渋沢栄一の功績

渋沢栄一とフリュリ・エラール
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渋沢栄一とフリュリ・エラール 渋沢栄一とフリュリ・エラール
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代に経済や商工業の面で日本を近代国家にすべく奔走した、「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物です。驚くのは、生涯に何と500もの会社を設立したこと。渋沢栄一が立ち上げにかかわった会社を紹介すると、みずほ銀行やサッポロビールなど誰もが知っている会社がズラリと並びます。まさに渋沢栄一は、日本経済の礎を築いた人物と言えるのです。
渋沢栄一の経済を見る才能が大きく花開いたきっかけとなったのは、明治維新前後の約2年間、パリ万博幕府使節団の一員としてフランスをはじめとする欧州各国を訪問したこと。特に、パリの銀行家「フリュリ・エラール」との出会いは、渋沢栄一の「近代日本経済の発展に一生を捧げよう」という意思を力強く後押ししたものでした。そんな2人の出会いと、渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだポイントを紹介しましょう。

渋沢栄一の功績渋沢栄一の功績
渋沢栄一に関連する人物、功績・教えについてご紹介します。

フリュリ・エラールから経済のイロハを学ぶ

銀行家のフリュリ・エラールと渋沢栄一の出会い

フリュリ・エラール

フリュリ・エラール

「フリュリ・エラール」は、フランスの銀行家であり、幕末期に在仏日本名誉総領事を務めた人物です。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)がフリュリ・エラールに初めて出会ったのは、1867年(慶応3年)のフランス。

この年の4月に開催されたパリ万国博覧会において、日本はフランスから出品と将軍親族の派遣を求められ、江戸幕府第15代将軍になったばかりの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、当時まだ14歳だった弟の「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を派遣します。徳川昭武率いるパリ万博使節団には20数名が随行し、渋沢栄一はそのひとりとして選ばれ、庶務・会計を担いました。

渋沢栄一がパリ滞在中、庶務・会計という雑務を一手に処理するにあたり、最も頼りにしたのが、日本名誉総領事のフリュリ・エラールだったのです。パリで銀行家としての経歴を持つフリュリ・エラールは、様々な経済知識を渋沢栄一に授けました。

渋沢栄一はフリュリ・エラールと知り合ったことで、近代日本経済の発展に一生を捧げる人物へと邁進していくことになります。

渋沢栄一の「資本主義の家庭教師」となったフリュリ・エラール

パリ万博使節団に徳川昭武が派遣されたのは、ヨーロッパにおいて積極的な幕府外交を繰り広げるため、また、パリ万博が終了したあとも徳川昭武にフランスで留学経験を積ませようという思惑がありました。

渋沢栄一は、厳しい財政事情のなかで、徳川昭武に勉学を続けさせつつ、使節団の生活を営むために資金運用を行いました。そのときのアドバイザーがフリュリ・エラールだったのです。

渋沢栄一は、近代国家における金融のプロであるフリュリ・エラールから、銀行の仕組みや業務内容、株式会社の設立要件や組織を学びました。さらに、フリュリ・エラールはフランス流の日々の細かい会計上の処理や資金運用方法を、実際の現場を見せながら渋沢栄一に教えたのです。渋沢栄一は、実務を通じて西欧の経済や金融に関する知識を習得していきました。

実際、渋沢栄一は20,000両でフランスの公債を購入し、鉄道会社の株を買うということも行っています。これは、徳川昭武の留学費用や生活費を工面するための実務でもありました。渋沢栄一が購入した公債は、銀行よりも高い利息が付いたのです。また、株は購入した会社の営業成績が良ければ株価が上がり、配当金が多くなることを実体験として学びます。

欧州での実務も含めた学びの経験によって、渋沢栄一は明治維新後すぐに、日本における銀行や株式取引所などの金融機関を設置。そして、数多くの会社の創設にかかわりました。

身分解放に情熱を注いだ渋沢栄一

渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだ大切なこと

渋沢栄一にはフリュリ・エラールとの交流を通じて、経済だけでなく、もうひとつ、日本の社会にぜひ取り入れたいと意を強くしたことがありました。それは人と人の対等な関係です。

徳川昭武の教育係を担当したフランスの軍人「ヴィレット中佐」とフリュリ・エラールとの間には、上下の意識が全くありませんでした。

この2人はいわゆる「士」と「商」の関係にあたり、当時の日本にはこの2つの身分の間に、決定的な格差があったのです。しかし、渋沢栄一がこの2人を見ていると、ヴィレット中佐がフリュリ・エラールに対して一目置くこともありました。渋沢栄一は、ヴィレット中佐とフリュリ・エラールが接する姿から、身分や職業が違っていても平等な関係の社会作りを行うことの重要性を強く感じたのです。

そして、のちに官僚となった渋沢栄一は、実際に四民平等や士族の解体を進め、身分解放の実施に動きます。特に、日本の商工業を発展させるためには、根強く残る「官尊民卑」(かんそんみんぴ:官民格差、政府や役人を尊び、庶民を卑しむこと)の打破こそ、自分に課せられた大きな役割だと考えていたのです。

日仏の若き才能が出会い育まれた、日本の民主主義の礎

フリュリ・エラールは、渋沢栄一が日本の民主主義の父と呼ばれる礎を築いた人物であり、幕末の日仏交流史に大きな足跡を残しました。しかし、裕福な銀行家で大の親日家であったこと以外には、全くと言っていいほど日本における公式記録が残されていません。

そこで、「渋沢栄一 算盤篇」の著者「鹿島茂」(かしましげる)氏がフランスにおいて調べた情報をもとに簡単に紹介しましょう。

フリュリ・エラールの正式な名は「ポール・フリュリ・エラール」。フリュリ・エラールが経営していた銀行は、彼の親あるいは祖父の代から受け継いだ物で、まさに家名のままの「フリュリ・エラール銀行」と言います。フランスの外交官は、皆この銀行に口座を持つ外務省御用達銀行でした。フリュリ・エラールが在仏日本名誉総領事に任命された背景には、もとより外務省との深いかかわりがあったからだと推察できるのです。

最後に、フリュリ・エラールと渋沢栄一が懇意になった理由のひとつを、鹿島茂氏はこう推察しています。フリュリ・エラールは、1836年(天保7年)にパリで誕生しており、1867年(慶応3年)のパリ万博時は31歳。渋沢栄一に経済のイロハを教えた人物と聞くと、もっと年上を想像しますが、2人が出会った当時、フリュリ・エラールはまだ青年と言ってもいい年齢でした。

一方、1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一は、フリュリ・エラールより4歳年下で、弱冠27歳。ある意味、日仏の若き才能が出会い、大いに気が合ったことで日本の資本主義、そして民主主義は開かれていったのかもしれません。

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