「綺堂物」と呼ばれた新歌舞伎の戯曲、『半七捕物帳』の小説などを執筆した岡本綺堂(おかもときどう)。明治末期に興った新歌舞伎運動の中心人物のひとりでもあり、捕物帳物を創始した綺堂は、戯曲と小説とで明治人の視点から日本刀を描きました。
岡本綺堂は、東京日日新聞社(現・毎日新聞社)などで新聞記者として働く傍ら、小説や歌舞伎の戯曲を発表していました。新歌舞伎運動が高まる中、新派劇の創始者・川上音二郎から戯曲を依頼されます。このとき執筆した市川左團次(2代目)主演の通し狂言『維新前後』(1908年 東京明治座初演)で、その名が知られました。
左團次のお家芸「杏花戯曲十種」のうち、①『修禅寺物語』、②『佐々木高綱』、③『鳥辺山心中』、④『尾上伊太八』、⑤『番町皿屋敷』、⑥『新宿夜話』の6種は、綺堂作です。「綺堂物」という言葉も生まれるほどの人気となった綺堂は新聞社を退社し、作家を専業とします。
『鳥辺山心中』(1915年 本郷座初演)は、江戸時代前期、徳川幕府第3代将軍・徳川家光のお伴で上洛した旗本・菊地半九郎と祇園の遊女・お染との悲恋物語です。こちらは実説とも巷説とも言われています。
綺堂は、半九郎がお染のために家宝の刀を売る場面を描き、半九郎の愛刀を、舞台版では備前物、小説版では相州物としました。豊臣秀吉・徳川将軍家のもとで刀鑑定の権威となった本阿弥家は、明治時代末期以降、「五箇伝」として、山城伝・大和伝・備前伝・相州伝・美濃伝と日本刀を分類・整理しました。
備前物は、平安時代中期に興った備前国の刀工一派による日本刀。相州物は鎌倉時代以降、武家時代の到来とともに興った相模国の刀工一派による日本刀です。
「半九郎は金が要る。二百両の金を貸してくれぬか。といっても、お身も旅先でそれだけの貯えもあるまい。お身は京の刀剣店に知るべがあると聞いている。おれの刀は相州物だ。その刀剣店に相談して、二百両に換えてはくれまいか」
『鳥辺山心中』より
綺堂は新歌舞伎を発表する一方で、『半七捕物帳』(1917~1937年『文芸倶楽部』他断続連載)を執筆します。アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズを読んだことが、この作品を生み出すヒントとなりました。
『半七捕物帳』は、幕末に江戸の岡っ引きとして働いた半七老人の回想を、明治時代の新聞記者の青年が聞き書きするというスタイルで描かれています。作品は連載中に尾上菊五郎(6代目)主演で歌舞伎化されるなど人気作となりました。
『半七捕物帳』全69作のうち、「吉良の脇差」の回では、吉良上野介義央の脇差が登場します。半七は、飼葉屋の直七と共に話を聞きます。吉良の脇差によって命を落とした魚屋の鶴吉の姉の事件です。
「(中略)それは刀が悪いのではなく、差し手が悪いのだ。吉良が悪いから討たれたのだ。おれは吉良のような悪い事はしない、吉良の良い所にあやかって四位の少将にでも昇進するのだなぞと仰しゃって、とうとうその脇差を自分の指料になさいました。それから四、五年のあいだは何事もなかったのですが、図らずも今度のようなことが出来(しゅったい)しまして、殿さまも姉もその脇差で殺されました。姉はふだんから其の脇差のことを気にしていまして、吉良の脇差なんぞは縁起が悪いと云っていましたが、やっぱり虫が知らせたのかも知れません」
「刀の祟りということは、昔からよく云いますが、吉良の脇差なども良くないのでしょうね」と、直七は仔細らしく云った。
「吉良の脇差も村正と同じことかな」と、半七はほほえんだ。
「吉良の脇差」『半七捕物帳』
綺堂は比喩に、伊勢国の刀工・村正派の刀を用いました。歌舞伎や講談でよく知られた徳川家に不幸をもたらしたという妖刀伝説を持つ刀です。新歌舞伎運動をけん引した綺堂は、創作にリアリティをもたらす物として日本刀をうまく取り入れました。