古来、皇室と刀剣は密接なかかわりを持ち、近代では「明治天皇」が愛刀家として最もよく知られています。その跡を継いだ「大正天皇」もまた刀剣を愛してやまない人物でありましたが、生誕時より病弱であり、在位期間も短かったことから、愛刀家の一面については広く知られているとは言えません。そんな大正天皇にゆかりのある刀剣のなかでも、とりわけ個性的な特徴を備えた「流星刀」(りゅうせいとう)と、戦国武将にまつわる逸話を持つ「岡田切」(おかだぎり)を中心に掘り下げ、大正天皇と稀有な刀剣との縁にふれていきます。
「流星刀」(りゅうせいとう)は、その名が示す通り、流星である鉄隕石から作刀された日本刀です。鉄隕石とは、鉄・ニッケル合金からなる隕石で、まだ金属の精錬技術を持たなかった古代、人類が最初に使用した金属と言われています。
日本で発見されたこの鉄隕石を用いて日本刀を作刀しようと思い立ったのが、明治時代の外交官であり化学者でもあった「榎本武揚」(えのもとたけあき)です。榎本武揚が鉄隕石から作らせた日本刀の1振は、のちに大正天皇となる当時の皇太子「明宮嘉仁親王」(はるのみやよしひとしんのう)へ成年の奉祝として献上されました。
なぜ榎本武揚は、鉄隕石から日本刀を作ろうと考えたのでしょうか。そして原材料としてどのような鉄隕石が使用されたのか、詳しく見ていきましょう。
幕末の旧幕府軍と新政府軍が衝突した「戊辰戦争」の終盤、旧幕府軍は蝦夷地(現在の北海道)へ敗走し、その地で「蝦夷共和国」を創設。ここで総裁に選ばれたのが榎本武揚でした。
「箱館戦争」(現在の北海道函館市)で敗北したのち、東京で2年半投獄された榎本武揚でしたが、新政府軍の「黒田清隆」(くろだきよたか)らの力添えにより助命され、明治政府に仕えることとなります。
明治政府では駐露特命全権公使としてロシアとの交渉にあたっていた榎本武揚は、サンクトペテルブルクに赴任していたとき、ロシア皇帝の秘宝の中に鉄隕石から作刀された刀剣があることを知りました。これにいたく感動した榎本武揚は、いつかは自分も鉄隕石で作刀された日本刀を手にしてみたいという夢を描きます。そんな榎本武揚が出会った鉄隕石が、「白萩隕鉄1号」(しらはぎいんてついちごう)だったのです。
白萩隕鉄1号が発見されたのは、1890年(明治23年)のこと。富山県にある上市川(かみいちがわ)の上流で、漬物石を探していた人の手によって採取されました。
発見者は漬物石として使っていたものの、サイズの割に重すぎることを不思議に思い調査を依頼。農商務省地質調査所の「近藤会次郎」が分析にあたり、鉄隕石であることが判明したことから、発見された白萩村(現在の富山県中新川郡上市町)にちなみ、白萩隕鉄1号と名付けられました。
この一報を受けた榎本武揚は、自費で白萩隕鉄1号を購入します。白萩隕鉄1号の成分は大半が鉄で、重さは22.7kgでした。
そして白萩隕鉄1号の発見から2年後の1892年(明治25年)には、同じ上市川で「白萩隕鉄2号」が見付かっています。
1898年(明治31年)12月、流星刀のなかでも最も美しい長刀1振が、当時皇太子であった大正天皇へ成年の奉祝として献上されました。
榎本武揚は流星刀の作刀にあたり、はじめから明宮嘉仁親王への奉献を意識していたとされ、成年の年に御祝儀として献上できたことは偶然ではないとしています。
流星刀5振のうち、もう1振の長刀は榎本武揚が設立にかかわった「東京農業大学」(東京都世田谷区)へ寄贈。短刀の1振は子孫によって白萩隕鉄の飛来地である「富山市科学文化センター」(現在の富山市科学博物館:富山県富山市)へ寄贈され、別の1振は北海道小樽市の「龍宮神社」へ奉納されました。短刀のもう1振は、戦時中に行方不明になったと伝えられています。
「岡田切」は、鎌倉時代中期に備前国(現在の岡山県)で活躍した「福岡一文字派」の刀工「吉房」(よしふさ)によって鍛えられた太刀です。もともと「織田信長」の愛刀でしたが、次男の「織田信雄」(おだのぶかつ)が継承しました。
