「近代資本主義の父」とも称される「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1867年(慶応3年)に開催された第2回「パリ万国博覧会」(通称、パリ万博)に「御勘定格陸軍附調役」として参加したことが人生の転機となります。このヨーロッパで得た知識や経験が、渋沢栄一自身を大きく飛躍させ明治・大正時代における実業家のトップリーダーとして成長することとなるのです。パリ万博での渋沢栄一の経験・学び、それらがその後どのように活かされるのかを、ここではご紹介します。
1865年(慶応元年)、フランス皇帝「ナポレオン3世」から江戸幕府に宛てて、自国で開催するパリ万国博覧会の招待状が届きました。開催は2年後の1867年(慶応3年)、この年に合わせて15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は準備を進めていました。けれどパリ万博には、将軍自ら赴くわけにもいかないことから徳川慶喜は弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)を参列させることに決めます。そして、その随行者一行のひとりに渋沢栄一を推挙したのです。
渋沢栄一が知らせを受けたのは、フランス行きのほぼ直前、1866年(慶応2年)の11月29日のこと。徳川慶喜の側用人「原市之進」(はらいちのしん)から、将軍の名代として行く弟・徳川昭武はパリ万博のあと3年から5年の間、フランス留学が決まったため、そのお供をして欲しいと話を聞きます。その際、長期のフランス滞在を滞りなく行うため、経済に明るく旅費、滞在費の管理が必須のため勘定の得意な渋沢栄一は適任でした。
さらに徳川昭武のお付きとして水戸藩から7人の藩士が供となるため、外国人を敵対視する頑固な水戸藩士と、他の随行者との仲介役も必要。そこで、渋沢栄一の思慮深く臨機応変に対応できる能力などを買われての大抜擢でもあったのです。
渋沢栄一は「喜んでフランスに行きます」とすぐに承諾してしまいましたが、原市之進は何度も確認しました。というのも渋沢栄一は、現在は幕府に仕えるようになっていましたが、もともとは過激な尊王攘夷(天皇を敬い、外敵を排除しようとする思想)論者だったからです。
原市之進は、夷狄の住む外国に行くのを渋沢栄一が嫌がりはしないかと心配していました。しかし渋沢栄一は、開国派である主君・徳川慶喜や、その家老「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)に仕えた数年ですでに尊王攘夷論者ではなくなっていました。主の影響を受け、今後はもっと積極的に異国のことを知り、徳川慶喜の期待に応えるべく奮起しようと考えていたのです。
徳川昭武は、駿河国(現在の茨城県)の9代水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の十八男で、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の異母弟です。徳川昭武は民部大輔(みんぶたいゆう)に任じられていたため、人々からは「民部公子」(みんぶこうし)と尊称して呼ばれていました。
1866年(慶応2年)に、「徳川御三卿」のひとつ「清水徳川家」の当主となり、のちに水戸藩最後の藩主となります。当時、フランスと敵対するイギリスが、すでに薩摩藩と長州藩に武器や軍艦を提供するなど協力関係を築いていたことから、駐日フランス公使の「レオン・ロッシュ」は焦りました。
そこで江戸幕府はフランスと通商条約を結んでいたことから、レオン・ロッシュは「祖国と条約を結んでいる以上、皇帝陛下主催のパリ万博へ使節を派遣することが国際的な儀礼である」と幕府に強く進言。こうした外交上の問題もあり、徳川慶喜は、まだたった14歳の弟・徳川昭武をパリ万博使節団団長としてフランスへ送ることになったのです。
1867年(慶応3年)の1月11日の早朝、パリ万博使節団一行は横浜港からフランス郵船「アルヘ―号」に乗り出港します。随行するパリ万博使節団一行は渋沢栄一を含め、外交官、医師、通訳、留学生、万博に出品する商人、駐日フランス領事ら総勢33名。乗り込んだ横浜港から、遠くフランスまで約50日の長い船旅が始まります。
最初に上陸したのは上海で、次はイギリス領となっている香港。香港でより豪華なフランス郵船「アンペラトリス号」に乗り換えます。次いでサイゴン(現在のベトナム・ホーチミン)、シンガポールなどアジア諸国に入港し、2月21日にエジプトのスエズに上陸。ここからは渋沢栄一は初めて鉄道に乗り、蒸気機関車の窓からスエズ運河建設の様子を眺めました。
現在もある世界最大のスエズ運河は、このとき10年の歳月をかけて作られ、開通まで残すところ2年というところでした。渋沢栄一は、この広大な事業がフランスとエジプトの2ヵ国共同で行われ、その目的が公共の利益のためだということを知り、深く感銘を受けたと言います。
島国である日本では、2ヵ国にまたがって共同で何かを行うことはまずないので渋沢栄一の驚きようも分かります。渋沢栄一達を乗せた船はフランスの港湾都市マルセイユに入港。ようやく使節団一行はフランスの地に足を踏み入れたのです。名誉総領事「フリュリ・エラール」、フランス政府の高官、軍総督、市長、幕府のフランス留学生らから盛大な出迎えを受けます。
