「比企能員」(ひきよしかず)は、「13人の合議制」のひとり。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」や2代将軍「源頼家」を支え、権勢を握った比企能員ですが、その権力の大きさゆえに「北条氏」から目を付けられることになります。比企能員とは、どのような人物だったのか。ここでは、比企能員の生涯と、比企能員が起こした政変「比企能員の変」についてご紹介します。
「比企能員」の前半生は、史料が遺されていないため、両親がどのような人物であったのかは不明です。通説では、叔父は「むかで退治伝説」で有名な「藤原秀郷」(ふじわらひでさと)通称「俵藤太」(たわらとうた)の流れを汲む、武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)の代官「比企掃部允」(ひきかもんのじょう)。
そして、叔母は藤原秀郷の妻で「源頼朝」の乳母(めのと:母親代わりとして子育てを行う女性)を務めていた「比企尼」(ひきのあま)と言われています。比企掃部允は、「源為義」(みなもとのためよし:源頼朝の祖父)、及び「源義朝」(みなもとのよしとも:源頼朝の父)の2代に仕え、比企尼は源義朝の嫡男である源頼朝が誕生した際に乳母となりました。
その後、源頼朝が「平治の乱」ののちに流罪によって約20年間、伊豆で過ごすことになったときも、2人は源頼朝を支援し続けます。比企掃部允がいつ没したかは定かではありませんが、2人の間に男児はいなかったため、比企尼は甥の比企能員を猶子(ゆうし:養子)として迎えて、比企氏の家督を継がせました。
そして、比企尼は源頼朝に「比企能員をぜひ側近にして下さい」と願い出たことで、比企能員は源頼朝の側近となります。
このとき、比企能員は源頼朝の乳母の甥と言うことで、手厚くもてなされました。そのあと、源頼朝と妻「北条政子」の間に嫡男である「源頼家」が誕生した際には、比企尼の働きぶりが評価されて、比企能員もまた源頼家の乳父(めのと:養育係を務める男性)に抜擢。以降も比企能員は、源頼朝に従軍し、様々な戦に参戦しながら源頼朝の信頼を獲得していきます。
1198年(建久9年)、比企能員の娘「若狭局」(わかさのつぼね)が源頼家の側室となって、長男「一幡」(いちまん)を出産。一幡の祖父である比企能員は「外戚」(がいせき:妃や権力者の娘の一族)となったことで、権勢を振るうようになります。
1199年(正治元年)1月、源頼朝が没すると、源頼家が2代将軍に就任。当時、源頼家は18歳でしたが、それまでの習慣を無視した独裁的な政治を強行。
源頼家が独裁者的な考えを持ってしまった背景には、父・源頼朝の存在がありました。源頼家は、生まれたときから「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府将軍)として多くの期待をされながら成長し、12歳の頃には、ひとりで鹿を射止めるほどの狩りの腕前を持ち、「古今に例を見ないほどの武芸の達人」として名を馳せたのです。
しかし、将軍となったことで張り切る源頼家とは反対に、仕えていた御家人達の不満は次第に高まっていきました。鎌倉時代の封建制度は「御恩」と「奉公」で成り立っています。御恩とは、将軍が戦で活躍した御家人へ領地を分配すること。
そして、奉公とは御家人達が有事の際に将軍のために共闘することです。父・源頼朝は、その高い人望とカリスマ性で、若い頃から多くの御家人達を仲間に引き入れてきました。御恩と奉公の関係性が成り立っていたのは、源頼朝がそうした才能に恵まれていたためです。
一方で、源頼家は「生まれながらの鎌倉殿」とは言え、政務に関する経験はまだまだ未熟なただの若者。そんな源頼家から命令をされて、幕府だけではなく、朝廷でも鎌倉幕府の反対勢力が活発化しはじめます。
鎌倉幕府の崩壊を誰よりも恐れたのが、源頼朝の妻である北条政子でした。北条政子は、源頼家のサポートとして「13人の合議制」を発足。13人の合議制とは、13名の有力御家人達で鎌倉幕府の政治方針を定めると言う制度のこと。源頼家のやり方に不満を持っていた御家人達を直接、政治に参加させることで鎌倉幕府存続を狙ったのです。
