平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。
源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。
しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。
同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1169年(仁安4年/ 嘉応元年) |
1歳 |
神田城(栃木県那須郡)にて、那須資隆(なすすけたか)の十一男として生まれる。初名は「那須宗隆」(なすむねたか)。
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1180年(治承4年) | 12歳 | |
1185年(寿永4年/ 文治元年) |
17歳 | |
1185~ 1188年(寿永4年/ 文治元年~ 文治4年) |
17~ 20歳 |
父・那須資隆の没後、兄が10人いたのにもかかわらず、那須氏の家督を継いで2代当主となる。
源平合戦で平氏軍に属していた兄達を赦免し、自身の領地を分け与える。 |
1189年(文治5年) | 21歳 |