五箇伝以外の代表的な名工

寛文新刀
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寛文新刀 寛文新刀
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安土桃山時代後期から江戸時代前期にあたる1596~1780年(慶長元年~安永9年)の間に作刀された日本刀を「新刀」と呼び、そのなかでも1637年(寛永14年)に起こった「島原の乱」以降の平和な時代に活躍した刀工とその作品を「寛文新刀」(かんぶんしんとう)と言います。寛文新刀とは、どのような日本刀なのか、主な特徴と代表的な刀工の作品をご紹介。寛文新刀に焦点を当てると、江戸時代前期の時代背景や武士が求める日本刀の流行も見えてきます。

日本刀の需要が増した江戸時代前期

太平の世に日本刀が求められた理由

大小二本差し(つけたし)

大小二本差し

徳川幕府の政治体制が整えられた江戸時代前期、武士の大小差しである「打刀」(うちがたな:とも)と「脇差」(わきざし)の差料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀)の寸法が改めて規定されました。

また、武士ではない町人などには打刀の帯刀(たいとう)は認められなかったものの、届出があれば旅行や夜間外出時の護身用として脇差の携行は許されたため、武士と同じく差料の寸法が決められることになります。

このような社会的背景により、日本刀に対する需要が増え、将軍のお膝元である江戸には多くの刀工が集まりました。江戸は、江戸時代以前から鍛刀が盛んに行われていた美濃国(現在の岐阜県南部)や越前国(現在の福井県北東部)、京都大坂(現在の大阪府)と並んで、新刀期の一大生産地となったのです。

明暦の大火によりさらに需要が増大

1657年(明暦3年)に起こった「明暦の大火」は、日本刀需要の増大に拍車をかけました。100,000人が犠牲になったとされるこの大火災では、武家屋敷をはじめとする江戸の町の大半を焼き尽くしたばかりでなく、「江戸城」(現在の東京都千代田区)も西の丸を残して天守から本丸まで焼失したと伝えられています。このため、江戸城に保管されていた数多くの名刀が被災。さらに大名屋敷旗本屋敷でも多数の日本刀が焼失しました。

大火ののちには、全国各地からさらに多くの刀工が江戸へ参集し、日本刀の不足を補うために力を尽くします。大火による需要の増大も、「寛文新刀」(かんぶんしんとう)に盛隆をもたらした要因のひとつとなりました。

幕府による剣術の奨励

1637年(寛永14年)の「島原の乱」を最後に、戦いのなくなった平和な時代。武士の精神が廃れてしまうことを危惧した幕府は、剣術を奨励します。

剣術の稽古では、実戦とは違い竹刀(しない)を用いることになります。さらに剣術の内容にも変化があり、それまでの甲冑を身に付けた武士相手の剣術から、甲冑のない武士の剣術へと変わったのです。

これらは日本刀の姿にも変化をもたらしました。すなわち、刀身平肉(ひらにく:地鉄[じがね]全体の量感)を落として、頑強であることよりも切れ味を重視。竹刀のように反りを浅くし、突きに向いた形状が確立していったのです。

こうして寛文新刀は江戸時代前期を代表する日本刀の姿となりました。

江戸寛文新刀を代表する刀工

江戸の寛文新刀を代表する刀工と言えば、まず「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)が挙げられます。年紀(ねんきめい)のある作品から知ることができる活動期間は、1656~1677年(明暦2年~延宝5年)の22年間。この長曽祢虎徹を中心に江戸で活躍した寛文新刀の代表的刀工を見ていきます。

長曽祢虎徹より早く、最初に江戸へ入ったのが「和泉守兼重」(いずみのかみかねしげ)で、長曽祢虎徹の師との説もあります。戦国武将の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)で知られる藤堂家に召し抱えられたとき、「宮本武蔵」の口添えがあったと伝えられる名工です。

そして、「江戸石堂派」(えどいしどうは)を代表する刀工「石堂是一」(いしどうこれかず)。近江国蒲生郡(現在の滋賀県南東部)の出身で、長曽祢虎徹よりも先に江戸へ入って活躍しました。

長曽祢虎徹と同時代に活動した刀工としては、「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)が有名です。但馬国(現在の兵庫県北部)を拠点とした「法城寺派」の末裔であり、一門と共に江戸へ入ると「江戸法城寺派」を創始しました。

