「実業界の父」と呼ばれ、日本初の銀行を創設した「渋沢栄一」と、「江戸城無血開城」の立役者で幕臣として最後まで徳川家に連れ添った「勝海舟」。この2人は、どちらも徳川家に忠誠を誓っていながらも、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」を巡り、意見が対立していたと言われています。渋沢栄一と勝海舟の関係について見ていきましょう。
お互いに意志が強く、自信家であったと伝えられている「渋沢栄一」と「勝海舟」は、主君を共にする幕臣でありながら、仲が良くなかったと言われています。
そんな2人が初めて出会ったのは、明治維新後、明治天皇が江戸城を皇居と定めた1868年(慶応4年/明治元年)のこと。渋沢栄一は、勝海舟よりも20歳ほど年下であったことや「江戸城無血開城」に至った手腕など、幕末の動乱期を乗り越えた功績の差により、初対面で勝海舟から「小僧」扱いを受けてしまうのです。意志が強く、自信家であった渋沢栄一は、このことでひどくプライドを傷付けられたと言われています。
このあと2人は、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」を命を懸けて守っていく者同士となりますが、初対面でその関係はこじれてしまったのです。
巧みな交渉術で江戸城無血開城を実現させ、徳川家を存続させるために心血を注いだ勝海舟を、渋沢栄一は高く評価していました。
当時勝海舟は、幕府を終わらせる引き金を将軍・徳川慶喜に引かせたとして、元幕臣からは幕府を売った裏切り者であるとされ、多くの嫌がらせを受けていました。
しかし渋沢栄一は、徳川宗家を武力で打倒しようとする動きを見事抑えて見せた勝海舟の働きを、正しく評価していたのです。
その一方で、渋沢栄一は自身と交流があった、維新三傑である「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)などを「一芸一能に収まらない人物である」と評価したことに比べ、勝海舟のことは「一芸一能に限りなく近い人物で、人を動かせるようなリーダーとしての器ではない」と評価。
幕末の動乱期に己の手腕を発揮し、生き抜いた人物として見ているものの、一方で辛口の評価を残している背景には、初対面の小僧扱いや、勝海舟の徳川慶喜への姿勢が大きく影響していたのではないかと考えられています。
渋沢栄一と徳川慶喜の出会いは、1864年(文久4年/元治元年)のことでした。元々攘夷思想が強く、倒幕を考えていた渋沢栄一は、前年の1863年(文久3年)に江戸でクーデターを起こしますが、失敗。京都へ亡命した際に頼ったのが、徳川慶喜の家臣であった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)だったのです。
平岡円四郎の口利きで、当時「将軍後見職」、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)であった徳川慶喜に仕官。順調に出世し、藩の経済を執り行う部署のトップである「勘定組頭」に就くことになりました。この経験が、日本初の銀行を設立するという大業を成し遂げるきっかけとなります。
徳川慶喜が15代将軍に就任すると同時に渋沢栄一は幕臣に取り立てられましたが、徳川慶喜の采配により、翌年にはパリ万博へ出席する徳川慶喜の異母弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ行くこととなりました。本来は攘夷を志し、倒幕を視野に入れていた渋沢栄一が「攘夷は不可能なことである」と悟ったのはこのときだったとされます。
渋沢栄一は、攘夷志士でありながら、自分を取り立ててもらい、さらには世間を見る目を広げてくれた徳川慶喜に多大な恩義を感じていました。
一方、勝海舟は、徳川慶喜とそりが合わず、お互いに微妙な関係を築いていたと言われています。2人とも頭の回転が速く、時勢を読むことに優れていたものの、根本的な思想が合わなかったことから、勝海舟は徳川慶喜に煮え湯を飲まされたと感じた場面が何度もあったのです。勝海舟の最大の功績である江戸城無血開城を行う際にしても、勝海舟は徳川慶喜の信用を得ることができず、ひと悶着を起こしています。
徳川慶喜が「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上し、江戸城を明け渡したことで、およそ260年間続いた江戸幕府が幕を閉じました。
当時フランスにいた渋沢栄一は、明治新政府の指示により帰国。徳川慶喜は家督を当時6歳の「徳川家達」(とくがわいえさと)へ譲り、徳川家古来の領地である静岡で謹慎生活を送ることになりました。
そして渋沢栄一は、主君の恩義に報いるために静岡に留まり、静岡藩士となったのです。
一方の勝海舟は、元幕臣で勝海舟と共に江戸城無血開城に尽力した「大久保一翁」(おおくぼいちおう)と、徳川家の代表として静岡藩の藩政を担当していました。勝海舟はここから30年もの年月を、明治政府に徳川慶喜を赦免させることに費やすこととなります。
明治政府の要請により、渋沢栄一は大蔵大輔、勝海舟は海軍大輔に任命され、それぞれ政府の役職へ就くこととなりました。しかし、2人とも2~3年で明治政府を辞職。渋沢栄一は、かねての夢であった殖産興業の実現に向かって動き出したのです。
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われたことで静岡藩は消滅し、徳川宗家の謹慎が解除され、当主・徳川家達は東京へ転居。徳川慶喜も朝廷から従四位に叙せられ、「朝敵」の汚名は取り除かれました。
しかし、徳川慶喜は勝海舟の助言にしたがい、東京へは転居せず、自発的に静岡での謹慎生活を続けたのです。明治政府はこの頃、旧幕府軍の主導者的立場にあった元会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)や「榎本武揚」(えのもとたけあき)を次々に赦免。また、徳川家達が東京へ転居する際には、旧静岡藩士達が護衛を名目に、次々と上京していっていたのです。
勝海舟は、明治政府が徳川家やその旧臣をいまだ危険視していることをよく理解していました。上記の流れによって、徳川家が「徳川家康の再来」とまで言われた徳川慶喜を担ぎ、反乱を起こすのではないかと明治政府が考えることに危機感を持っていたのです。そのため、勝海舟は徳川慶喜を静岡に押し留めておくという策を講じました。
徳川慶喜はそのため、その後20年にわたり静岡で生活をすることになります。勝海舟は徳川家の後見人として、徳川慶喜だけでなく、徳川宗家を継いだ徳川家達にも、明治時代において公職に就くなどの動きを見せてはならないと考えていました。
渋沢栄一は、大恩ある徳川慶喜をいつまでも静岡に押し込めていることに憤り、そのような境遇にいる徳川慶喜を頻繁に見舞いました。
渋沢栄一と勝海舟は、互いに徳川慶喜を思うものの、その考えや行動に相違があったのです。渋沢栄一は、主君を思うあまり相手の行動に不満を持つようになりましたが、2人の行動の根源は徳川家の復権を目指すところにありました。勝海舟の死後、渋沢栄一は晩年に徳川慶喜の名誉挽回に務め、「徳川慶喜公伝」を編纂したのです。