そして3月1日にマルセイユで記念撮影をし、翌日から渋沢栄一は、徳川昭武に付いて関係者への表敬訪問から、市街の視察、芝居などを見物しました。海軍基地のあるツーロン(フランス南東部の都市)に行き最新の軍艦や武器に触れ、製鉄所や兵器貯蔵所にも赴きます。
さらに飛行船や潜水技術を披露されるなど、どれも初めて見る素晴らしい技術ばかりで渋沢栄一にとっては感動の連続だったことでしょう。帰国後、渋沢栄一は同じ随行者だった「杉浦愛蔵」(すぎうらあいぞう)と共著で旅の見聞録「航西日記」を上梓。他にも渋沢栄一単著として「巴里御在館日記」と「御巡国日録」なども残しています。
3月7日の夕方、ついにパリ万博使節団は目的地のパリに到着。パリ万博は、1867年(慶応3年)の2月27日から同年10月8日まで開催されました。会場は、セーヌ河畔の「シャン・ド・マルス公園」(現在のエッフェル塔広場)、世界42ヵ国が参加し、会期中の来場者数は1,500万人以上。
全敷地は40ヘクタールの楕円形、参加国の展示館は放射線状に並べられました。全箇所を回るには丸1週間かかるほどの広さだったと言います。ほとんどの展示品はフランスを中心としたイギリス、プロイセンなどのヨーロッパ諸国。
そしてアジア諸国からは、日本、清、タイの3ヵ国でした。展示品は、最新の電気電信機器や、エレベーター、蒸気を動力とした機械、医療機器、最新兵器、美術品など種類豊富で多様な品々が出展されたのです。パリ万博の盛況ぶりに、渋沢栄一は航西日記で「欧州各国はそれぞれに、多くの学問や芸術の新しさを競っている。
だからこそ、こんなにも精巧な出来映えで、豪華を極めているのだ」と感嘆しています。また、各国が使用する貨幣に関する展示があり渋沢栄一は、その差異についても深い関心を寄せました。日本の場合は、大小判、一分銀、二朱金、一朱銀、一文銭など、円形や方形でバラバラでしたが、ヨーロッパではすべてが円形で統一されていたからです。
度量衡も各国では円形が多いなか、「日本だけ方形の升を使用していることがやけに目立った」と航西日記にも感想が書かれています。貨幣の展示は、将来的な「世界共通の通貨」の必要性を訴えたものでした。パリ万博では、ヨーロッパ諸国の凄まじい産業の発展や軍事力に圧倒され、日本も近代国家として最新技術を取り入れ、早急に列強に追い付くようにしなければならないと渋沢栄一は実感したと言います。
日本からフランス滞在中の徳川昭武に宛てて、江戸幕府が「大政奉還」を行ったという御用状(主君、官府からの公的書状)が届けられました。そして数ヵ月後の1868年(慶応4年)5月、ついに日本への帰国命令書が届きます。
このとき日本は内戦状態であったため、今帰るのは徳川昭武の身に危険が及ぶかもしれないことと、徳川慶喜の命でもあるためできる限りフランスに留まり留学を続行するべきだと渋沢栄一は主張しました。さらに数ヵ月後の7月、徳川慶喜と徳川昭武の兄で、水戸藩主の「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)が死去した知らせが届きます。
その知らせには、徳川昭武が水戸徳川家を継ぐことが決まった旨が書かれていたため、ついに徳川昭武は留学を取り止め帰国することになりました。同じく、パリ万博使節団の随行員だった渋沢栄一達も、約1年半滞在したフランスから日本へ帰ることになります。
合本制とは、会社が株を売ってお金を集め、儲かった分を買ってくれた人に還元する仕組みのことで、現在の株式会社のようなもの。渋沢栄一はフランス滞在中、名誉総領事で銀行家でもあったフリュリ・エラールから銀行の仕組みや業務、株式会社の設立要件、貨幣制度、債券などの有価証券、株式取引所などの金融構造を教わりました。
しかしなぜ、日本よりも進んだ経済・金融制度を渋沢栄一は理解できたのでしょうか。それは幼い頃から、家業である藍葉(藍染めの原料となる草木)や藍玉(藍染めの染料)の売買などを行ってきたため、物やお金の流通、儲ける方法など、経営者としての素養が十分身に付いていたからです。フリュリ・エラールから教わるだけではなく、現場を見て経済や金融に関する知識を学べたのは、渋沢栄一にとって本当に意義のあることだったと言えます。
渋沢栄一は、新政府から配布された「石高拝借金」(新政府が貸し付けたお金)と現金を集め、合本制による「商法会所」を作ります。この商法会所への出資者は商人や藩士で、これは現在の商社と銀行を合わせた組織でした。
ヨーロッパでは、個人や銀行からの出資で会社が設立・運営します。労働者はそこで働き賃金を得る。その税収で、政府や軍、病院が成り立ちます。個人の生活を豊かにすることで国家も共に繁栄することを、渋沢栄一はパリ万博への旅を通して知りました。
商法会所を経て明治政府で大蔵省(現在の財務省)の役人を務め上げ、渋沢栄一は念願だった実業の世界に入ることを決めます。誰でも自由に働けるよう官尊民卑(官人を尊び民間人を蔑むこと)を打破し、産業発展のため「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)を設立。
そして庶民も手軽に本や新聞が読めるよう「抄紙会社」(現在の王子ホールディングス)を立ち上げます。その後も商工業を発展させ、国民の暮らしを豊かにするために奔走し、渋沢栄一は500社以上もの企業設立にかかわっていくのです。