この他、1596~1615年(慶長年間)に幕府お抱えの刀工として活動した「越前康継」(えちぜんやすつぐ)の後代にあたる「3代 越前康継」も長曽祢虎徹と同時代に活躍。少しあとには「4代 越前康継」も活躍しました。

そんな江戸寛文新刀を代表する刀工の作品として、刀剣ワールド財団が所蔵する長曽祢虎徹と法城寺正弘をご紹介します。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹

もともと越前国で甲冑師を生業としていた長曽祢虎徹。江戸時代になると戦が減り、甲冑の需要が落ち込んだことから、50歳を超えてから江戸へ出て刀工に転向しました。年を重ねるごとに実力を発揮したとされる異才であり、とりわけ優れた切れ味と見事な刀身彫刻によって、江戸で大変な人気を博したと言われています。

長曽祢虎徹は、刀工名の表記を頻繁に変えたことでも知られ、はじめは「長曽祢興里」(ながそねおきさと)と名乗っていましたが、仏門に入って以降は「こてつ」と読む銘を切るようになりました。最も古い作品では「古鉄」、続いて通称「はねとら」銘と呼ばれる「虎徹」、1664年(寛文4年)8月頃からは、いわゆる「はことら」銘の「乕徹」を用いています。

乕徹銘が切られている本刀においては、後期の作風である丸みを帯びた互の目(ぐのめ)が連なる数珠刃風(じゅずばふう)の刃文が見られるのも特徴のひとつ。寛文新刀らしい反りの浅い刀身も印象的です。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
長曽祢興里
入道乕徹
鑑定区分
重要刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘(丸に橘紋)近江守法城寺橘正弘(寛文十一年二月日)

江戸へ入り江戸法城寺派を創始した法城寺正弘の一門は、江戸石堂派と婚姻関係を結ぶなどして勢力を拡大。数十名の刀工を擁して一大派閥を構成すると、幕府が命じる鍛冶関係の業務一切を担うほどになりました。

法城寺正弘をはじめとする江戸法城寺派の作風は、「寛文新刀型」と称される反りの浅い姿に、数珠刃風の互の目乱れ(ぐのめみだれ)を焼き、それらの特徴は長曽祢虎徹の作品に酷似していたと伝えられています。そのため、法城寺正弘の銘を潰して長曽祢虎徹の偽銘(ぎめい:偽物の銘)が切られて流通したほどでした。

本刀は、寛文新刀型ならではの「直刀」(ちょくとう)に近い刀身が目を惹きます。長曽祢虎徹の作品に劣らず、地刃共に優れた出来栄えの健全な作品です。

刀 銘 (丸に橘紋) 近江守法城寺橘正弘(寛文十一年二月日)
刀 銘 (丸に橘紋) 近江守法城寺橘正弘(寛文十一年二月日)
(丸に橘紋)
近江守法城寺
橘正弘
寛文十一年二月日
鑑定区分
重要刀剣
刃長
70.3
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

商業の町で栄えた大坂寛文新刀

寛文新刀は江戸で発展したとされていますが、大坂の刀工達も負けてはいません。

豊臣秀吉」が「大坂城」(現在の大阪城)を築城し、城下町の整備が進められると、大坂は商業の中心地として繁栄。活気に満ちた商業都市の大坂には優秀な刀工が集まり、全国各地の大名や武士、脇差を求める町人などから注文が殺到したと言われています。

大坂寛文新刀の刀工としては、江戸の長曽祢虎徹と並び「新刀の横綱」と称えられた「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ:[2代 津田助広]のこと)や、津田助広と共に最高と評される「井上真改」(いのうえしんかい)、そして津田助広の濤瀾刃(とうらんば)写しの名手「越後守包貞」(えちごのかみかねさだ)が代表格です。

この他、津田助広、井上真改から多大な影響を受けた「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)なども良く知られています。いずれも華やかな刃文が特徴となっており、見応えは十分。地鉄の精緻な美しさも大坂の特色です。

刀剣ワールド財団所蔵の作品のなかからは、貴重な津田助広と井上真改の合作刀、さらに刀身彫刻が施された一竿子忠綱の作品をご紹介します。

刀 銘 津田越前守助広 井上真改

本刀は、津田助広39歳、井上真改45歳のときに作られた合作刀で、大坂城代青山家に伝来しました。青山家は、江戸時代初期から徳川将軍家に重臣として仕えた名家です。津田助広はこの青山家お抱えの刀工でした。

