのあとも田中正造の最愛の刀として大切にされました。
日本夜話ではこの他にも、愛刀家として知られる「明治天皇」にまつわる話や、「明治神宮」の奉納刀「来国俊」(らいくにとし)に関する出来事、また戦国武将「宇喜多秀家」と縁が深い短刀「鳥飼国次」(とりかいくにつぐ)など、様々なエピソードが紹介されています。
「日本刀及日本趣味」18冊表紙一覧