「和田義盛」(わだよしもり)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」とともに、様々な合戦で活躍したことで知られる御家人です。武勇に優れ、弓の名手とも称された和田義盛は、政治の面でも活躍しており、鎌倉幕府の初代「侍所別当」(さむらいどころべっとう:御家人を統括する機関[侍所]の長官)にも任じられました。武勇と政務の手腕を発揮した和田義盛とは、どのような人物だったのか。ここでは、和田義盛の生涯と、和田義盛が起こした反乱「和田合戦」についてご紹介します。
「和田義盛」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した人物。相模国三浦郡(現在の神奈川県横須賀市衣笠町)の「衣笠城」を本拠地としていた一族「三浦氏」の庶流である「和田氏」出身です。和田氏はのちに和田義盛の活躍によって、幕府の有力御家人としての地位が築かれることになります。
和田義盛が生まれたのは1147年(久安3年)と言われていますが、表舞台に登場するのは1180年(治承4年)になってからです。
この年に行われたのが、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」による、平家追討のための挙兵。当時、源頼朝は1159年(平治元年)に行われた「平治の乱」によって流刑(罪人を辺境や島に送る追放刑)に処され、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、及び東京都伊豆諸島)で過ごしていました。なお、源頼朝は伊豆国で時が過ぎるのをただ待っていたわけではありません。
約20年と言う時間のなかで、学問を究め、平家に反発を抱く東国の豪族達を仲間に引き入れながら、じっくりと機会を窺っていたのです。1180年(治承4年)、源頼朝はついに絶好のチャンスに恵まれました。「後白河法皇」の皇子「以仁王」(もちひとおう)が、「打倒平家」の令旨(りょうじ:皇太子・三后の命令を伝えるために出される文書)を諸国の源氏に発して、蜂起を促したのです。これに応じた源頼朝は、挙兵して以仁王の軍勢に参加。
この戦いを「治承・寿永の乱」通称「源平合戦」と言い、このとき、源頼朝は大きな勢力を有していた「三浦氏」を頼みにしていました。しかし、緒戦である「石橋山合戦」(石橋山の戦い)が行われた神奈川県小田原市と、三浦氏がいた三浦半島は距離が離れていたため、三浦氏はなかなか到着しなかったと言われています。
源頼朝と三浦氏はその後、房総半島で合流することになり、このときに和田義盛も源頼朝と対面。「平家物語」によると、和田義盛は源頼朝に「先日の戦で父が戦死し、同胞が多く亡くなりましたが、源頼朝公の姿を見ることができたことで、その悲しみも払拭されました。どうか天下をお取り下さい。そして、その暁には私を侍所別当に任じて下さい。私は侍所別当となることをずっと望んでいたのです」と述べたと書かれています。
当時の源氏や三浦一族は、平氏軍相手に敗戦を喫していたため、相当な疲弊をしていたと推測される状況です。和田義盛の言葉に、他の家臣は「敗戦直後に何を申すか」と窘めますが、一連の流れに場の空気は和んだと言われています。
1180年(治承4年)10月、源頼朝らは「富士川の戦い」によって平氏軍に勝利。源頼朝は、上洛より先に坂東(ばんとう:関東地方)の平定を優先させて、その後鎌倉へ帰還します。そして、侍所を新設した源頼朝は、初代の別当として和田義盛を任命。
侍所の役割は、関東地方の御家人を統括して、武士を統率することです。和田義盛がその最高責任者に抜擢されたことで、和田氏は幕府内での地位を確立させることに成功。和田義盛はその後も、「九州平定」や源平合戦最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」などで活躍し、源頼朝を支え続けました。
1199年(建久10年)の正月に源頼朝が没すると、これまで順風満帆だった和田義盛の人生に陰りが見え始めます。
源頼朝の後継として源頼朝の長男「源頼家」が2代将軍となりましたが、この就任によって幕府内の空気が一変することになったのです。
その理由は、まだ年若い源頼家が独裁的な政治を行うようになったため。これまでの習慣を無視して、偉大な父・源頼朝と同じように立派な将軍になろうと努力した結果と推測されますが、当時の源頼家は18歳です。将軍とは言え、自分達よりも遥かに若い源頼家から命令をされて、御家人達は次第に不満を溜めていきます。
もしも幕府内部で反乱が起きれば、それに乗じて戦を起こす等、他のトラブルも誘発しかねません。源頼家の母である「北条政子」は、この事態を解決するためにある提案をしました。それが「13人の合議制」です。
13人の合議制は、1199年(建久10年)4月、源頼家が将軍となってからわずか3ヵ月後に発足されました。言葉の通り13名で構成されており、いずれも有力御家人が抜擢されています。
