渋沢栄一の功績

渋沢栄一と近藤勇の出合い
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渋沢栄一と近藤勇の出合い 渋沢栄一と近藤勇の出合い
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幕末の歴史にその名を残す剣豪集団「新選組」。江戸幕府存続のために倒幕派達と戦い、最後は賊軍として滅びる運命を辿りますが、今もその人気は、幕末の偉人達のなかでもトップクラスを誇っています。その新選組局長として、「土方歳三」や「沖田総司」を始めとする志士達をまとめたのが、「近藤勇」です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と近藤勇は、尊王攘夷(天皇を守り、外敵を打つとする思想)の風が吹き荒れていた京都の街で出会います。実はこの2人、同じ武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)の農家の出身。そんな2人の間には、どのような交流があったのでしょうか。

渋沢栄一の功績渋沢栄一の功績
渋沢栄一に関連する人物、功績・教えについてご紹介します。

道は異なれど、行動は非常に似ていた2人

幕府直轄地で生まれた近藤勇

近藤勇

近藤勇

近藤勇」幼名「勝五郎」は、1834年(天保5年)、農家の家系である「宮川家」の三男として、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)で生まれます。

近藤勇が生まれた多摩周辺は、江戸幕府の直轄地であったことから、農民達のなかにも「幕府のため、将軍のために戦う」という意識が自然と芽生えており、豪農家庭では剣術を習う農民も多く、勝五郎もそのひとりでした。

1848年(弘化5年/嘉永元年)勝五郎が15歳のときに、江戸の甲良屋敷(こうらやしき:現在の東京都新宿区)にあった、天然理心流剣術道場「試衛館」(しえいかん)に入門。その創設者である「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に、剣術の腕を認められた勝五郎は、近藤家の養子となり、近藤勇として天然理心流を継ぐ身分となったのです。

1863年(文久3年)、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が、将軍としては230年ぶりとなる上洛(京都へ入ること)が決まると、幕府は、徳川家茂の上洛警護のための集団「浪士組」(ろうしぐみ)を募ります。

試衛館からは、近藤勇のみならず、近藤勇と同じく試衛館で剣術を学び、のちに「新選組」の隊士として活躍する「土方歳三」、「沖田総司」らを含む8人が浪士組に参加。これにより、近藤勇は京都へと上るのです。

近藤勇と新選組

約200人もの志士が集まり、京都に入った浪士組。その目的は前述した通り、徳川家茂の警護にありましたが、それは表向きの理由。真の目的は、浪士組の発案者である「清河八郎」(きよかわはちろう)が、尊王攘夷派の先鋒(せんぽう:主張や運動などの先頭に立つ者)となることにあったのです。これを知った近藤勇らは、「自分達はあくまで江戸幕府のために働きたい」と考え、浪士組は2つに分かれます。

近藤勇達は、京都守護職を務める「松平容保」(まつだいらかたもり)が藩主を担っていた会津藩(現在の福島県)預かりとなり、京都守護職の配下に「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を結成し、京都での治安維持活動を開始。これが新選組の前身です。

そののち、新たに新選組の名を賜ると、近藤勇は、そのリーダーである局長に就任。新選組は、最盛期には200人を超える集団として、尊王攘夷運動の弾圧で活躍しました。

幕府の腐敗を洗濯しなければと動いた渋沢栄一

「日本資本主義の父」と称され、明治時代の大実業家として知られる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)もまた、近藤勇と同じく武蔵国の農民から武士になった人物。

渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農に生まれ、幼い頃から家業を手伝う一方で、父からは学問の手解きを受け、従兄弟からは本格的に「論語」などを学びます。

このような教育と家業で得た知識や経験を以って、権力者である江戸幕府が極端な身分制度を制定するなど、理に外れた行いをしていることを感じ取り、22歳で従兄と共に江戸へ出ることにしたのです。

江戸では、儒学者の「海保漁村」(かいほぎょそん)の塾に入り、「千葉道場」で「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の剣術を学ぶなどするなかで、渋沢栄一は尊王攘夷の思想に傾倒し、倒幕の思いを強くしていきました。

「幕府の腐敗を洗濯したうえでなければ、とうてい国力を挽回することはできない。我々は農民とはいいながら、いやしくも日本の国民である以上は、わが本分の務めでないからと言って傍観してはいられない」

渋沢栄一自伝「雨夜譚」(あまよがたり)より

このような熱い思いのもと渋沢栄一は、1863年(文久3年)、塾や道場などで知り合った70人ほどの集団で、「高崎城」(たかさきじょう:群馬県高崎市)の乗っ取り、そして横浜の焼き討ちを計画します。これらはつまり、幕府を混乱させて倒してしまおうという考え。

