「勝海舟」(かつかいしゅう)は武士、そして政治家として幕末から明治維新へと激動する日本で重要な役割を果たした人物のひとりです。とりわけ、「戊辰戦争」においては幕府軍の軍事総裁となり、「江戸城無血開城」を実現させた功績は大きく、江戸の町が戦火に焼かれることを防ぎました。少年時代より剣術を学び、「直心影流」(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を受けるほどの剣豪である一方、旺盛な向学心によって蘭学にも精通していた勝海舟。どんな人物であったのか、その生涯に迫ると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する勝海舟の愛刀「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)について詳しくふれていきます。
1823年(文政6年)、勝海舟は石高41石ほどの旗本家に生まれました。幼名・通称は「麟太郎」(りんたろう)。
名は「義邦」(よしくに)で、明治維新後に「安芳」(やすよし)へと改名します。「海舟」は号です。
10代の頃から剣術家の「島田虎之助」(しまだとらのすけ)に剣術と禅を学ぶと、師匠の代稽古(だいげいこ)を務めるほどに腕を上げ、「直心影流」の免許皆伝を許されました。
また、師匠の勧めで西洋兵学に志し、蘭学者「永井青崖」(ながいせいがい)に弟子入りして蘭学を勉強。
その熱意は有名で、なかなか手に入らない蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」を借り受け、1年かけて自分のために1部、売るために1部の計2部を書き写したと言われています。
そのあと勝海舟は、1850年(嘉永3年)に蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開きました。
1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航し、開国を迫られる事態になると、幕府老中首座「阿部正弘」(あべまさひろ)は朝廷をはじめ、諸大名や市井(しせい:市中に住む庶民)の人々からも海防にかかわる意見書を募集。勝海舟も西洋式兵学校の設立と幕府による正確な翻訳書刊行の必要性を含めた意見書を上申します。
勝海舟の意見書は阿部正弘の目に留まり、海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり:海防掛)であった「大久保一翁」(おおくぼいちおう:大久保忠廣[おおくぼただひろ]とも)の知遇を得たことから、「蕃書翻訳所」(ばんしょほんやくしょ:幕府が設けた洋学教授・翻訳の学校)に出仕。さらに海軍士官養成のための教育機関「長崎海軍伝習所」(現在の長崎県長崎市)へ入門します。
1860年(万延元年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、幕臣の「新見正興」(しんみまさおき)を正使とする使節団をアメリカへ派遣。このとき勝海舟は、護衛として随行する軍艦「咸臨丸」(かんりんまる)に実質的艦長として乗船することとなります。
この航海には通訳の「ジョン万次郎」や、「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)も参加していました。アメリカの海軍軍人で技術者でもある「ジョン・ブルック」の手は借りたものの、日本人の力で太平洋横断を果たした咸臨丸は無事サンフランシスコに到着。
勝海舟はアメリカ滞在中に、日本とは違う近代的な政治・経済・文化を見聞し、大いに刺激を受けたとされています。およそ4ヵ月後に帰国した勝海舟は、すでに傾きつつあった幕府で近代海軍の強化に着手。
免職から2年後の1866年(慶応2年)、「第二次長州征伐」に決着を付けるため勝海舟はふたたび登用されました。「長州征伐」(幕長戦争)とは、「尊皇攘夷派」(そんのうじょういは:天皇を敬い、外国を排斥しようとする勢力)の急先鋒だった長州藩を幕府軍が攻めた戦いです。
戦いの発端となったのは、長州藩と薩摩藩・会津藩が「京都御所」(京都府京都市上京区)付近で起こした武力衝突で、これを「禁門の変」(きんもんのへん:蛤御門の変[はまぐりごもんのへん]とも)と言います。禁門の変では、長州藩が御所へ向けて発砲してしまったことから、長州藩は朝敵とみなされていました。そして「第一次長州征伐」は幕府側が勝利しています。
しかし、第一次長州征伐のあと、坂本龍馬や「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)らの尽力により長州藩と、幕府寄りだった薩摩藩が「薩長同盟」を結んだことで事態は大きく転換。第二次長州征伐では幕府側が各戦線で敗北を重ねます。
勝海舟は宮島(広島県廿日市市)にて長州藩の「広沢真臣」(ひろさわさねおみ)、「井上薫」(いのうえかおる)と会談し、停戦合意への道筋を付けました。幕府による第二次長州征伐は失敗に終わり、そのことで幕府の衰退はより顕著になったのです。
1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」が政権を朝廷へ返上する「大政奉還」が行われました。その後、明治新政府は王政復古の大号令を発し、天皇を中心とする政治体制に戻すことを宣言。旧幕府の力をことごとく排除しようとします。
これに対して旧幕府派が反発し、1868年(慶応4年)1月に京都近くの鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦いが勃発。この「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍は敗れ、新政府軍は江戸へ向かって進撃を開始することとなったのです。
新政府軍が江戸の間近まで迫ったとき、勝海舟は戦いを主張する幕臣を説き伏せ、新政府側の西郷隆盛と会談を行い、「江戸城」(現在の東京都千代田区)を明け渡すことを決定します。
