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乗馬の歴史
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古代から馬は人の生活と密接にかかわってきました。世界的な視点から見ても、馬は、狩猟対象であったり、移動手段であったりと、生活に欠かせない存在です。それがいつしか日本へと伝来してきます。日本でも、馬は伝令として活躍をしたり、合戦に参加したりと、重要な位置を占めていました。そんな馬は、いつ誕生をして、どのように日本へと伝来して日本人の歴史にかかわってきたのかを見ていきましょう。

馬の誕生

馬は、55,000,000年前に北米に現れた「ヒラコテリウム」(別名:エオヒップス)と呼ばれる、体高30cmほどの動物が祖先です。ヒラコテリウムは、前肢に4本、後肢に3本の指を持ち、森林に住んでいました。同時期にヨーロッパにも生息していたと言います。

さらにこのエオヒップスは、ウマ科の様々な種に分岐し、5,000,000年前頃になると、蹄がひとつで、体高1m以上の「プリオヒップス」が出現。現代馬の先祖に一番近い「エクウス」が現れるのが、1,000,000年前で、このエクウスが世界中に生息範囲を広げ馬・シマウマ・ロバなどに進化していきました。

そして、フランスの「ソリュトレー遺跡」で発見された、世界遺産「ラスコー洞窟壁画」に描かれた馬は、馬を狩りに出た記録として描いたと言われています。つまり、この頃の馬は、乗馬と言うよりも狩猟の対象でした。馬の家畜化は、紀元前3,500年頃の中央アジアを起源としています。

食用や牽引用として活用され、そのあと、馬具や車輪の発達により、乗馬をして馬車を扱うようになりました。生活に変化を与えたのと同時に、馬は戦争においての移動や攻撃の手段として転用されていくようになります。

日本へ伝来した馬

馬の先祖となるヒラコテリウムが誕生して数千万年のときを経て、馬は日本へとやってきました。日本には、在来種の馬もいたとされていますが、古墳時代に朝鮮半島より外来種の馬が伝来。このとき伝来した馬の血脈は、明治時代のはじめに、競走馬のサラブレッドが輸入されるまで、日本人と共に歴史を歩んでいきます。

ここでは、伝来した馬が古代の日本人とどのようにかかわったのかを紐解いていきましょう。

古代史の人々とのかかわり

馬の形をした埴輪

馬の形をした埴輪

日本にも在来種の馬が生息したとされていますが、まだそれを示す証拠は見付かってはいません。ただ、いたとしても数が少なかったのではないかと言われています。そんな馬が、日本で急増したのは古墳時代頃。

この時代を境に、全国各地の遺跡から、馬の化石や馬の形をした「埴輪」や馬具が発見されているからです。古墳時代に馬が急増した理由については、この頃に朝鮮半島からの渡来人が、馬を連れてやってきたからだと考えられます。

それが日本での商売のためであったのか、農作のためであったのかは伝わっていませんが、馬の渡来は日本人の生活を大きく向上させる重要な事象となりました。

交通制度に活用された馬

天智天皇/中大兄皇子

天智天皇

奈良時代の交通通信手段に「駅伝」(駅制とも言う)の制度があります。645年(皇極天皇4年)大和朝廷で「天智天皇」(てんじてんのう)が行った改革「大化の改新」以降、公的な通信手段として馬が使用されるようになりました。

この改革以前にも火急の知らせを送る早馬は存在しましたが、詔を出して制度化したのは天智天皇がはじめてです。

日本書紀」の、646年(大化2年)の勅書にも「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」とあります。これは律令制を整えるため、政治・軍事に合わせて、交通制度の整備と、中央と地方間での情報伝達を一本化することを意図していました。

その際に使用する馬は、「駅馬」と呼ばれる施設で飼育され、大和朝廷の支配地域に等間隔で配備。施設から施設を行き来し、情報を伝達する手段として長く活用されました。

大宝律令下での馬寮の誕生

天武天皇

天武天皇

663年(天智2年)の「白村江の戦い」で、日本は百済(くだら)救済のため、唐・新羅連合軍と戦いました。友好関係を築いていた百済を助けるためでしたが、日本は唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまいます。唐の軍事力はあまりに強大で、このまま唐が日本へと攻めてきたらひとたまりもありません。

