13人の合議制(鎌倉殿の13人)メンバー

三善康信(みよしのやすのぶ)
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三善康信(みよしのやすのぶ) 三善康信(みよしのやすのぶ)
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鎌倉幕府が開かれる以前より、「源頼朝」(みなもとのよりとも)を支えていた「三善康信」(みよしのやすのぶ)。同幕府成立後は、現代における裁判所のような役割を果たしていた「問注所」(もんちゅうじょ/もんぢゅうしょ)の初代執事として、その敏腕ぶりを発揮。下級貴族出身でありながら源氏将軍家の重臣にまで上り詰め、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)を13名の有力御家人達が補佐する指導体制、「13人の合議制」にも参加しました。三善康信が如何にして源氏将軍家から重用されるようになったのか、その半生を振り返りながらご説明します。

鎌倉幕府成立以前の源頼朝との関係とは

三善康信

三善康信

三善康信は1140年(保延6年)、「三善康光」(みよしのやすみつ)、もしくは「三善康久」(みよしのやすひさ)の子として誕生。

「三善家」は元来、律令制下の最高国家機関であった「太政官」(だじょうかん/だいじょうかん)において、書記官役を代々受け継ぐ下級貴族であり、算道(さんどう)をもって朝廷に仕えていた家柄でした。

算道とは、当時の官僚育成機関「大学寮」のなかで、算術を研究していた学科のこと。のちの三善康信が、鎌倉幕府内で才知に長けた文官として一目置かれるようになったのは、このような血筋に生まれていたからかもしれません。そんな三善康信は鎌倉幕府の成立以前より、初代将軍となる源頼朝と繋がりがありました。

三善康信の母親が、源頼朝を育てた乳母の妹だったのです。このような関係性から三善康信は「平氏」と「源氏」が対立した「平治の乱」(へいじのらん)で敗北し、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へ配流されていた源頼朝のもとに、月に3回ほど京都の情勢などを伝える役目を担っていたと伝えられています。

平清盛

平清盛

1180年(治承4年)5月、77代天皇「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が平氏打倒を目的に据え、諸国の源氏に挙兵を呼び掛ける令旨(りょうじ:皇太子や皇后など、皇族の命令を伝える文書)を発します。その裏では、平氏の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)もまた、同氏に属する兵士達に向けて源氏を討つように命じていたのです。

これを知った三善康信はすぐさま、源頼朝のもとへ使者を送り、奥州(現在の東北地方北西部)へ逃げることを促します。このように三善康信が取った迅速な行動が、令旨を受けて実施された源頼朝の挙兵に、大きな影響を与えたと考えられているのです。

鎌倉幕府で花開いた文官としての才能

源頼朝

源頼朝

以仁王による挙兵がきっかけとなり、「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)、いわゆる「源平合戦」が6年間に亘って繰り広げられます。

その中で1184年(寿永3年/元暦元年)4月に三善康信は、源頼朝から鎌倉への下向を命じられたのです。鎌倉に入った三善康信は「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)の回廊にて、源頼朝より武家の政務を補佐するように依頼されました。

これを承諾した三善康信は、そのまま鎌倉に移住したのです。このときに源頼朝は、鎌倉の大倉郷(現在の鎌倉市二階堂、西御門、及び雪ノ下3丁目一帯)に御所を構えています。三善康信は、その御所内に設置された問注所の初代執事に就任したのです。

一方で1184年(寿永3年/元暦元年)10月には、家政機関である「公文所」(くもんじょ)が設けられ、三善康信と同じ京下りの文官であった「大江広元」(おおえのひろもと)が、その別当(べっとう:長官のこと)となります。

そして三善康信は、大江広元や、公文所寄人(よりうど/よりゅうど:職員のこと)の「中原親能」(なかはらのちかよし)らと共に、幕政の立役者となっていくのです。問注所執事となった三善康信は、問注所が所管する裁判制度の整備を推し進めていきます。

この当時はまだ、源平合戦の真っ只中。同合戦は、これまでに類を見ないほど規模の大きい内乱であったため、領地にまつわる訴訟問題が激増していました。しかし、三善康信はこれを迅速に処理し、朝廷勤務で培った文官としての能力を大いに発揮したのです。

1199年(建久10年/正治元年)に源頼朝が急逝すると、その嫡男・源頼家が2代将軍に就任。ところが、このときの源頼家は、まだ18歳と若かったためか、それまでの慣例を無視した独裁政治を行っていました。これが多くの御家人達の反感を買ったことから、13名の有力御家人達が源頼家を指導する、「13人の合議制」と呼ばれる体制が設けられることに。