一方、津田助広と大坂寛文新刀の双璧をなす井上真改は、名工であった父に9歳で師事。早くから刀工としての力量を示し、のちに「大坂正宗」とも称されるようになった名工です。

2人の偉才が手掛けた本刀は、江戸時代中期から後期には、武士であり刀剣研究家でもあった「鎌田魚妙」(かまたなたえ)が所有。鎌田魚妙が記した書籍「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)にて本刀の完成度が称賛されると、広く世の中に知られるようになりました。

本刀の刃文は大互の目乱れに小湾れ(このたれ)が交じり、津田助広が創始した濤瀾風となっています。さらに、深く小沸(こにえ)厚く付き、金筋砂流し(すながし)といった働きも観る者を魅了。大坂寛文新刀らしい華やかな美しさが際立つ1振です。

刀 銘 津田越前守助広 井上真改
刀 銘 津田越前守助広 井上真改
津田越前守助広 延宝三年二月日 井上真改
延宝三年二月日
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
72.6
所蔵・伝来
大坂城代青山家 →
鎌田魚妙 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作

一竿子忠綱は、鎌倉時代に京都で活躍した刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の末裔であり、父の時代に大坂へ移り住んだと伝えられています。初期の作風は、精緻に詰んで冴えた地鉄に、互の目交じりで焼き幅の揃った刃文を焼き、後年になると、濤瀾乱れに足長丁子(あしながちょうじ)を交えた刃文を焼きました。

本刀の刃文は、大互の目乱れに小湾れ、互の目を交えた濤瀾風。初期のような焼き幅の規則性は見られず、丁子風の刃文が交じり、長いがよく入ったところなど、円熟期の一竿子忠綱らしい特徴が強く印象に残る出来栄えです。

また、一竿子忠綱は「彫りのない一竿子は買うな」と言われるほど刀身彫刻においても手腕を発揮しました。本刀の差表(さしおもて:刀の刃を上にして腰に差したときに外側になる面)には聖獣の「龍」、差裏(さしうら:刀を腰に差したときに体側になる面)には密教の祭神具である「三鈷柄剣」(さんこづかけん)と「梵字」(ぼんじ)が施され、一竿子忠綱自身が彫ったことを示す「彫同作」(ほりどうさく)の添銘も切られています。

刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
一竿子
粟田口忠綱
彫同作
鑑定区分
重要刀剣
刃長
64.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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天下三作

天下三作
「天下三作」(てんがさんさく)とは、「名物三作」(めいぶつさんさく)とも呼ばれており、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)と言う「名物」(めいぶつ:古来有名で、通名がある日本刀)の日本刀台帳に「天下の3名工」として記載されている3人の刀工です。鎌倉時代中期に「山城国」(やましろのくに:現在の京都)で活躍した「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、鎌倉時代末期から南北朝時代に「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で活躍した「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)、南北朝時代に「越中国」(えっちゅうのくに:現在の富山県)で活躍した「郷義弘」(ごうのよしひろ)とその作刀を指します。天下人として名を馳せ、熱心な日本刀の収集家でもあった「豊臣秀吉」が珍重したことでも有名です。

天下三作

日本三名匠

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尾張三作

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愛知県の尾張地区と言えば、「織田信長」と「豊臣秀吉」の出身地であり、また「徳川家康」にもゆかりのある地域です。彼ら三英傑が活躍した室町末期から江戸初頭というのは、権力の変遷が目まぐるしい激動の時代。そして、刀剣史上でも、古刀から新刀へ移る過渡期でした。優れた刀剣、優れた刀工は、権力者のもとへ集まってくると言いますが、「尾張三作」と呼ばれる優秀な刀工達も、この時代に名古屋の地へやってきたのです。では、この背景にはどのようなことがあったのでしょうか。そして、時の権力者と彼らの関係はどのような物だったのでしょうか。