この「無血開城」を実現させたことで、江戸の町が戦火に晒されることを防ぎ、また混乱に乗じて干渉しようとする外国勢力からも日本を守ることができました。
勝海舟は明治維新後も旧幕臣の代表格として出仕。兵部大丞(ひょうぶだいじょう)、海軍大輔(かいぐんたいふ)、参議兼海軍卿を歴任し伯爵に叙されています。1877年(明治10年)に「西南戦争」が起こると、西郷隆盛への同情を示し、逆賊として討たれてしまった西郷隆盛の名誉回復にも努めました。
晩年の勝海舟は赤坂氷川で大半を過ごし、江戸時代の経済史料をまとめた「吹塵録」(すいじんろく)や、「海軍歴史」、「陸軍歴史」などを執筆しています。そして1899年(明治32年)、風呂上がりに手洗いへ立ち寄った際に倒れ、「コレデオシマイ」という言葉を最期に亡くなりました。享年77。脳溢血だったと伝えられています。
幕末の動乱期に名を馳せた勝海舟は、命を狙われることは多々あったものの、決して相手を殺めることはしませんでした。そんな、刀を抜かないと伝えられる勝海舟ですが、剣豪らしく所持していた愛刀は名刀中の名刀だったのです。
勝海舟の愛刀として知られるのは、「新々刀」の祖と称される「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の作品、そして15代将軍・徳川慶喜から賜った「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)の2振。ここでは、現在「刀剣ワールド財団」が所蔵する海舟虎徹について、詳しくご紹介しましょう。
勝海舟の愛刀であった海舟虎徹は、「江戸城無血開城」への貢献など、長年の功績を称えて徳川慶喜から贈られたと言われています。本刀を鍛えた刀工は、江戸時代中期に江戸で活躍した「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)。
日本刀を保存・保管するための装飾のない「白鞘」(しらさや)に、勝海舟が記した「鞘書」(さやがき)があったことから、海舟虎徹という号が付けられました。
本刀の鍛えは小板目肌がよく詰み、刀身の中ほどに柾目肌(まさめはだ)が交じって総体に地沸(じにえ)が付いています。刃文は湾れ(のたれ)に互の目(ぐのめ)、尖り刃が交じり小足入り。茎(なかご)に「長曽祢興里」(ながそねおきさと)の五字銘と「真鍛作之」という添銘が切られています。
長曽祢虎徹は、「野田繁慶」(のだはんけい)、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)と並び、「江府三作」(こうふさんさく)と呼ばれる新刀期の名工です。もともと越前国(現在の福井県)の甲冑師でしたが、50歳を超えてから江戸へ移り、刀鍛冶となりました。
最も有名な「虎徹」の名は長曽祢興里の入道名であり、銘字としては虎徹の他に長曽祢興里、「長曽禰虎徹」、また後年には「乕徹」の文字も多く用いています。甲冑師であったことから鉄鍛えに優れ、地刃ともに冴えを見せるのが特徴。刀身彫刻にも巧みで、彫刻のある作品はより高い人気を博しました。
当時、あまりにも人気が高かったため、偽物(ぎぶつ:別の刀工が作った刀に長曽祢虎徹の銘を切ったにせもの)が多く出回ったことでも有名。このような状況から「虎徹を見たら偽物と思え」とまで言われるようになったのです。実際に長曽祢虎徹の正真作を所有することができたのは、徳川家をはじめ、大名の中でも地位の高い家や人物のみでした。
江戸城無血開城の立役者となり江戸を戦火から救った勝海舟。同じく無血開城成功のために奔走した「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と共に「幕末の三舟」(ばくまつのさんしゅう)と呼ばれています。
少年期より向学心にあふれ、和歌や漢詩にも秀でていた勝海舟は、含蓄ある名言も数多く残しました。時代の奔流の中にあって巧みな舵取りを見せた勝海舟の名言は、現代にも通じるものばかりです。
勝海舟の家は、旗本とは言え41石と裕福ではなく、しかも父「勝小吉」(かつこきち)は剣の腕は立つものの不行跡(ふぎょうせき:行いが良くないこと)で無役でした。煮炊きに使う薪もなく、柱を削って代用するほどの極貧にあったと伝えられています。
しかし勝海舟は、自分と他人を比べて自らを卑下するようなことはせず、剣術の修業や蘭学の習得に精一杯励みました。まさしく、自分らしく生きることで飛躍のチャンスを掴んだのです。
目先の利益ばかりを追い求めたりするより、将来のことを考えて行動することが大切。今が良ければそれでいいと思って行動すれば、まわりからの信頼を失い、後々後悔することにもなりかねません。目先の争いに捉われることなく、未来を慮って戦いの終結に尽力し、また新たな戦いを防いだ勝海舟らしい言葉と言えます。
福沢諭吉が著書「痩我慢の説」(やせがまんのせつ)で勝海舟を批判したことに対する返答です。勝海舟と福沢諭吉は咸臨丸に乗船していた当初から折り合いが良くなかったとされ、明治維新後、勝海舟が旧幕臣でありながら明治新政府に出仕したことを福沢諭吉は非難しました。
しかし勝海舟は、徳川幕府を中心に見据えて理想を掲げた福沢諭吉と、100年先の日本を思って講和を実現した自分とでは考え方がまったく違うと言いたかったようで、同じ土俵に立って論争するつもりはないと返したのでした。
勝海舟の家紋は「丸に剣花菱」(まるにけんはなびし)です。これは「花菱紋」の一種で、植物の花ではなく、奈良時代頃に大陸から伝来した「唐花菱」(からはなびし)という連続文様がモチーフとなっています。
当時、大陸の文化を取り入れることは、上流社会のステータスでもあったのです。日本では菱形を基本とした菱の文様が古くから使用されてきましたが、より華やかな印象を受ける花菱は公家の衣装や調度品の装飾として多く用いられ、のちに家紋となりました。
「剣花菱」は花菱に剣を組み合わせたモチーフです。剣には神の形代(かたしろ)となる神聖な意味があり、また寺社へ奉納する祭神具でもありました。
そして家紋に用いられる剣には武勇を重んじる尚武(しょうぶ)の意味も込められています。剣術に優れ、広く世界を視野に入れながら幕末の日本を導いた勝海舟に似合わしい家紋ではないでしょうか。