名前 | 役職 |
---|---|
①北条時政(ほうじょうときまさ) | 伊豆・駿河・遠江守護 |
②北条義時(ほうじょうよしとき) | 寝所警護衆(家子) |
③梶原景時(かじわらかげとき) | 侍所所司 → 侍所別当 播磨・美作守護 |
④和田義盛(わだよしもり) | 初代侍所別当 |
⑤比企能員(ひきよしかず) | 信濃・上野守護 |
⑥三浦義澄(みうらよしずみ) | 相模守護 |
⑦大江広元(おおえのひろもと) | 下級貴族出身で鎌倉幕府開府に貢献 |
⑧三善康信(みよしのやすのぶ) | 初代問注所執事 |
⑨中原親能(なかはらのちかよし) | 公文所寄人 → 政所公事奉行人 京都守護 |
⑩八田知家(はったともいえ) | 常陸守護 |
⑪安達盛長(あだちもりなが) | 三河守護 |
⑫足立遠元(あだちとおもと) | 公文所寄人 |
⑬二階堂行政(にかいどうゆきまさ) | 公文所寄人 → 政所令別当 → 政所執事 |
なお、13人の合議制は毎回13人全員が集まって会議を行っていたわけではありませんでした。また、将軍の意見を無視して方針を決定していたと言うわけでもなく、あくまでも最終判断は将軍に委ねられていたと言われています。
和田義盛は、持ち前の政治手腕を発揮し、鎌倉幕府の中心人物として幕府運営を支えていました。他にも、梶原景時や比企能員など、合議制のメンバーは優秀揃いであったため、様々な人物が将軍を補佐します。
13人の合議制はその後、約1年の運用期間をもって廃止していますが、1年の間に将軍の発言力は低下。北条氏が実権を握るには十分な期間となったのです。
北条氏はもともと、権力を欲していました。そして、自分達の権力を確固たるものにするため、合議制の他のメンバーを排除したり、2代将軍・源頼家を幕府から追放したりするという行動に出ます。1203年(建仁3年)、追放された源頼家に代わって3代将軍となったのが「源実朝」(みなもとのさねとも)。
源実朝は源頼朝の次男で、将軍就任当時は12歳でした。幼い将軍に代わって、実質的に実権を握ったのが初代執権である「北条時政」です。北条時政は、源実朝の代行として所領裁判を開始。
本来、将軍が判断しなければならない決定権限を、すべて自分の署名で行うようになったのです。しかしその後、北条時政は失脚。北条時政に代わり源実朝の補佐役となったのが、北条政子とその弟「北条義時」(ほうじょうよしとき)でした。
幕府の実権を握った北条氏でしたが、まだ権力は盤石な状態とは言えません。その理由は、北条氏に匹敵するほどの大きな影響力を持った有力御家人が複数いたためです。源平合戦で活躍した御家人達は、鎌倉幕府内で起こった権力争いで次々に滅亡していきます。そして、その矛先はついに和田義盛にも向くことになるのです。
1213年(建暦3年)2月、北条氏や将軍・源実朝への謀反の罪で「泉親衡」(いずみちかひら)と言う御家人が捕縛されます。反北条派のひとりで、クーデターの首謀者として捕縛された泉親衡は、自分が行おうとしていたことや、クーデター計画関係者の情報をあっさりと自白。
そして、そのなかに和田義盛の子である「和田義直」や「和田義重」、さらに甥の「和田胤長」(わだたねなが)の名があったのです。和田義直らが謀反の罪で捕まったことは、すぐに和田義盛に伝えられ、和田義盛は息子達を助けるために源実朝へ願い出ました。
当時、和田義盛と源実朝は友好的な関係であったため、源実朝も和田義盛の願いを聞き入れるつもりでいたと言います。その結果、3人のうち和田義直と和田義重の2人は解放。しかし、和田胤長だけは許されませんでした。
じつは、和田胤長はクーデター計画の首謀者のひとりだったのです。そして、北条義時はこの状況を利用して、和田義盛を挑発する作戦に出ます。和田義盛の前に現れたのは、縄に縛られた状態の和田胤長でした。その姿はまるで囚人。
このような仕打ちをするように仕向けたのは、他でもなく北条義時です。一説によると和田胤長は、北条義時の命によって和田義盛が見ている目の前で縄に縛り上げられたとも言われています。北条義時の挑発行為はこれだけではありません。和田胤長の屋敷を没収したり、和田義盛に与えられる予定だった領地を横取りしたり、挑発行為を繰り返したのです。
1213年(建暦3年)4月27日、和田義盛は北条氏を討つために挙兵を決意。このとき、和田義盛の身を案じた源実朝は和田義盛に手紙を送っていますが、和田義盛はこの手紙に対して「殿に恨みなどありません。
ただ、北条義時の勝手な行いを問い詰める準備をしているだけです」と返します。1213年(建暦3年)5月2日、北条義時を討つため、和田義盛が反北条派の御家人達に呼びかけていた矢先のこと。協力を呼び掛けていた三浦氏が、突如として北条氏に寝返る事態に発展。頼りにしていた兵力を失った和田義盛ですが、それでも北条軍との戦いを中止することはありませんでした。