岡田切という号は、織田信雄の家老「岡田重孝」(おかだしげたか)に由来し、そこには「小牧・長久手の戦い」の趨勢(すうせい)を左右するひとつの逸話がかかわっています。ひとりの家臣の名が、名刀の号に表されることは極めて稀で、そういった意味でも個性的な日本刀であると言えるでしょう。
戦国時代に名付けられ、明治時代に明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)へ献上された岡田切とは、どのような日本刀なのでしょうか。
1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」のあと、織田信長の後継者となることを画策した織田信雄でしたが、同じく後継者の座を狙う「豊臣秀吉」に阻まれて上手くいきません。そこで織田信雄は「徳川家康」に接近して同盟を結びました。
豊臣秀吉との戦いが避けられぬ情勢となった小牧・長久手の戦いの直前、織田家の岡田重孝ら3人の家老に豊臣秀吉との内通の疑いが生じます。織田信雄は岡田重孝をはじめとする家老達を自身の居城である「伊勢長島城」(現在の三重県桑名市)へ呼び出し、隙を見て斬り伏せてしまいました。その際に用いられたのが、吉房作の太刀であり、誅殺された岡田重孝にちなんで岡田切と名付けられたのです。
そして小牧・長久手の戦いでは、織田信雄は誅殺した家老達の一族から造反されることになります。これらの造反は、戦いの行方に少なからぬ影響をもたらしました。戦いは長期に及び、領土の多くを豊臣秀吉軍に占領された織田信雄は、同盟相手の徳川家康に断りなく豊臣秀吉と和睦。豊臣秀吉と戦う大義名分を失った徳川家康も撤兵し、天下の情勢は豊臣政権樹立へと大きく動いていったのです。
日本刀にも造詣の深かった大正天皇は、自ら刀工へ太刀の作刀を命じ、旧公家などへ下賜されることもありました。それらの太刀は、高位の象徴として朝廷や皇族の宮中儀礼に用いられたのです。
この章では、大正天皇より賜り、旧公家と皇族に伝えられた貴重な太刀2振をご紹介します。
本太刀「飾太刀 銘 大正聖帝御即位記念 帝室技芸員 月山貞一 皇命依謹作(花押)」は、大正天皇の命を受けた刀工「月山貞一」(がっさんさだかず)が、奈良時代から平安時代初期の直刀を模して鍛えた飾太刀。即位記念として、大正天皇より旧公家が賜り一族に伝えられました。
月山貞一は、1906年(明治39年)4月、71歳のときに「宮本包則」(みやもとかねのり)と共に「帝室技芸員」に選ばれ、宮内省御用鍛冶も務めた名工です。明治天皇の軍刀などを手掛けたのをはじめ、皇族や著名人の刀剣も数多く鍛えています。
本太刀は、佩裏の年紀銘に「大正五年七月吉日」とあることから、月山貞一の晩年の作品であることが分かりますが、その見事な出来栄えには瞠目する他ありません。
本太刀の拵(こしらえ)は、螺鈿梨子地蒔絵鞘(らでんなしじまきえさや)で仕立て、柄や足金物(あしかなもの:太刀を腰から吊るすために用いる金具)にはメノウやヒスイなどの宝石が埋め込まれた豪華な作りです。公家・華族が佩刀するにふさわしい気品漂う1振となっています。
「太刀 銘 助久」は、鎌倉時代に備前国福岡を本拠地とした福岡一文字派の刀工「助久」(すけひさ)が作刀した太刀。大正天皇より、第3皇男子の「高松宮宣仁親王」(たかまつのみやのぶひとしんのう)へ下賜された1振です。現在は、「京都国立博物館」(京都府京都市東山区)が所蔵しています。
助久は福岡一文字派のなかでも、最も華やかな刃文を焼いたひとりとして知られ、本太刀においても板目肌に乱映りが白く立つ地鉄に、丁子乱れ(ちょうじみだれ)と重花丁子(じゅうかちょうじ)が交じり合う刃文が印象的です。
腰反りが強い古備前風の太刀姿にも、同じ備前国の「長船派」(おさふねは)と共通する鎌倉時代の特徴がよく表れています。