天智天皇は、大国・唐に対抗できる国家にすべく、律令制を整えることを急ぎ、馬の軍事的利用を政策課題としました。701年(大宝元年)に、ついに「大宝律令」(たいほうりつりょう:日本ではじめて作られた法律)が完成。

すでに、大化の改新を行った天智天皇は亡くなり、弟「天武天皇」(てんむてんのう)が天智天皇の遺志を引き継いで、政治を行っていました。法のもとに政治を進める律令国家となった日本は、天皇を中心とした「二官八省」(にかんはっしょう:大宝律令下での官制)の官僚機構を骨格に据えます。このなかの軍政を司る機関「兵部省」(ひょうぶしょう)の「馬寮」(めりょう)と言う部署で、馬の飼育や調教を行っていました。

そして、馬寮の長官には、伊勢平氏の武士が続いて長官となったことから、馬寮は武士のあこがれの官職のひとつです。身分の低い武士でも、成功(じょうごう:規定の任料を納めること)をすれば、職に就くことができたため、志望者が殺到しました。

「官職秘抄」によると、1148年(久安4年)に定員は20名に増やされましたが、平安時代末期になる頃にはその数倍の者が任じられていたとあります。

武具について

大鎧

大鎧

平安時代以降になると、武士が扱う刀剣にも大きな変化が訪れました。反りのないまっすぐな刀剣「直刀」から、反りのある「湾刀」(太刀)が作られるようになります。

この背景には、騎馬戦の登場が挙げられ、乗馬したまま刀剣を振り下ろして敵を薙ぎ払うのに、長くて反りのある刀剣が適していたのです。その他にも、かつての「短甲」(たんこう)や「挂甲」(けいこう)に代わり、「大鎧」(おおよろい)と呼ばれる甲冑(鎧兜)が登場。

これも乗馬した状態で戦いやすいように改良された鎧です。大鎧は、具体的には、肩を守るための「」(そで)、脇の隙間を守るための「脇楯」(わいだて)、胸部を守るための「鳩尾板」(きゅうびのいた)、「栴檀板」(せんだんのいた)、「吹返」(ふきかえし)などで構成されています。

そして、矢を弾き返す工夫が施された「」、隙間を少なくして腰から下を守る「草摺」(くさずり)などです。かつての武具は、大陸からの影響を受けた造形が多かったのですが、平安時代以降は日本の風土にあった武具が作られるようになりました。

武士に必要とされた乗馬術

乗馬による騎馬戦が、戦の主役となったことにより、一騎打ちと言う戦法が生まれます。当時の一騎打ちは、名乗りを上げて戦う一騎打ちが主体。こうした戦の在り方や、武士と馬とのかかわりは「源平合戦」(治承・寿永の乱とも)以降徐々に変わっていきます。

戦の常識を変えた戦術

源義経

源義経

優れた軍才を持っていた「源義経」(みなもとのよしつね)は、馬によって戦の常識を変えた人物です。平安時代末期の1184年(寿永3年)に起きた、源氏と平氏との戦「一ノ谷の戦い」で、源義経はたった70騎の手勢で平氏を敗走させています。平氏が陣を張っていた場所は、兵庫県神戸市にある一の谷。

源義経は、この一ノ谷の裏手にある鉄拐山から、難路と言われた鵯越(ひよごりごえ)の断崖絶壁を下り、麓にいる平氏の陣へと急襲を仕掛けました。戦の開始直前、源義経は山に詳しい猟師を配下に加えています。源義経は猟師に「この鵯越を馬は越えられるか」と問いました。

猟師は「鹿が越えるのは知っているが、馬が越えたところは見たことがない」と答えます。対して源義経は「鹿が越えられるならば、馬でも問題ないだろう」と言って、この鵯越から下る作戦を決行。騎乗したまま、源義経は先陣を切って崖を駆け下りました。平氏軍達は、予想もしない方角からの攻撃に大混乱に陥り、我先に敗走したと言います。

戦国武将・織田信長が蒐集した馬

織田信長

織田信長

前述したように、武士にとっての「馬」は、刀剣や弓など、合戦に欠かせない重要な道具のひとつです。そんな武士にとっての愛馬とは、すなわち自身の社会的地位の高さを見せるための道具でもありました。そこで、馬好きの戦国武将に「織田信長」が挙げられます。