三善康信は大江広元などと共に、そのメンバーに選ばれたのです。3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)の時代には、訴訟件数がさらに増加。このような状況を受けて三善康信らは、業務の効率化を図るために相談窓口を設置します。

最終的な決裁を将軍に仰ぐ前に、その申立てを引き受けるか否かを窓口で判断することにしたのです。なお、この相談窓口は三善康信の他に、公文所に代わって設けられた「政所」(まんどころ)の執事「二階堂行政」(にかいどうゆきまさ)や、有力御家人の「三浦義村」(みうらよしむら)なども担当していました。

最期まで見せた重臣としての使命感

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

1221年(承久3年)6月、鎌倉幕府打倒を掲げた82代天皇「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の挙兵により、「承久の乱」(じょうきゅうのらん)が勃発します。

このとき、三善康信は病床に伏せていましたが、その病を押して軍事会議に参加。大江広元が主張した即時出兵論を支持したのです。

幕府軍と官軍が戦った同乱は、鎌倉幕府の圧勝で終結し、三善康信は、同年8月6日に問注所執事を辞任。その3日後に82歳で亡くなっています。

このようにおよそ37年もの間、鎌倉の地に骨を埋めて源氏将軍家3代に仕え、幕府の発展に尽力した三善康信。その没後、問注所執事の役職は、三善康信の嫡男「三善康俊」(みよしのやすとし)が相続します。

それ以降も同職の座は、鎌倉、及び室町時代を通じて、三善家の子孫達が世襲していきました。これは、三善康信による幕政への多大なる貢献が、高く評価されたことが背景にあったと言えるのです。

三善康信の家系図と子孫

三善康信の家系図

三善康信の家系図

三善康信の家系図

三善康信の子孫「三善康俊」

三善康俊は、1167年(仁安2年)に三善康信の嫡男として誕生。「町野氏」(まちのし/まちのうじ)と称していたことで知られており、これは、父・三善康信が近江国(現在の滋賀県)の日野庄町野に住んでいたことが由来と推測されています。三善康俊が遠祖(えんそ:遠い先祖)となった町野氏は、室町幕府における問注所執事を代々務めました。

近江国で生まれ育った三善康俊は、1208年(承元2年)に従五位下(じゅごいげ)に叙され、1220年(承久2年)に鎌倉へ入ったと伝えられています。そして前述した通り、その翌年、父・三善康信が没したことに伴って跡を継ぎ、問注所執事の座に就いたのです。

これ以降も三善康俊は、鎌倉幕府の最高政務機関である「評定衆」(ひょうじょうしゅう)の一員となり、加賀守(かがのかみ)や従五位上(じゅごいじょう)に叙されたのみならず、「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)の起請文(きしょうもん)にその名を連ねるなど、父に負けず劣らずの活躍を見せていましたが、1238年(嘉禎4年/暦仁元年)6月に病のために問注所執事を辞任して出家。その後、京都にて亡くなったのです。

なお、三善康俊の子孫は、筑後国(現在の福岡県南部)を領していた「問注所氏」(もんちゅうじょし/もんぢゅうしょし)が知られています。三善康俊が、豊後国(現在の大分県)を拠点とした「大友氏」(おおともし)初代当主「大友能直」(おおともよしなお)の後見として九州に随行し、1313年(正和2年)には三善康俊の孫、「三善康行」(みよしのやすゆき)が鎌倉より九州へ下向。「問注所康行」と名乗ったことから、問注所氏が始まったのです。そののち、三善康行の子孫達は、筑後国・豊後国の守護職を務めた大友氏の被官として活躍しました。

三善康信の年表

西暦(和暦) 年齢 出来事
1140年(保延6年) 1
下級貴族・三善康光の子として誕生。父親については、三善康久の説もあり。
1160年(平治2年/
永暦元年)
21
朝廷に出仕し、五位以上の官人の婚姻や喪葬などを司る治部省(じぶのしょう)にて勤める。
1162年(応保2年) 23
78代天皇「二条天皇」の中宮(ちゅうぐう)「藤原育子」(ふじわらのむねこ/いくし)の侍従職である「中宮少属」(ちゅうぐしょうさかん)を兼任。
1184年(寿永3年/
元暦元年)
45
鎌倉へ下向して幕府へ出仕。訴訟の審理や文書作成を行う問注所の初代執事に就任する。
1199年(建久10年/
正治元年)
60
有力御家人のひとりとして、13人の合議制に参加。
1221年(承久3年) 82
承久の乱が起こる。病気をおして軍議に参加し、大江広元が主張した官軍への即時攻撃を支持する。
病により亡くなる。

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