「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、明治政府において、部下と上司の関係で仕事をした間柄です。渋沢栄一が「大蔵省租税正」(現在の財務省主税局長)着任を要請されたとき、「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)を務めていたのが大隈重信でした。
渋沢栄一は当初、大蔵官僚として新政府で働くという要請を断るため、大蔵省に出向きますが、「浩然の気に満ちた人」(こうぜんのき:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと)であった大隅重信に説得されて受諾。結果的に、渋沢栄一が広く社会で活躍するきっかけを作ったのが大隈重信と言えるのです。この2人の間にどのようなやりとりがあったのでしょうか。また、渋沢栄一が評する「浩然の気に満ちた大隈重信」とはどういう人物だったのでしょう。
「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、佐賀藩士出身で、幕末期には尊王攘夷派志士として活動した人物です。
明治維新後は外国事務局判事などを経て、1870年(明治3年)参議(太政官に置かれた官名のひとつ、政府の要職)になります。
そののちは、大蔵卿(おおくらきょう:大蔵省[現在の財務省]の長官)、外務大臣、農商務大臣などを歴任。
1898年(明治31年)には、「板垣退助」(いたがきたいすけ)とともに初の政党内閣を組織し、総理大臣に就任しました。1914年(大正3年)には2度目の総理大臣を務めています。
他にも、大隈重信が今日に残す功績は数多く、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校など、日本の近代化のために様々なことに取り組みました。
一方、明治維新の前後、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が身を置いていたのは、フランスのパリでした。渋沢栄一は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会に、江戸幕府から派遣されたパリ万博使節団の一員として、団長の「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)に随行し、パリ万博終了後もヨーロッパ各地を歴訪。徳川昭武は、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」の弟です。
パリ万博使節団で、主に庶務・会計を担っていた渋沢栄一は、約2年に亘る渡欧期間中、銀行家であり在仏日本名誉総領事であった「フリュリ・エラール」から様々な経済知識を学びました。
しかし、渋沢栄一達がパリにいる間、日本では「大政奉還」が起こり、渋沢栄一の直接の主人であった徳川慶喜が天皇に政権を返上。日本は開国し、明治時代へと突入していたのです。
のちに渋沢栄一は、「このときの驚きは言語に絶する」とこの知らせを受けた際の心境を語っています。
渋沢栄一達が帰国したとき、徳川慶喜は駿府(すんぷ:現在の静岡県)に蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込め謹慎させる刑罰)していました。渋沢栄一も、徳川慶喜の側で一生を送ろうと考え、駿府に身を置きます。
そして、1869年(明治2年)に静岡藩となったこの地で、地元の商人とかかわり合いながら、金融システムのアイデアを静岡藩に提案。これはいわゆる銀行業務で、殖産興業(日本の産業の発展を考えた明治期の産業政策)を図ったものです。
渋沢栄一は、商売をひとりの力で盛んにすることは難しくとも、合本組織(公益を追求した株式会社)であれば実現しやすいことをパリで学んでいました。そこで、1869年(明治2年)に、合本組織の「商法会所」を設立。これは半官半民の金融商社で、商品や生産物を担保にお金を貸したり、預かったりする銀行のような存在でした。
帰国後、渋沢栄一は西欧で学んだことをすぐに実地に移す行動に出たのです。
明治政府は、静岡の地で奔走する渋沢栄一に、大蔵省の役人になるよう打診しました。しかし、渋沢栄一としては、商法会所の経営がようやくうまく行き始めたところ。パリで思い描いた「株式会社による社会改造の実現」も夢ではないと思えてきた矢先のことです。
大蔵省の役人になるということは、権力側に奉仕するということ。やはり、自分は静岡にいようと考え、この申し出を正式に断るために、大蔵省に出向きます。そこで初めて、当時の「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)だった大隈重信に出会うのです。
大隈重信は、渋沢栄一に「あなたは元々新政府を創るという希望を抱き、苦労に苦労を重ねた人ではないか。私達は同志なのだから一緒にやろう」と、熱く語りかけます。渋沢栄一は、辞退する意を伝えることもできず、結果、大蔵省の役人になる道を選んだのです。
具体的に紹介すると、大隈重信が渋沢栄一の説得に成功した論法は、イソップ童話の「北風と太陽」で言う「太陽の論法」。
意思の強い渋沢栄一のような人物は、行動しない場合に起こりうるマイナス面について脅しをかける「北風の論法」を用いても、比較的耐えることができます。
そこで、北風の論法をまずは一度ちらつかせてから、一転して、行動した場合に作用するプラス面を説く太陽の論法で押しまくったのです。
渋沢栄一は、後日2歳年上の大隈重信の印象を「ものすごく元気な人」と評しています。勢いある熱弁と太陽の論理で、渋沢栄一は二つ返事で大蔵省の役人になることを承諾するに至りました。これはある意味、渋沢栄一がいち早く日本社会全体のために活躍するきっかけを作ったのは、大隈重信だったとも言えるのです。
渋沢栄一は、さらに大隈重信のことを「まさに中国の孟子が言う浩然の気に満ちた人物」だと語っています。浩然の気とは、天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと。中国では、浩然の気が全身に満ちていると、志を高く持ち、立派なことも成し遂げると考えられていました。
渋沢栄一は大隈重信のなかにある浩然の気を感じ、ともに歩みたい人物と思ったに違いありません。