13人の合議制によって、鎌倉幕府は崩壊を免れますが、じつは北条政子が企んでいたのはそれだけではありませんでした。13人の合議制を行った別の目的、それは「鎌倉殿の発言力を低下させること」です。鎌倉殿から実権を奪うことで、北条氏は「執権政治」を実現させることに成功します。
13人の合議制が発足された当時、比企能員もそのひとりに選ばれました。源頼家は乳父だった比企能員を非常に信頼し、比企能員もまた反将軍派が多くいた鎌倉幕府内で源頼家をサポートしていたと言います。
しかし、比企能員はそれが理由となって、将軍の権力を抑えようとする北条氏と対立するようになるのです。1199年(正治元年)10月、13人の合議制のひとりで、源頼朝の右腕として絶大な権力を握っていた「梶原景時」(かじわらかげとき)が、謀略にかけられて幕府を追放される事件が起きます。
のちに「梶原景時の変」と呼ばれるこの出来事をきっかけにして、幕府内部における権力闘争は激化。梶原景時が失脚したことで、源頼家を支える存在は比企能員のみとなりました。このとき、比企能員は外戚としての権勢を強めていたため、北条氏は比企能員の台頭に危機感を抱いていたと言います。
1203年(建仁3年)7月、源頼家が突如急病により倒れ、翌月の8月には危篤状態となりました。こうした状況で問題となったのが、源頼家の後継問題です。源頼家が没したのち、将軍職を継ぐ候補は2名いました。それが、源頼家の嫡子である一幡と、源頼家の弟「源実朝」(みなもとのさねとも)です。
本来であれば、嫡子である一幡がすべての領地を相続されるはずですが、このときに幕府の宿老達は分割相続を提案。その内容とは、一幡には「関東28ヵ国地頭職」、及び「日本国総守護職」を、源実朝には「関西38ヵ国地頭職」をそれぞれ相続するというものです。
この提案に比企能員は反発し、娘である若狭局を通して、病床に伏していた源頼家へこの話を報告。若狭局から話を聞いた源頼家もまた憤慨し、分割相続の黒幕とも言える初代執権「北条時政」(北条政子の父)を追討することを命じます。ところが、この密議を障子越しに聞いていた人物がいました。
それが、北条政子です。北条政子は2人の会話をすぐに北条時政へ報告。当時、北条時政は仏事があったため、鎌倉にある屋敷へ戻る途中だったと言います。
しかし、北条政子から報告を受け、行き先を政所別当(まんどころべっとう:政務を執り行う機関の長官)である「大江広元」(おおえのひろもと)の屋敷へ変更。北条時政は、大江広元へ「比企能員が源頼家の名を使って反逆を企てているとの報告が入った。なので、我々が先手を打って比企能員を討たねばならぬ」と話します。
大江広元はこの話を信じて北条時政を支持。ついに北条時政は、邪魔な存在だった比企能員を誅殺する計画を企てるのです。
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政は比企能員に「薬師如来の供養会を行うため、比企氏も参列していただきたい。また、他にも相談したいことがあるので、早めに来てもらえるだろうか」と連絡を送ります。
この話を聞いたとき、比企能員の息子や郎党は、比企能員が行けばただでは済まないと感じたのでしょう。比企能員に対して「行ってはなりません、殺されます」と強く引き留めたと言います。
しかし、比企能員は「私が行かなければ、かえって疑われるだろう。また、武装などはもっての他だ」と返し、北条時政の自宅である「名越邸」(なごしてい)へ出発。
最低限の従者を引き連れ、武装を一切していない状態で名越邸内へ入った比企能員は、そこで突然、「天野遠景」(あまのとおかげ)や「仁田忠常」(にったただつね)など、北条時政の配下達に両腕を取り押さえられ、引き倒されたところで刺殺されます。比企能員が討たれた情報は、すぐに比企一族へ伝えられました。
比企氏の親族・郎党は一幡の屋敷である「小御所」(こごしょ)に籠城しますが、これを謀反と判断したのが北条政子です。比企一族を滅ぼすため、大軍が小御所へ進軍。一説によると、比企能員が討たれてから小御所へ襲撃されるまで3時間足らずだったと言われています。同日15時頃に小御所へ押し寄せた大軍は、比企一族との戦闘を開始。圧倒的な戦力差でしたが、比企氏の抵抗に一時は追討軍が撤退する場面もあったと言います。
しかし、籠城する比企一族はその後、放たれた火によって逃げ場をなくし、一幡も含めて比企一族はほとんどが自害。また、生き残っていた者達もことごとく討伐されます。1203年(建仁3年)9月3~4日には、比企氏に加担した者達に対する処断が行われました。