しかし、この計画は決行直前に、尊王攘夷派が起こした「天誅組の変」(てんちゅうぐみのへん)などが失敗に終わったことなど、京都の情勢に基づき、同志のなかで最も急進派と思われていた「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の「残念ながら犬死するだけだ」との説得を受けたことにより、やむなく断念したのです。

現代に残る武士の風習
現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

京都で出会った渋沢栄一と近藤勇

渋沢栄一と近藤勇は、年齢で言うと渋沢栄一が6歳下。この2人は、渋沢栄一が尊王攘夷派、一方で近藤勇は「尊王攘夷派を統制する側」として、一見すると、まったく異なる思想を持ち動いていたかに思えます。

しかし、幕末における渋沢栄一と近藤勇の動きは実はとてもよく似ていたのです。当時、人々の思いは、尊王攘夷派と「幕府存続派」の真っ二つに分けることはできず、非常に入り組んでいました。そんななかで、渋沢栄一も近藤勇も、日本の世を良くしていきたいという思いのもと、それぞれの思想を持って行動し、どちらも武蔵国の田舎から江戸へ、さらには江戸から京都へ上った結果、京都の地で2人は出会うのです。

近藤勇は、もともと清河八郎と同じ尊皇攘夷派であったものの、清河八郎が江戸幕府よりも朝廷を優先する意を強く持っていたのに対し、近藤勇は、江戸幕府と朝廷を一体化させ、政局を安定させる「公武合体論」(こうぶがったいろん)的な思想を持っていたと言われています。

「倒幕派」に対し、江戸幕府を補佐する役割を担った人達を「佐幕派」(さばくは)と呼びますが、江戸幕府のなかにも公武合体の意向があり、近藤勇率いる新選組も、江戸幕府が政権を握っていた、現状の体制を良しとする集団ではなかったのです。

一方の渋沢栄一は、仲間との焼き討ち計画を中止したあと、大きな転機を迎えます。

江戸遊学のさなかに出会っていた「一橋徳川家」の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の推挙により、25歳のとき、同家に仕えて武士に転身したのです。

しかし、一橋徳川家はいわゆる「徳川御三家」と同様に、将軍の跡継ぎを世に送り出すことを目的に創設された、「徳川御三卿」のひとつ。

倒幕を考えていた渋沢栄一が、その家臣になったのはどうしてなのでしょうか。

その理由のひとつには、焼き討ちを計画したために、江戸幕府に追われる可能性もあった渋沢栄一達が、京都への亡命を考えていたこと。また、平岡円四郎は、相手が農民の身分であっても「見込みのある若者だ」と胸襟(きょうきん)を開き、議論するような広い視野を持つ人物で、渋沢栄一は、平岡円四郎と親交を深めていたのです。

とは言え、渋沢栄一にとって仕官を決めるには大きな葛藤がありましたが、世の中を良くするための意見を出させて貰うこと、また、京都での「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」への拝謁を条件に、仕官を決意するのです。

そして1866年(慶応2年)8月、一橋慶喜が江戸幕府15代将軍に就任。その家臣団は自動的に幕臣となり、最終的に渋沢栄一と近藤勇は、どちらも江戸幕府に仕える身となりました。

渋沢栄一は近藤勇をどう見たか

渋沢栄一と近藤勇の最初の出会いは、1866年(慶応2年)10月のこと。「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)として、京都に赴任していた渋沢栄一は、幕臣のひとりに薩摩藩(現在の鹿児島県)との内通疑惑があるとの情報により、その捕縛に向かいます。その際、助っ人として行動を共にしたのが新選組でした。

渋沢栄一は、自著「実験論語処世談」のなかで、近藤勇について、次のように語っています。

「幕末の末路に勇名を轟かした[とどろかした]新選組の近藤勇は、世間では非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように見られているが、実際には、存外温厚な人物で、無鉄砲な人ではない。よく物事の分かる人であった。」

1868年(慶応4年/明治元年)、近藤勇は35歳で、新政府軍により斬首刑に処されます。このとき渋沢栄一は、パリ万国博覧会へ参加するため、徳川慶喜の弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)の随行者のひとりとして、フランスのパリにいました。幕臣として渡仏した渋沢栄一は、帰国後、明治時代にすでに突入していた、日本の土を踏むことになったのです。

このように、渋沢栄一と近藤勇の運命は、明治新政府樹立の際に大きく分かれてしまいました。

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