のちに「和田合戦」と呼ばれる戦いははじめ、兵力差があるにもかかわらず両軍互角だったと言います。しかし、状況は少しずつ和田軍の不利に傾き、和田軍は由比ヶ浜まで撤退していきました。援軍が駆け付けますが、和田軍の不利は変わりません。
1213年(建暦3年)5月3日、北条軍にも続々と援軍がやってきます。奮闘していた和田義盛のもとに、「和田義直が討たれた」との一報が入りました。最愛の息子を失ったことを知り、和田義盛は戦意を喪失。刀を構えることもなく、ふらふらとしていたところを郎党によって討ち取られるのです。
大将を失った和田軍は一気に崩壊。戦後、和田氏一族は200人以上が斬首に処されて、その首級を固瀬川(現在の境川)に晒されました。
「朝比奈義秀」(あさひなよしひで)は、1176年(安元2年)に和田義盛の三男として誕生。姓が和田ではなく朝比奈である理由は、安房国朝夷郡(あわのくにあさいぐん:千葉県南房総市、及び鴨川市の一部)を所領していたためです。朝夷郡は、古くは「あさひなのこおり」と呼ばれていたため、朝比奈義秀は朝比奈の姓を名乗りました。
「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ:鎌倉時代前期から鎌倉時代中期の出来事を記した歴史書)には、「和田合戦の際に最も活躍したのは朝比奈義秀」と書かれており、詳細な合戦の様子が記されています。
朝比奈義秀は武勇に優れていたため、北条軍の御家人達を次々に切り伏せ、和田軍が由比ヶ浜へ撤退するまで多くの敵を討ち取りました。また、由比ヶ浜で父・和田義盛や和田一族の者が討たれるなかでも、朝比奈義秀だけは生き残り、生き残った仲間を船に乗せて所領の安房国へ脱出したと言われています。
和田義盛が討死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」と言う地名が存在。和田塚は、江ノ島電鉄「和田塚駅」から海の方面へ歩くと辿り着きます。
ここは、鎌倉唯一の高塚式古墳(墳丘のある古墳)で、明治時代中期まで「無常堂塚」(むじょうどうづか)と呼ばれていました。
無常堂塚が和田塚と呼ばれるようになった経緯は、1892年(明治25年)まで遡ります。この年に行われた道路改修工事で、土器や埴輪(はにわ)の断片に混ざって多数の人骨が発見されました。なかには、刀を握ったままの人骨もあったため、和田合戦で討死した和田一族が弔われた場所なのではないかと推測されます。
そののち、1909年(明治42年)に「和田一族戦没地」や「和田義盛一族墓」と記された供養碑が建立され、無常堂塚は和田塚と呼ばれるようになったのです。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1147年(久安3年) | 0歳 |
「三浦義明」(みうらよしあき)の嫡男「杉本義宗」(すぎもとよしむね)の子として誕生。
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1180年(治承4年) | 34歳 |
源頼朝の挙兵に協力。鎌倉幕府の侍所初代別当に就任。
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1184年(元暦元年) | 38歳 |
平家討伐のため、「源範頼」(みなもとののりより)軍に従軍。
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1185年(元暦2年) | 39歳 |
平家追討軍に加わり、壇ノ浦の戦いで活躍。
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1189年(文治5年) | 43歳 |
「奥州合戦」に従軍し、藤原氏討伐を行う。
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1199年(正治元年) | 53歳 |
13人の合議制に参加。
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1203年(建仁3年) | 57歳 |
「比企能員の変」で比企氏討伐軍に参加。
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1205年(元久2年) | 59歳 |
「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)で討伐軍の大将として出陣。
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1213年(建暦3年) | 67歳 |
和田合戦の末に戦死。
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