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青江派

青江派
「青江派」(あおえは)とは、備中国青江(びっちゅうのくにあおえ:現在の岡山県倉敷市)で活躍したとされる刀匠の一派です。隣国である備前国邑久郡長船(びぜんのくにおくぐんおさふね:現在の岡山県瀬戸内市)の「備前長船派」とほぼときを同じくして共に繁栄し、平安末期から鎌倉・南北朝時代にかけて名声を上げました。その後、松山(現在の高梁市)や備中片山庄(現在の総社市周辺)で栄えた豪族の「上神氏」などのもとで武士と刀鍛冶を兼任していた背景から、南北朝時代に入って起こった政争の影響を受け、豪族達と共に衰退の運命に巻き込まれていったのです。

青江派

左文字

左文字
「左文字一派」(さもんじいっぱ)は、「筑前国」(ちくぜんのくに:現在の福岡県)で鎌倉時代後期から室町時代初期に日本刀を制作し、活躍した一派です。九州地方で最も卓越した技巧を持つ一門とされています。筑前国のある九州地方は、「大和伝」(やまとでん)の刀工が多いことで知られており、初期の左文字派は大和伝の作風でしたが、一派の刀工のひとりである「左安吉」(さのやすよし:のちの左文字)が「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)の有名な刀工「正宗」(まさむね)に入門し、「正宗十哲」(まさむねじってつ:正宗の弟子の中でも特に優れた10人の弟子)に数えられたことにより、「相州伝」(そうしゅうでん)を修得したため、相州伝の日本刀を制作するようになっていきました。

左文字

村正

村正
「村正」(むらまさ)は、伊勢国桑名郡(いせのくにくわなぐん:現在の三重県桑名市)で室町時代から江戸時代初期にかけて活躍した刀工一派です。徳川家の人間の死や負傷にかかわった凶器が、ことごとく村正の刀剣だったことから「妖刀村正」と恐れられ、広く人々に周知されるようになりました。その後、村正の刀剣は「持ち主に祟りがある」、「抜けば血を見ずには治まらない」と囁かれたため、大名や旗本が村正の使用を避けたとされています。 村正は、系譜をはじめ、古くから諸説が囁かれる刀工一派で、いまだに決定的な定説のないミステリアスな刀工一派です。こちらのページでは、村正の刀剣の始まりや刀剣村正の代表的な刀工、刀剣村正の特徴などをご紹介します。

村正

江戸新刀

江戸新刀
「新刀」には、「慶長新刀」(けいちょうしんとう:1596~1615年[慶長年間])、「寛文新刀」(かんぶんしんとう:1661~1680年[寛文・延宝年間])、「元禄新刀」(げんろくしんとう:1681~1771年[天和・元禄年間])という3つの時代区分があります。なかでも、「寛文新刀」の時代は素晴らしく、江戸で作刀された武骨な「江戸新刀」と大坂で作刀された華美な「大坂新刀」という2種類の個性的な刀が登場しました。江戸新刀が作刀された時代的背景と代表的な刀工について、詳しくご紹介します。

江戸新刀

江戸三作

江戸三作
江戸時代中期以降、長く平和な時代が続いたために、日本刀の需要も次第に減っていきました。刀鍛冶の手法そのものも簡素化されることとなり、かつては隆盛を極めた各地の刀工達も苦しい状況に陥ります。しかし、1772年(安永元年)に始まる安永期になると、「水心子正秀」(すいしんしまさひで)をはじめとする意欲的な刀工達が登場して「刀剣復古論」を提唱。「刀剣復古論」とは、南北朝時代から室町時代初期頃の「古刀」(ことう)の鍛錬法に復元すべきであるという主張です。彼らは、古い時代の日本刀を研究し、さらに、製鉄技術の進歩によって得られた地鉄(じがね)を用いて、「新々刀」(しんしんとう)と呼ばれる新しい日本刀を作り上げます。新々刀は、日本刀の革新となり、1876年(明治9年)の「廃刀令」まで制作されました。

江戸三作

大坂新刀

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「新刀」(しんとう)とは、1596年(慶長元年)から、江戸時代中期の1781年(安永10年)までに制作された日本刀を指し、その中でも、大坂(現在の大阪府)を拠点とした刀工の作品を「大坂新刀」と呼んでいます。大坂新刀は、江戸を拠点とした刀工の作品「江戸新刀」と並び称される、新刀の代表格です。ここでは、主な刀工と作品の特徴についてご紹介します。

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