比企氏が有していた所領はすべて没収。病状が回復した源頼家がことの顛末を知るのは、翌日の9月5日のことです。源頼家は、比企能員が討たれ、比企一族が滅亡したと言う報告を受けて激怒。13人の合議制のひとり「和田義盛」(わだよしもり)らに北条時政を討伐するように命令を下しますが、和田義盛はこの話を北条時政へ報告してしまいます。
その結果、源頼家は北条政子によって出家させられることになり、幕府から追放。伊豆の「修禅寺」(しゅぜんじ:現在の静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院)に幽閉された源頼家は、翌年の1204年(元久元年)、北条氏によって誅殺され、21歳の若さでこの世を去ります。
「若狭局」(わかさのつぼね)は、比企能員の娘で源頼家の妻妾。若狭局の生年は不詳ですが、源頼家との子・一幡は、1198年(建久9年)源頼家が17歳のときに産んだとされています。
1203年(建仁3年)8月、一幡が6歳になったときに源頼家が危篤となり、ほどなくして比企能員の変が起こりました。比企能員が討たれ、比企一族が一幡の屋敷に立てこもった際、若狭局もその場にいたと言われています。
若狭局の最期については、鎌倉時代前期から鎌倉時代中期までの出来事を記した歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)と、鎌倉時代前期の史論書「愚管抄」(ぐかんしょう)でそれぞれ異なっており、吾妻鏡では一幡の屋敷に火が放たれたとき、若狭局は一幡とともに焼死したと記載。一方で愚管抄では、若狭局は一幡を抱いて屋敷から逃げ延び、そののち「北条義時」(ほうじょうよしとき)の追っ手に捕まって刺殺されたと書かれています。
比企能員の屋敷跡に建立された「妙本寺」(現在の神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山)には現在でも、「比企一族供養塔」や、焼け跡のなかから見つかったと言う一幡の袖を祀る「一幡の袖塚」が存在。
妙本寺を開基(かいき:仏寺を創立すること)したのは、比企能員の末子である「比企能本」(ひきよしもと)です。
じつは、比企能本は比企一族が滅ぼされた当時、別の場所にいたため、比企能員の妻妾とともに助命されていました。比企能本は、和田義盛に預けられたあとに安房国(現在の千葉県南部)に配流され、その後は第84代天皇「順徳天皇」に仕えるようになります。
のちに「日蓮」へ帰依(きえ:神仏や高僧を心の拠り所とすること)し、妙本寺の前身となる法華堂(ほっけどう:普賢菩薩を本尊として法華三昧を修行する堂)を建立。妙本寺は現在でも、日蓮宗最古の名刹(めいさつ:有名な寺)として全国的にも知られています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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誕生年不明。
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1184年(元暦元年) | ― |
平氏追討に従軍。
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1189年(文治5年) | ― |
「奥州合戦」に北陸道大将軍として参戦。
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1190年(建久元年) | ― |
「大河兼任の乱」(おおかわかねとうのらん)に東山道大将軍として出陣。
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1199年(正治元年) | ― |
13人の合議制に参加。
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1203年(建仁3年) | ― |
比企能員の変により誅殺。
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