戯曲『関の弥太ッペ』『瞼の母』など「股旅物」と呼ばれる多数の人気戯曲を遺した長谷川伸(はせがわしん)。武士を描いた多数の小説も遺した長谷川は、博徒も浪人も武士も刀の描写を違えども、「義」を描き続けました。
幼くして母親と別れ、小学校を中退した長谷川は、渡世人もかかわる世界など、様々な職を転々としました。
こうした経験を背景に、『沓掛時次郎』発表後も、『股旅草鞋』(またたびわらじ)・『関の弥太ッペ』・『中山七里』・『瞼の母』・『一本刀土俵入り』・『暗闇の丑松』・『刺青奇偶』(いれずみちょうはん)など、渡世人を主人公とした戯曲を数多く発表。長谷川の作品は「股旅物」と称されていきます。
これらの戯曲は、尾上菊五郎(6代目)、守田勘弥(13代目)らが初演しています。
長谷川は、自身初の大手新聞の連載で、浪人を主人公とした『紅蝙蝠』を執筆します(1930~1931年『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』連載)。江戸時代中期、出羽国高畠藩・織田家のお家騒動(明和事件)を素材にしました。
主人公は、織田家を脱藩し、浪人となった戸波長八郎です。織田家の姫で、長八郎とは乳兄妹のおちいは、織田家の家臣・藍坂家と婚礼の話が進んでいたものの破談になり、老中・田沼意次の側室として献上される話が進みます。
破談は藍坂家のお家再栄のためとはいえ、おちいを心の底で慕い、気持ちを推し量った長八郎は、許嫁だった藍坂帯刀に無等流の剣の腕で勝負を挑み続けるのです。
刀を持つ武士と浪人。立場は違えども、それぞれの「義」を長谷川は描きました。
「割腹しろ帯刀。さすがにこの上は斬りたく思わない」
と、長八郎、刀の血を切尖から垂らせながらいった。
帯刀は咽喉の疵に手を当てた。指の股から真紅の紐が走っている。「馬鹿者め」
しわがれた声で帯刀、低く罵った。「なんだと、こいつ」
「素浪人の分際ではわからぬ大名の、大名の心持ち――吊鐘の中の蝙蝠めが。この、馬鹿者に、帯刀、負けた、フフ」
がッくりと頭を垂れ、前に伏した。『紅蝙蝠』より
その後長谷川は、歴史小説・史伝にも力を入れていきます。
『荒木又右衛門』(1936~1937年『都新聞』連載)、単行本化の際に『相楽総三とその同志』と改題した『江戸幕末史』(1940~1941年『大衆文藝』連載)などを執筆します。
『相楽総三とその同志』では、以前に発表した相楽が率いた赤報隊の一員を主人公とした小説を反故にするほど、資料性の高い内容を目指しました。
『荒木又右衛門』では、歌舞伎や講談で36 人斬りの剣豪として描かれることの多かった江戸時代初期の剣客・荒木又右衛門(郡山藩剣術指南役)の、義を重んじたために苦悩する姿を描きだしました。
又右衛門はさっき、甚左衛門を討ち果たしたとき執った位取りと、今はまったく違い、西寄りに日を背に負って闘うべき時刻となったのを知っていて、そのように数馬を絶えず導いた。
「数馬ッ、累年の怨敵をいつまでも仕止めぬぞ!」
雷音に叱りつけ、また、
「又右衛門、これにあれば、助太刀、いたさぬぞッ」また、
「数馬、討てや。討て討て!」
と、満面に朱を注いで叱責した。『荒木又右衛門』
長谷川にとって刀は、義を重んじる象徴としてありました。