「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が、「西郷隆盛」の人となりに深く触れることになったのは、ある頼みごとをするために、西郷隆盛が渋沢栄一の家を訪ねてきたときです。渋沢栄一はこのときのやり取りから、西郷隆盛のことを「心から尊敬する素晴らしい豪傑である」と称しています。しかし、このやり取りでは当時、大蔵省(現在の財務省)の役人にすぎなかった渋沢栄一が、12歳も年上で、かつ明治新政府の参議(さんぎ:大臣の上の役職)だった西郷隆盛に対して、「もっと国全体のことを考えるべきだ」と諫めていたのです。それにもかかわらず、渋沢栄一は、なぜ西郷隆盛のことを尊敬に値する人物だと評価したのでしょうか。ある頼みごとの内容を含め、渋沢栄一と西郷隆盛はどのような関係であったのかについてもご説明します。
薩摩藩(現在の鹿児島県)の出身である「西郷隆盛」は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)や、「木戸孝允」(きどたかよし)と共に江戸幕府を倒し、明治維新に尽力した「維新の三傑」(いしんのさんけつ)のひとりです。
この3人のなかでも、西郷隆盛が明治維新の最大の功労者だったというのが、当時の人々の感覚だったと言われています。
現代においても、明治維新が好意的に捉えられているのは、西郷隆盛が、江戸城(現在の東京都千代田区)を無血開城に導いたことが、大きな要因だったと考えられているのです。
明治新政府が樹立されると、西郷隆盛は1871年(明治4年)、参議に就任します。「参議」とは、当時の政府首脳が務めていた役職で、西郷隆盛や木戸孝允、「板垣退助」(いたがきたいすけ)、そして「大隈重信」(おおくましげのぶ)の4名で、その重職を担っていました。西郷隆盛が「ある頼みごと」を抱え、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の家を突然訪ねてきたのは、ちょうど参議の座に就いたこの年のことだったのです。
1871年(明治4年)当時、渋沢栄一は、長州藩(現在の山口県)出身の「井上馨」(いのうえかおる)のもと、大蔵省(現在の財務省)のナンバー4にあたる「大蔵大丞」(おおくらのだいじょう)の役職を務め、財政改革に取り組んでいました。
西郷隆盛は、その渋沢栄一の勤め先にではなく、渋沢栄一の家までわざわざ訪ねてきたのです。
お偉い参議が一官僚の家を訪ねて来たため、渋沢栄一は非常に驚きます。このとき、西郷隆盛が渋沢栄一に持ちかけた相談は、「興国安民法」(こうこくあんみんほう)のことでした。
興国安民法は、江戸時代末期に関東から南東北の農村復興に尽力した「二宮尊徳」(にのみやそんとく/にのみやたかのり)が、相馬藩(そうまはん:現在の福島県)に提案した財政や産業などに関する施策のこと。これにより相馬藩は繁栄を得ましたが、当時の大蔵省では廃止の議論がなされていました。それを知った相馬藩は廃止を阻止するため、西郷隆盛に頼み込み、その結果、西郷隆盛が渋沢栄一のもとへ相談をしに訪れたのです。
渋沢栄一の著書「論語と算盤」(ろんごとそろばん)には、西郷隆盛が当時、事実上の大蔵省の長官だった井上馨ではなく、一官僚にすぎない渋沢栄一のもとを訪れたのは、おそらく次のような理由だったと記しています。
「今清盛」(いまきよもり)と呼ばれるほどの権勢を振るっていた井上馨の性格では、興国安民法の廃止を阻止する提案は受け付けて貰えずにガミガミと言われ、撥ね付けられて終わり。そこで、直属の部下である渋沢栄一を口説けば、廃止せずに継続できると考えたのではないかと、同書のなかで渋沢栄一が推測しています。興味深いのは、同書に掲載されている興国安眠法を巡る2人のやり取りです。
(西郷隆盛) | 「せっかくの良い法を廃止してしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法が廃止されないように、相馬藩の力になってくれないか」 |
(渋沢栄一) | 「あなたは、二宮尊徳先生の興国安民法が、どのような内容なのかご存じでしょうか」 |
(西郷隆盛) | 「それはまったく知らない」 |
渋沢栄一の、どんな時の権力者であっても忖度せず、是是非非(ぜぜひひ)の態度による素直な問いかけも見事ですが、その一方で、頼みに来たにもかかわらず、自身はどんな法かもまったく知らないと言い切る西郷隆盛も、ある意味すごいと思わざるを得ません。
渋沢栄一は、「まったく知らない要件のことを、頼みに来るとは分からない話だ」と思いながらも、「知らないのなら仕方ない」と、西郷隆盛に興国安民法の内容について説明。「確かに良い法ではありますが」と前置きしたうえで、「相馬藩は、それで引き続き上手くいくかもしれません。しかし、一国をその双肩[そうけん]に担い、国政の采配を振るう大任にあたっているあなたが、相馬藩一藩のために奔走するだけで、この国の興国安民法をいかにすべきかのお考えがないのは、理解に苦しみます。本末転倒ではないでしょうか。」と熱く語ったのです。
西郷隆盛は、この渋沢栄一の直言(ちょくげん:思っていることをありのまま言うこと)に対して何も言わず、静かに帰っていったと伝えられています。
渋沢栄一は、この逸話を論語と算盤のなかで紹介したあと、西郷隆盛について、尊敬の念を持って「素晴らしい豪傑である」と称しました。
よく知らないことを頼みに来た西郷隆盛を、滑稽な人物だと評価しなかった理由は、渋沢栄一が経済のことを学び、考えていくうえで、そのバイブルとしていた「論語」の存在がありました。
論語は、春秋時代における中国の学者であり、「儒教」(じゅきょう)の祖でもあった「孔子」(こうし)と、その弟子達の言行を、孫弟子や曾孫弟子らがまとめた書物です。
「日本における資本主義の父」と評され、生涯に約500もの会社を設立し、商工業の発達に尽力した渋沢栄一が、その過程で何より重要視したことが、「現代語訳 論語と算盤」にも書かれています。
「国の富をなす根源は何かと言えば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、富は完全に永続することができない。」
「現代語訳 論語と算盤」より
渋沢栄一は、「算盤[経済]は、論語によって支えられる」とする独自の考えを持ち、「論語の教えに基づいて、商売を成功させてみせる」との有言実行を果たしたのです。
また論語のなかには、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」という言葉があります。これは、簡単に言うと、「知らないことは知らないと自覚する。これが本当の意味での知るということである」という意味。
渋沢栄一は、興国安民法にまつわるできごとを通じて、「明治維新の豪傑のなかで、誰よりも知らないことは知らないと素直に言え、ほんの少しも虚飾のなかった人物が西郷さんだ」と、西郷隆盛のことを心から尊敬したのです。