織田信長は、武田家を滅亡させた折、「武田勝頼」(たけだかつより)の愛馬を進上させるなど、敵方の馬でも丁重に扱い、自身の持ち物としました。織田信長の馬好きを語る上で欠かせないのが、1581年(天正9年)に京都で開催された「京都御馬揃え」(きょうとおうまぞろえ)です。

この京都御馬揃えには、織田家の重臣「丹羽長秀」(にわながひで)や「柴田勝家」(しばたかついえ)をはじめ、織田軍を総動員するほど大規模な行事でした。その他にも「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)や「近衛前久」(このえまえひさ)など、皇室や公家など錚々たる顔触れが参加しています。

京都御馬揃えは、観兵式や軍事パレードの意味合いもかねていました。織田信長の狙いとしては、天下布武のために周辺大名を牽制し、自身の力を誇示するために行ったと考えられます。この京都御馬揃えにより、織田信長は、織田家の天下掌握を全国に知らしめることに成功しました。

歴史を語り継ぐ乗馬と伝統的な儀式

神社に行くと、境内に馬小屋があることはご存知でしょうか。小さな神社だとない場合もあるかもしれませんが、有名な神社だと「伊勢神宮」(三重県伊勢市)や「神田明神」(東京都千代田区)の境内にも馬小屋があります。

この馬小屋は、神様が騎乗するための「神馬」(しんめ)を奉納する場所、あるいは祭事に使用する馬を飼育する場所です。奈良時代から神社には、祈願のために馬を奉納する習わしがあり、これが現代にも続いています。

こうした馬は、こちらでご紹介する「流鏑馬」(やぶさめ)などの神事に欠かせない動物として大切にされてきました。ここでは儀式に参加する馬を見ていきましょう。

伝統武術・流鏑馬

流鏑馬

流鏑馬

流鏑馬とは、疾走する馬上から鏑矢(かぶらや:合図などに使用された音の鳴る武具。矢の先端に取り付けるようになっている)を的に射流す日本の伝統武術のことです。

古来、馬上から矢を射る行為は「矢馳馬」(やばせめ)と呼ばれていました。そこから転じて、次第に「やぶさめ」と発音されるようになっていきます。

この流鏑馬は、神事の際に奉納される儀式として、地域で様々な様式で引き継がれることになりました。流鏑馬のはじまりは、飛鳥時代とされています。なかでも、一番古い記録が「日本書紀」にあり、680年(天武天皇9年)に「長柄神社」(奈良県御所市)で「馬的射」(うまゆみい:流鏑馬の前身)が行われたと言う記録があります。

平安時代に入ると、鏑馬は宮廷行事の一環として実施されました。続いて、鎌倉時代になる頃に「源頼朝」が流鏑馬を積極的に行うようになります。これにより、流鏑馬は鎌倉幕府の推奨する武芸のうちのひとつとなっていきました。こうしたことを背景として、鎌倉時代以降、流鏑馬は武士の嗜みとして続いていくことになります。

現代にも、この流鏑馬の伝統は伝わっており、各地域の神事や行事に合わせて様々な形式の流鏑馬を開催。また、儀式としてではなく、スポーツとして楽しめる流鏑馬大会もあり、形式にとらわれない競技としても浸透しています。

三重県・多度大社の「上げ馬神事」

三重県・多度大社の「上げ馬神事」

三重県・多度大社の「上げ馬神事」

三重県の「多度大社」では、毎年5月に行われる「多度祭」で、「上げ馬神事」と呼ばれる神事を開催。上げ馬神事のはじまりは、1338年(暦応1年)~1340年(暦応3年)頃の南北朝時代。

騎手となった者は、境内に作られた2mほどの急斜面を人馬と共に駆け上り、上がった人馬の数や順番で、稲作や景気に関する吉凶を占います。

数多く上がれば豊作で、そうでなければ凶作。近年では、馬の上がり具合によって、農作ではなく景気の良し悪しも占うようになりました。

三重県無形民俗文化財 多度大社上げ馬神事三重県無形民俗文化財 多度大社上げ馬神事
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